【跳び上がって】
秀吉は、死んだ。
一五九八年、秋のことである。
彼が天下を平らに均したのは、九一年。それから亡くなるまで七年の猶予があった。しかし、跡を継いだ息子秀頼は、未だ下の毛も生えないような歳若であり、後を託した親友も、亡くなっている。残っているのは、元同僚や上司であった臣下と、時勢の流れで服属を余儀なくされた群雄たち。均せど、踏み固めきれてはいなかった。
案の定というべきか、秀吉の没後一年を待たずして、ひび割れや凹凸が、あちこちででき始めている。
それらが天下を二分する地割れになるのは、時間の問題だろう。
否、なるのだ。
そう、確信を持った者が、何人かいた。その確信の原材料は、入手した情報を己が持つ能力で演算し、導き出した予測である。殆どの者がそうだ。だが一人だけ、『予知』を原材料にしている者がいた。彼は近い将来、とある場所で天下分け目の大合戦が起こることを『予め知っている』。
しかし、彼は死にかけていた。
一五九九年。夏。元親は病床で目を覚ました。
「明け方か……?」
障子を貫通した太陽の光が、眩しい。
「……いや、ここは西向きだったか」
どうやら、一日中寝ていたらしい。よく見れば、日光も赤味が強い。
ツクツクボウシが聞こえるというのに、肌寒く感じる。体中が怠い。
「……こりゃあ、もうダメかもな」
あと一年。あと一年、生き永らえることができれば、あの時が来る。
『関ヶ原の戦い』が。
だが、もう自分は、一月も生きられない。痩せ衰えていく体が、そう囁いている。
「十二年が、全部、無駄になるか……」
秀吉に対し、ひたすら恭順の姿勢を取り続け、密かに準備を進めてきた。しかし、その甲斐もなさそうだ。
元親の意識は、頭の中で時間を遡行していった。外国船が流れ着いた時、朝鮮に行った時、小田原に行った時がありありと脳裏に浮かびあがり、そして、あの日、叩き落とされた日が鮮明に蘇ってきた。
──「これで終わりでは、ここまでついて来てくれた者たちに申し訳が立たないでしょう」
冷ややかな声に振り返ると、黒い影が直立していた。日は完全に沈み、顔は見えないが、声で誰か分かる。久武親直だ。
「何故、ここに……?」
思ってもみなかった人物の登場に、自殺願望が散らされた。刃が、石畳に触れた音がする。
親直は、淡々として答えた。
「元親様討ち死にの噂を聞き、皆とその真偽を確かめに参っている途中、この島の漁師が『どこかの殿様が滞在している』というものですから。誤報だったようで何よりです」
左京進が死んだのだと元親は理解した。結果的に、九州に連れて行った重臣たちは、忠純を残して全員死んだことになる。
親直は、一層声を低めて言葉を続けた。
「……ですが、私の到着が少しでも遅れていれば、きっと、それは誤報ではなくなっていたでしょう」
空に浮かんだ三日月よりも鋭い眼光が、元親を見下ろしている。
「あなた様が亡くなれば、長曾我部はいったいどうなるとお思いですか?」
「……親和や親忠、千熊丸がいる。彼らのうち、誰かが後を継ぐだろう」
そんな無責任なことを言った後、元親は、しばらく口をつぐんだ。親直もそれに合わせるように、黙った。冬の夜は、真空のように静かで冷たかった。
そよ風が木々を揺らし、枯れ枝がぱらぱらと落ちた。その音に混じり、親直の声が聞こえてきた。
「……秀吉殿は、次男の親和様が長曾我部を継ぐよう、朱印状を出されました」
「勝手に……!」
確かに配下となったが、世継ぎを決められねばならないほど世話になったわけではない。土佐も阿南も、自分の手で切り開いた領地だ。
一瞬、怒りが湧き起こったが、短い溜息によって全て吐き出された。
「……どうせ、何もかも無くなった家だ。むしろ、殿下の介入があった方が安定するだろう」
家臣の殆どが九州の地で亡くなり、長曾我部は領地経営すら困難な状況に陥っている。領地を返上して、旗本にでもなった方が良いかもしれない。
「となると、隠居する必要があるか……。まあ、丁度いい」
回復しえないであろう疲労感が、体にのしかかっている。これ以上は、何もできそうにもない。
「いえ、元親様は引き続き御当主として、長曾我部家を引っ張っていただきます」
