【関ヶ原にて】(前編)
関ヶ原。
北に伊吹山の裾、東に南宮山、南に松尾山、西に天満山があり、それぞれが一辺をなして形成された四角い盆地である。
その四角に、中山道を始めとする主要な道が対角線に通っている。日本有数の要衝であった。その地理的条件によって、過去にもこの地域で大きな合戦が起きていた。
そんな関ヶ原に先に入った西軍は、東軍の追跡を振り切れないとみるや、地の利を得て東軍と対峙する方針を急遽とった。一六○○年九月十五日のことである。既に日は南宮山より高く昇っているが、濃い霧でその姿は見えない。
盛親は、ハッと目を覚ました。気づかないうちに、眠ってしまっていたらしい。
何しろ、夜通し歩いてきた上に、じっと息を潜めて敵を待っているのである。まとわりついて来る睡魔に抗う方法が無かったのだ。
慌てて耳を澄ませる。だが、物音ひとつしない。変化は無いようだ。どうやら、寝たのは一瞬だけらしい。けれども、その一瞬の間に夢を見た。昨夜の父との会話の夢を。
「……父上の言った通り、本当に戦うことになりそうだな……」
盛親の小さな呟きは、霧に混じった。
──昨夜。大垣城守備隊は、西へと転身を始めた。東軍に悟られないようにするため、松明の一つも持たない無灯火行進である。しとしとと雫を垂らす雨雲が月明りさえ遮っており、前を歩く仲間の背中のみを頼りに彼らは闇の中を歩き続けた。
先頭を三成の隊が行き、最後尾を秀家の隊が固める。その他の隊は、間に挟まれるようにして夜道を歩いていた。長宗我部の隊は、前から二番目を歩いている。
「関ヶ原の北西に、笹尾山という小さな山がある。盛親は二個連隊を率いて、そこの東に伏せていてくれ」
元親から突然命じられた指令を、盛親は簡単に受諾できなかった。
「どういうことですか父上? そうすると、私だけ置いてけぼりを喰らうことになりますが……」
暗闇の中で、元親の目は光っていた。
「ならない。途中で命令が変更され、絶対に戦うことになる」
「何故、そう言い切れるのですか?」
元親は言い淀んだ。その理由は、盛親には分からない。
だが、自分が知りうる限り父の予見が外れたことはない。それだけは分かる。
「……分かりました。詳しく場所を教えてください」
──「それにしても、念の為に調べたというには詳しすぎるよなあ」
美濃に来る道中は、ここから南にある伊勢を通ってきた。小田原に行くときは海路である。関ヶ原を通ったことは一度もない。戦場となる可能性があるから調べたといっても、美濃周辺には合戦場に相応しい開豁地がどこまでも広がっている。それなのに、関ヶ原の偵察を済ませているというのはどういうことだろうか?
「……もしかしたら、全て調べ上げているのかもしれないなあ」
慎重な父のことだから。と盛親はとりあえず結論づけた。
その直後、鉄が触れ合う音がした。前方からだ。それは、どんどんと音量と数を増していっている。
来た。
盛親は、そっと後ろを振り返った。霧の中で見える範囲であるが、木立の中に隠れ、ただじっと盛親の顔を見つめ返しているのが見える。
黒い野良着に同色の手甲脚絆。普段の一領具足の恰好はこれで統一されている。だが、今は気温が低い季節なため、それぞれ自前の防寒具を羽織っており、統一感は無い。そこだけ見れば、地元の農民との違いは無いだろう。
けれども、所属連隊の色を表す彩色に染められた襷、柄が極端に細い脇差、そして全員に配られている火縄銃。この三点が、彼らが長曾我部の精鋭であることを示していた。
一領具足たちは勝手な行動をしてはいない。それが分かると、盛親はまた視線を前方に戻した。こちらが動くのは、まだ先の話である。
それからしばらくすると、右手──笹尾山──の方が騒がしくなった。喊声が上がり、銃声も聞こえ始めた。
霧に混じった硝煙の匂いが漂ってきた。盛親はそこで、初めて火縄を点じさせた。
とはいえ、潜伏中の時である。大声で命令を発したりはしていない。ただ自分で火縄を点じただけだ。そうすれば、前方にいる自分の動きに合わせて周りの一領具足も点じ、それが無言の逓伝となって全隊が同じ行動をする。そういう命令を、ここに伏せる前に下しておいた。
全員が装填を完了したであろう頃、敵の旗印が盛親の目に入った。九州の黒田家だ。どうやら、徐々に霧が薄くなっていっているらしい。慌ただしく動く敵影が、おぼろげながら見える。
盛親はゆったりと銃を構えた。銃を構えるというのは久しぶりであったが、体は覚えているようで銃身を支える左手にしっくりと来る重みがのしかかった。
筒先を、敵影の一つに向ける。
月夜に霜が降りるが如く。そう鉄砲の先生が言っていたのを思い出しながら、盛親は引き金を引いた。
銃声は、盛親の記憶よりも大きかった。だが、体はやはり覚えていたようで、緊張で硬くなること無く柔らかく反動を吸収し、狙い通りの箇所に銃弾を送り込んだ。
手ごたえはあった。だが、その戦果は確認できていない。何故なら、一瞬の間も置かずに数百の弾丸が盛親の脇を飛び、それが狙った箇所の周辺をなぎ倒したからだった。
二千の弾丸を以て行われた伏撃は、丁度三成の隊と交戦していた黒田家とそれに付随するようについてきた諸隊を一挙に半壊させた。
前に出る必要が無くなったため、盛親は後方に下がりながら言った。
「徳川の本隊が後詰に来るまで、このまま撃ち続けるぞ!」
この期に及んで、元親は徳川との交戦を固く禁じていた。その真意を盛親は未だ測りかねているが、かといってその命を破るようなことはしない。何か自分に考えつかないようなことを考えているのだろうから。
盛親自身も五回撃った頃、前方の敵の姿が無くなった。物言わぬ者たちが転がっているばかりである。
盛親は撃ち方止めの号令をかけ、一息入れさせた。敵はまだ万単位でいる。長期戦となることは必定だろう。
「父上は今頃どうしているだろうか……」
ふと、それが気になった。負ける心配はしていないが、何をしているのかが気になる。
元親は四千を率いて南の方に布陣するつもりだといっていた。小早川一万五千が布陣している松尾山の近くである。
霧は薄れつつあった。その代役を務めようとしている硝煙の隙間から、元親が布陣している方を見た。
小早川一万五千が、友軍に襲い掛かっているのが見えた。




