【ふらふらして】(後編)
元親が大坂に着いたのは、昼過ぎ頃だった。
屋敷に戻らずそのままの足で、豊臣政権の運用を担う奉行衆の一人、増田長盛に会いに行く。
長盛邸の前まで来ると、使いを先行させていたのもあって、門を開けて迎えられた。
「ようこそ、土佐侍従守殿。病に倒れられていたと聞いておりましたが、自ら馬を走らせているのを見るに、お元気になられたようで何よりです」
不審がる様子は何一つない。休まずに駆けてきた甲斐があった。
長盛と元親の関係性も、決して浅くはない。長盛は取次として、豊臣政権に組み込まれた元親に対して、色々世話を焼いてくれた。
長盛は長い首を伸ばし、元親の肩の肩越しに盛親を見た。
「盛親殿も、お変わりないようで」
「はい。元気で暮らせております」
長盛は、盛親の烏帽子親でもある。盛親の『盛』は、長盛の『盛』から取っていた。
「それは重畳。……ところで、ささやかながら、昼餉を用意させていただきました。よろしければ、どうぞ、お入りください」
盛親の提げていた握り飯の余りを頬張りながら来ているため、腹はそこまで空いていない。だが、ただの昼食会で無いということは分かっている。
「遠慮なく」
誘われるままに、門をくぐった。
長盛の用意した昼食は、山海珍味が惜しげもなく出されている豪勢なものだった。これほどまでの料理を、元親が来訪を告げてから到着するまでに用意するというのは、簡単にできることではない。奉行としての敏腕さが、この一事で見て取れた。
「どうされました、土佐侍従守殿。先程から箸が進んでおらぬようですが……」
もしや、口に合わなかったのでは? と長盛が不安そうに尋ねて来た。
「いえ、料理はどれも美味しく、国許に帰っても、これほどまでの物は口に出来ないでしょう。ただ、歳のせいで食が細くなっただけです」
全部、本当のことだ。犬の餌を食べたのが悔やまれる。
「そうですか。残してしまっても構いませんので、程良き具合で収めてください」
「お気遣い、痛み入ります。ところで」
と言って、元親は箸で佃煮に入っているエビを掴んだ。そこまで大きくはない。
「このエビは、見たところ川エビのようですが、琵琶湖で獲れたので?」
「その通りです。スジエビと言って琵琶湖で水揚げされたのを、毎週、当家に卸させています」
元親は感心した風を装って、エビの話題を続けた。
「琵琶湖のどの辺りで?」
「さあ、どうでしょうか?」
「北の方とか?」
「……かもしれませんね」
長盛は困惑し始めた。なぜこの老人は、エビにここまでの興味を持ったのだろうか。
元親は、別にエビ談義がしたくて話題を振ったわけではない。だが、上手く事が運ばなかったため、やや強引さを自覚しつつ、切り込んだ。
「佐和山の辺りとか?」
長盛は、怯えるような顔つきになった。
「……滅多なことを申されますな。まるで、私が『冶部少輔』と繋がっているようではないですか」
不安そうに部屋中を見回しているが、元親と盛親以外には誰もいない。
いや、これは失礼しました。と普通なら引き下がるべきなのだろうが、元親は敢えて押した。
「違うのですか? 冶部少輔殿とは同じ奉行であり、その仲も深いと聞いていましたが……」
「いや、仲が深いことに変わりはないが……。とにかく、あらぬ噂が立つのは困ります。そのようなことは今後、二度と、口にしないでいただきたい」
「もしかすれば、彼と同じように蟄居という可能性もありますからなぁ。噂というのは、怖いものです」
「全く、その通りです」
長盛が同意したところで、思い出したように元親は言った。
「噂と言えば」
「噂と言えば?」
「実は今朝、内府の方に挨拶に伺ったのですよ」
さりげなく、『殿』を省略している。
「はぁ……、それはまた……」
長盛は顔色を悪くした。家康の名を出して脅しているのか、と怯えているのだろう。
「いやいや、大した用件ではありません。単に、大坂に屋敷を移すということで、その挨拶に伺っただけです」
「ほう」
長盛の顔色に喜色が加わった。まるで、味方が増えたかのようである。
「ただ、一つ」
「何か?」
「先程言った、噂です。噂。内府と対面したのが茶室であったため、そこであらぬ密議を交わしたという噂が立たぬかと……。豊臣に仕えて早十年。何かあれば、真っ先に駆け付ける所存でありますのに──」
──盛親がむせた。二人分の視線が集中する。
盛親は胸を何度か叩いた後、非礼を詫びた。
「……いや、失礼しました。汁物の湯気が……」
元親は、視線を長盛に戻し、話を続けた。
「長盛殿もご存じの御船。あれの完成も、もう間近です。船おろし(進水式)の際には、是非とも御乗船いただきたい。それで、関東にまで出かけましょう」
「あれを、内海(東京湾)に……?」
元親はゆっくりと頷いた。
昼食会は、終わった。
元親たちが退出した後、長盛は急いで人を呼んだ。
「はい、こちらに」
来たのは、古くから仕えている草の者であった。白髪が目立つ歳なだけあって、耳が遠かった。
「治部少輔に連絡を。……違う、菖蒲ではない。治部少輔だ。じ、ぶ、しょ、う。だから、菖蒲ではないと言っておるだろう! 三成だ! 佐和山の石田三成に連絡をせよ! 『一領具足六千がこちら側についた』と!」
苛立ちながら用件を伝え、下がらせようとすると、草の者が、何か言いたそうにしていた。
「どうした? 申せ」
「土佐守のことですが、『徳川殿に何があっても御味方する』と言ったという噂があるようで」
「そんなの、ただの噂に過ぎん。早く行け」
長盛は片手をひらひらと振って、下がらせた。
「よーしよしよし、大人しくしろよ、五十六。お前も大坂に行くんだぞ」
盛親は優しく声をかけながら、五十六に首輪を通した。
盛親は一人で伏見に戻っていた。何故かというと、伏見の屋敷を引き払うよう、父から言われたからである。
引き払う時には、犬たちを連れてくるようにも言われていた。
「……すっかり暗くなったなぁ」
近くの屋敷に連れ帰るだけとはいえ、七十三匹ともなると、かなりの大仕事であった。屋敷を引き払うには、彼らに関すること以外にも、家財道具の搬出、付き合いのあった大名への挨拶、家人たちに暇を告げる、等やることが山積みであった。
「……まあ、一つずつ、ゆっくりとやっていくか」
本人の気性に合った、ゆったりとした速度で屋敷に帰っていると、五十六が立ち止まり、上空を見つめた。
「どうした? ……蝙蝠か」
日の落ちた暗い空を、小さな影が飛んでいる。盛親は、かつてそう呼ばれていたことから、父親を連想した。
「……父上は、どうなさるおつもりなのだろうなぁ」
両派に味方すると告げて、どういう了見なのだろう。上手くやったように見えるが、最悪の場合、どちらが勝っても潰される危険性がある。
伏見に発つ前、盛親はそれを指摘したが、元親は、
「言葉のまんまの意味だ」
と、はぐらかすように答えた。
「……まあ、愚息では考えつかないようなことを企んでいるのだろうけどなぁ」
頭上の蝙蝠は、先の見通せない闇の中を、左右にふらつきながら飛んでいた。