「引き留めてくれるのは嬉しいけど、もう、疲れた。休ませてくれ。それとも、何か事情があるのか?」
返答に、一瞬間があった。親直という氷の様な男でも、躊躇するようなことがあったということである。
「……親和様は、毒を煽り、自害為されました」
「なぜ……!?」
と元親は思わず口にしたが、その理由は瞬時に理解した。
家を慮ったのだ。親和は香川家という讃岐にあった大豪族の養子となっている。そんな彼が長曾我部を継げば、おのずと香川家の勢力が家中で広まっていき、家の統制が取りづらくなる。それに、秀吉の口添えで当主の座についたとなれば、その影響力が更に強大なものになる。それらのことを理解していたため、事に及んだのだろう。
「……かなり穿った見方をすれば、秀吉殿はこうなることも織り込み済みで、朱印状を出されたのかもしれません」
元親の記憶にある秀吉は、気さくに話しかけてくれた好意的な人物像しかない。まさか、自分に対してそのような仕打ちをするとは到底思えなかった。
しかし、感情に反して、元親の将才が頭をゆっくりと上下させた。あり得る話である。第一に手回しが良すぎる。第二に、秀吉ともあろう男が、こうなることを予期しえなかったというのがあろうか。第三に、自分が向こうの立場であれば、同じことをしていたかもしれない。
元親はこの時、好意の厚化粧の下にあった敵意を初めて認識した。
そうなると、九州でのこと全てが、謀略の一環ではなかったのかと思えてきた。強引に信親を引きずり出したのも、小勢で府内を守らせたのも、増援が来るのが遅かったのも。
一度吐き出された怒りが、胸のうちに戻り、燃え上がる。しかし、所詮は戦国の世、元親自身、謀略を用いたことは一度や二度ではない。秀吉を憎むよりも、『なぜ、もっと早く気づかなかったんだ!?』という思いが強い。
しかし、十秒も経たずして、長い溜息と共にその怒りを吐き出した。
「……そうだとしても、今の長曾我部には何もできない」
「果たしてそうでしょうか」
きっぱりと言い切った親直を、思わず見上げる。
「元親様は先程、『何もかも無くなった』とおっしゃられました。確かにその通りです。ですが、逆に考えてみれば、身軽になったともいえます」
「身軽に……」
戸次川での合戦で、多くの重臣が失われた。中には断絶した家も多くある。だがそれは、裏を返せば──
「──長曾我部家の力が増したということか……!」
影の頂点部分が、僅かに動いた。
「津野家を始めとする『御やとい衆』の力がかなり削がれています。これを機に、一気に中央集権を図るべきです」
土佐で未だ大きな領地と影響力を持つ『御やとい衆』。彼らのせいで改革や事業が頓挫したことが幾度もあった。だが、彼らも弱っている今なら、妨害をさほど受けないだろう。
「……うん、そうか。……やるなら、徹底的にやろう。甘さも、捨てる」
急激な改革は、それについていけない没落者を産む。きっとそれらに感情を揺さぶられることもあるだろう。だが、それでもやる。この決意は、元親にとって、今までの自分との完全な決別の意味もあった。
しかし、親直は元親の決意をあっさり否定した。
「いえ、それをするのは、私の役目です。元親様は優しさをお捨てにならないでください」
「……優しさなんて、戦には役に立たない」
他者を思いやる気持ちが、殺し殺されの世界でいかほどの役に立つのだろうか。いや役に立つどころか欠点ともなっている。自分の甘さが一因となって、信親や五千の兵は死んでいるのだ。
「……言葉で説明するよりも、直に見てもらった方が早そうですね。──皆、こっちに来い!」
親直は、神社の入り口に向かって呼びかけた。その言葉は静かな夜をすんなりと通り、やがて、数百の足音になって帰ってきた。
「元親様、こんなところで終わるなんて、そりゃないですぜ」
「そうでさぁ。いつか再びお声がかかると思って、ずっと待っているのに」
「俺なんか、借金してまで鉄砲を買い戻したんですよ」
「恩着せがましく言うな。誰だってそのぐらいしとるわ」
元親を取り囲んだ数百の影が、口々にそう言う。
「彼らは皆、元親様の身を案じて駆けつけた、元一領具足たちです。俸禄を受けているわけではありません。ですが、皆がこうして馳せ参じたのは、ひとえに、元親様の優しさによるものです」
