【地に墜ちて】
それから、数日が経った。
元親は、海を眺めていた。どこまでも広がる水平線が、夕日で赤く染まっている。
元親がいるのは、府内ではない。日振島という豊後水道にある小さな島だ。上原城も、府内も、捨てた。五千の兵が壊滅しているのだから、仕方がないだろう。
何もできず、ただ、落ちのびて来る者を待ち続ける日々であった。
「今日も、誰も来なかったか……」
誰か一人でも来てくれれば、何らかの情報が得られる。今の元親には、誰が生き延びているのかさえ、分からない。もしかしたら、全員死んだのではないだろうか。
日も暮れてきているため、元親が宿に戻ろうとすると、蛍の嬉しそうな声が聞こえた。
「西の方から一艘来とるで!」
しばらくすると、元親にもその舟が見えるようになった。漁船か何かだろう。そこまで大きくはない。『もしかして』という思いが、元親の中で膨らむ。
その舟が、砂浜に乗り上げた。乗船者が、降りた。
「……御領主様、やはり、こちらにおられたようで……」
「忠純! 今までどこに!?」
忠純は何故か僧の恰好をしていた。疲れ切っているのか、表情は浮かない。
「……義兄(非有斎)と縁のある寺に、匿って貰っておりました」
「そうだったのか。いやあ、良かった」
一人とはいえ、生存者が、しかも重臣が目の前に現れたことによって、元親の思考は前向きになった。もしかしたら、息子の行方を知っているかもしれない。
軽い気持ちで、元親は尋ねた。
「そういえば、信親がどこに行ったか知っている?」
聞かなければ良かった、と元親は後悔した。忠純の表情が更に沈んだからだ。
忠純は、何も言わず、懐から懐紙に包まれた何かを取り出し、差し出してきた。細長い棒状の様な物だ。
それを受け取り、懐紙を開き始める。簡単な作業の筈だが、手が震えて時間が掛かった。薄く糊がついているのか、僅かに接着している。
包まれていたのは、扇子だった。血糊で赤黒く着色されているが、見覚えがある。
「なぜ、これがここに……?」
「御曹司様が、最期にこれを……!」
『最期』という言葉を聞いて、元親はふらふらと歩き出した。周囲から見れば、何かに招かれるような足取りである。しかし、放心状態ではあるが、元親は自らの意思を以て足を動かしていた。島にある小さな神社へと。
夕日はその殆どを水平線の向こうに隠し、空の支配権を月に明け渡そうとしている。
「信親が死んだぞ……!」
あの場所は、遥か彼方にある。ここは、鳥居や社があること以外、共通点が無い。それでも、なぜだか分からないが、彼女がここにいる気がする。
「……そうか」
声の方を向くと、葛がいた。その様子からは、突然の訃報に悲しむというよりも、『やっぱりか』という諦めを感じる。
それもその筈だ。九州で信親が死ぬと、彼女は知っていたのだ。だからこそ、あのような予言をし、最後にあった時にあのような目をしてきたのだ。興ざめと、失望と、諦めの混じった目を。
そう思うと、ある想いがふつふつと湧いてきた。
「……何故、教えてくれなかったんだ……!?」
あのような曖昧な言い方でなければ、回避のしようはあった。島津の伏兵を看破できた。籠城策を強く推せた。無理やりにでも信親を土佐に置けた。いや、そもそも、秀吉に対して降伏などしなかった。全ては……! 全ては……!
この化生は、暇つぶしと称して現れた。となると、面白がってこうなるように仕向けたのではないか!?
沸きあがる感情のままに、葛に歩み寄り、両手で胸倉を掴む。扇子を手に持ったままだが、どうでもいい。
大人の体になった葛は、見た目よりも軽く、簡単に引き寄せられた。顔が、至近に迫る。
「……すまぬ」
彼女の目元に、輝きを放つ物があった。
初めて耳にする謝罪。初めて目にする涙。その二つによって、燃え上がった炎は瞬く間に鎮火した。それに合わせて元親の両腕はだらりと垂れ下がり、握っていた扇子までも落とした。
解放された葛は、扇子を拾い、丁寧に開いた。血に染まった蜻蛉の群れの中に一匹、頭を下にしたのが描き加えられている。
「……入蜻蛉」
入蜻蛉とは、土佐神社の建築様式にも使われている、逆さまの蜻蛉の形のことを言う。入蜻蛉の土佐神社では、いつもきまって戦勝の報告をする。つまり、戦から帰ってくるようにという願いが、この拙い蜻蛉の絵に込められているのだ。
ここにも、信親の無事を願っていた者がいた。それを知り、元親の感情の堰は耐えられなくなった。
元親は、数十年ぶりに涙を流した。
「すまない……! 本当に、すまない……! 本当に……!」
誰に向けた謝罪なのか、自分でも分からない。謝る対象が余りにも多すぎるから。立っていられず、地に伏せた。葛の気配はもう無い。それでも、ひたすら謝り続けた。
地べたを這いつくばりながら慟哭し続ける元親は、まるで、地に叩き落とされた蝙蝠のようだった。再び飛び立つこともできず、踏みつぶされるか、野垂れ死ぬかの二択をなすが儘に受け入れるだけの存在でしかない。
否、もう一つ選択肢があった。
元親は三つ目の選択肢を実行するため、脇差を抜いた。未使用故、鏡のように月明りを反射している。
その鏡の様な刀身を、首筋に当てた。刃物が元親の首筋近くにあるのは、この時代に飛ばされた日以来だ。
もはや、これ以上生きる意味はない。元親は、両手に力を込めた。
「──これで終わりでは、ここまでついて来てくれた者たちに申し訳が立たないでしょう」
冬の冷気よりも冷ややかな声が、元親の手を止めた。




