【ふらふらして】(前編)
元親は屋敷を出た。
門が観音開きに開かれると、朝日を背負った伏見城が目に入った。天下人の隠居先だっただけあって、元親の居城の数倍は立派だ。
元親の向かう先は、そこだった。『今の』持ち主に挨拶するのが目的である。
「すっかり、寂れているな……」
人気が少ない。野良犬が一匹、地面をしきりに嗅ぎ回っている。
「まあ、粗方出ていっていますのでねぇ」
のんびりとした調子で、馬を並べている男が言った。骨太で、目がぎょろりとしている。
元親の四男、盛親だ。亡くなった長男・次男、他家を継いでいる三男に代わり、長曾我部の跡取りとなっている。
かつては大いに賑わいを見せていた伏見城下であるが、今は閑散としている。『自分が死んだあと、秀頼を大坂城に移せ』という秀吉の遺命のためだ。幼君を担ぐように、多くの諸侯も大阪へと移ってしまっている。
「残っているのは、伏見城にいる『内府殿』は当然として、加藤清正殿、加藤嘉明殿、福島正則殿、黒田父子、細川忠興殿、京極高次殿、伊達政宗殿……」
授業のように、盛親は次々に名前を上げていく。密かに町に繰り出しては、子供たちに読み書きを教えているらしいが、それは本当なのだろう。
盛親が上げている諸将は、秀吉の遺命に逆らってまで伏見に残っている。自分たちの立場がどこにあるのかを、表明していると見るのが自然だろう。
奇しくも、大坂から見て伏見は東にある。今後の展開を暗示しているといえた。
「……とまあ、この様な具合で。おっと、自分たちを忘れておりました。何しろ、他の方たちとは事情が違いますからなぁ」
様子を伺うように、さりげなくこちらに目を向けてきている。他の人間よりも目が大きいため、すぐに分かった。
盛親の言うように、長曾我部だけは事情が異なる。当主が病に臥せっていたために移動できなかっただけであって、自らの意思で伏見に残っているわけではなかった。
そのせいで、元親の真意を誰も知らない。跡継ぎである盛親でさえも。
元親は、小さく笑ってから言った。
「……まあ、これから分かるさ」
昔は、息子とは威厳を以て接しようとしていたが、今は地のまま接している。その結果、今の盛親が出来上がった。頼りないようでいて、戦場では目覚ましい働きをしたり、領国の統治を半分程担ったりしている。後を託すに足る人物に育ったといえた。それに、優しさもある。
横を通りかかった時、野良犬が吠えた。縄張りに踏み込まれて唸る、という感じではない。慣れた人間に、何かを催促しているようだ。
慣れた人間が、馬から降りた。
「よーしよし、五十六。今あげるからなぁ」
そう言って、巾着から握り飯を出すと、『お座り』や『伏せ』、『お手』などの芸を一通りさせてから与えた。
それらのことを終え、馬上に戻ると、
「お待たせしました、父上」
と言った。
「……今の犬は?」
「どこかの屋敷で番犬として飼われていた犬が、放たれたか、逃げ出したかで、町中をうろついているのですよ」
「……それで?」
「飢えて人を襲うようになってもいけませんし、ああして定期的に餌を与えているのです」
襲われないようにするというだけなら、殺処分してしまえばいい。そういう名目でうるさい声を避けているのだろう。
よくよく見れば、握り飯が出てきた巾着と同じ物が、幾つも鞍にぶら下がっていた。
「……五十六と呼んだけど、何匹同じような犬が?」
「七十三匹です」
そう答えた後、盛親は元親の視線に気付き、付けくわえた。
「今回の餌やりは、登城途中にいるもののみなので、ご安心ください」
「……そうか」
少し優しすぎるのかもしれない、と元親は思った。
「快癒なされたようで何よりです、元親殿」
狭い茶室を圧するような、丸々とした老人が言った。彼こそが徳川家康である。伏見城の今の主であり、大老という豊臣政権下で頂点に近い地位にいる。
諸侯からは秀吉の真の後継者、或いは、簒奪者と見られていた。
「これも、内府殿が煎じて下さった薬のおかげでしょう。重ね重ね、御礼を申し上げます」
元親が深々と頭を下げた。内府という呼び名は、家康が内大臣という官職についていることに由来する。
元親が頭を下げたのを見て、付き添いで来ていた盛親もそれに合わせた。