一領具足たちが、しきりに相槌を打つ。
親直は言葉を続けた。
「これだけ兵の一人一人と強い結びつきを持った大名は、他にありません。それこそ、秀吉殿ですら」
秀吉の下には、数十万の兵がいる。だが、それらは全て、間にいる諸侯を介して動かす。元親と同じ境遇になった場合、無報酬を承知で、どれほどの兵が集まることだろうか。
親直の口調が、段々熱を帯びていく。
「全員が、元親様個人のために働き、動き、戦います。全軍、いえ全領内がそうなれば、名誉や、誇り、加増を狙っての逸脱、自家の保存のための裏切り、駆け引き。そういう余計なものが一切なくなります。普段の政でもそうです。無理解な領主の了解を得る必要もなく、効率の良い施策を行え、税の徴収にも無駄が無くなります。土佐・阿南十八万石は、他家の十八万石と全く中身が違う物になるでしょう」
そうなれば、どれほど素晴らしいことでしょうか。と、親直は締めくくった。見えてはいないが、きっと、頬が紅潮していることだろう。
親直の思想は、時代から逸していた。そのために、兄からも疎まれていたのであろう。だが、その思想は、元親の目指すところと合致していた。
「……その通り。そうなれば、長曾我部はどこよりも強大になる」
力が欲しい。時代に振り回されないほどの力が。いや、それだけでは足りない。今度は、こちらが時代を振り回したい。
元親は、立ち上がった。
体の奥底から熱が湧き上がり、寒さを全く感じなかった。
──「走馬灯でも見ておるのか?」
久しぶりに聞いた女の声で、元親の意識は一五九九年に引き戻された。ののではない。彼女は十年前に亡くなっている。
「……ああ……、懐かしい夢を……、見ていたよ」
気付けば宵闇が、障子を下から薄黒く塗りつぶしつつある。
「今にも死にそうな声じゃな」
枕元でしゃがんでいる葛の髪は、顎の当たりでバッサリと切り揃えられていた。長く伸ばす必要性が無くなっているからだろう。血に汚れた扇子が、帯に挟まれていた。
「……もしかして……、今日……、死ぬのかな……?」
答えは、そこまで期待していない。ただ単に、彼女なら知っているのではないかと思い、それが勝手に口をついて出ただけだ。
だが以外にも、答えは返ってきた。
「……確かに、長曾我部元親は、今日、死ぬ」
「……やっぱり」
薄々というより、ひしひしと感じていた。
「教えてくれて……、ありがとう……」
そうと分かれば、しなければならないことがある。あと何時間残されているか不明だが、生きているうちに、盛親(千熊丸)にこの後の行動の指針を伝えておかねば──
「──じゃが、忘れておるのか?」
障子を透過している西日が、彼女の顔を朱に照らしている。
「……何を……?」
「お主は、長曾我部元親である以前に、小森なる者であったであろう。お主が今日死ぬとは、限らん」
「へ……!? じゃあ、この病状は……?」
寿命が尽きる兆候ではないのか!?
葛は吐き捨てるように言った。
「知らん。ただの夏風邪じゃろう」
「夏風邪って……」
『病は気から』とはいうが、夏風邪とはっきり言われただけで、体が幾分か楽になった。気づけば、季節相応に、暑い。夜着をはぐった。
葛は、堪えきれない分の笑いを漏らすと、立ち上がった。
「養生せい。それと、土佐に帰ったら顔でも見せよ。もう、十二年もほったらかされておったでな」
足音もなく障子の前まで歩き、葛は振り向かずに言った。
「……本来であれば、歴史における長曾我部元親の役割は、今日で終わる。つまり、これからお主が進む先は、歴史のしがらみが介在せぬ所よ」
障子が開けられた。西日の眩しさに、元親は反射的に目を閉じた。
「好きにやれ」
元親が薄眼を開けた時には、葛の姿は無かった。
「……せめて、閉めていってほしかったな……」
翌朝。元親は、目を覚ました。目覚めが良い。まるで、産まれ代わったかのようだ。体中にまとわりついていた怠さが、消えている。
寝たきり生活から完全に別れを告げるように、勢いよく起き上がる。思っていたよりも体が軽く、布団から跳び上がった感じになった。
「湯を沸かせ! 出かける前に風呂に入る!」
出かける先は二か所ある。それは『東』と『西』にあった。