「そこまで畏まられなくとも。趣味で煎じた薬が、御同朋とも言える元親殿を助けたというのであれば、これ以上嬉しいことはありませぬ」
元親と家康の関係は、深い。小牧・長久手の合戦以来である。
その時の話になった。
「そういえば、御曹司殿は、その頃はお生まれであったかな?」
突然話を振られたものの、盛親は落ち着いて様子で答えた。
「はい。その頃は九つでありました」
「あっはっは。その時に九つの子供が、こんなに立派な武者振りに育っているとは。そりゃあ、儂も老いるわけだ」
『孫と話す祖父』といったような感じだった。分厚い瞼と目じりが垂れ下がっている。
「あの頃が懐かしく思われますなぁ、元親殿。我ら二人、今にして思えば無謀ながら、太閤殿下に盾突いて……、のお、万千代?」
「左様。どうにか連絡を密に取ることができていれば、或いは。と、今でも思う時がありまする」
万千代と呼ばれたのは、井伊直政であった。小牧・長久手の時、彼は取次として長曾我部・徳川間の連絡を受け持っていた。家康の寵童であった頃の面影を残す、涼やかな顔をしている。
自然とその話題になった、と言うには話が変わるのが急すぎた。家康の、近い将来を意識した工作の一環だろう。
その意図を読んだ元親は、話しに乗っかった。これこそが伏見城に来た目的だからである。
「……あの頃の盟約は、未だに続いていると自分は思っております」
場の雰囲気が、僅かに変わった。
家康は、朗らかさを損なわずに言った。だが、垂れ下がった目じりが元に戻っている。
「……どうですかな、屋敷に傷みとか不都合とかはござらんか? ご存じの通り、空き家が多くある故、望まれるのであれば、喜んで便宜を図りまするが……」
明確な返事ではない。だが、伏見での滞在を促しているということは、そういうことなのだろう。これで、元親の目的の一つである盟約の再確認は完了した。あとは屋敷に帰り、そのまま居座り続ければ、来年の辺りに起きる大戦の勝ち馬に乗れる。所領の安堵は間違いないだろう。
けれど、元親はその申し出を断った。
「お気遣い感謝いたしますが、太閤殿下の遺命に背き難く、近日中に大坂に移ろうと考えております」
家康は、虚を突かれたように目を瞬かせた。
元親は構わず言葉を続けた。
「それと、何があろうと自分は内府殿のお味方です。この言葉、お忘れなきよう」
そう言って、辞儀をして、席を立った。
家康は、特に返事をすることもなく、不審がりながら元親を見送った。
伏見城を出た時、元親は盛親に告げた。
「このままの足で、大坂に向かう」
まだ太陽は、東に低い。馬を走らせれば、昼過ぎに着くだろう。
「今からですか? 屋敷を移すには、諸々の準備が掛かりますが……」
「引っ越し自体は、後日行わせる。今は何よりも早く、大坂へ」
噂よりも。
客がいなくなった茶室には、まだ亭主たちが残っていた。
「土佐守殿は、自身の一挙手一投足が、どういった意味に取られるのか分かっておらぬ御様子」
呆れた表情で直政が言った。
大名ともなれば、高度な政治的駆け引きが求められる。にもかかわらず、元親のあの行動はどうした事だろうか。あのまま伏見に滞在する意思を示し、旗幟を鮮明にするべきではないのか?
家康は、じろりと直政を見た。
「……耄碌した、と言いたいのか?」
「……いえ、流石にそこまでは」
年老いた主君に憚り、直政は口だけは否定した。
「……気にするな。儂も同じことを思っていた」
直政は、黙って頭のみ下げた。否定も肯定もしていない。
「たとえ、主君が耄碌しているとしても、その下にある一領具足は侮れん。味方にするには頼りないにしても、敵に回したくはない」
小田原でも、朝鮮でも、あの珍妙な部隊は多大な戦果を挙げている。
その能力と実績から、徳川四天王とも、三傑とも評される直政は、瞬き一回分の間に妙案を思いつき、述べた。
「それならば、先程の話を市井に流すというのはどうでしょう」
『土佐守は、何があっても内府に味方する』という噂が流れれば、元親は大坂方にも信用を得られず、孤立する。
家康は、直政の献策を咀嚼するように小刻みに頭を動かし続け、やがて大きく頷いた。
「そうだな。直ちに流せ」
「はっ」
その頃、元親一行は、宇治川の堤の上を大急ぎで西へと走っていた。




