【呼び出されて】
「今回呼び出したのは、他でもない。九州についてよ」
そう話し始めた秀吉の距離は、近い。元親のすぐ前にいる。とはいえ、秋の謁見の時のように近づいてきているわけではなく、今いる空間が狭いがために、自然と二人の距離が短くなっているだけであった。二人は、大坂城内にある茶室にいた。
蝉の声が聞こえる。茶室の外壁に取り付いているのか、かなりやかましい。
春先、薩摩の島津家は行動を再開した。冬眠明けの熊のように、手近な獲物に猛然と襲い掛かり始めたのだ。襲い掛かられた獲物──豊後の大友家に、黙って食われる義理は無い。彼らは大きな悲鳴を上げた。その悲鳴が豊後水道、瀬戸内海を越えて近畿にある大坂に届き、そのやまびこが、四国山地を飛び越えて土佐にもやってきたために、元親は、はるばる大坂までやってくることになったというわけであった。
「助けを求められて、無視をするというわけにもいかん。それに、先年停戦するように命じた手前、儂の面子もある。故に、兵を送り込むことに決めた」
その送り込む兵の先鋒を務めるのが、四国勢なのだろう。元親は呼び出された時点でそう推察しており、それは秀吉の口によって答え合わせされた。
「九州の侵攻口は、二つ設ける。一つ目は、北九州の豊前。二つ目は、東の豊後。一つ目は中国勢が担当し、二つ目は四国勢が担当する」
それぞれの領地と担当の侵攻口が近い、妥当な采配であった。元親であっても同じ作戦を取るだろう。
だが、一つ疑問が残った。
「……豊後へ渡るのは、私共だけなのでございましょうか?」
複数の大名を以て攻めるのだとしたら、ここで元親と一対一で談じる必要はない。
一国半で、九州の大半にまで跨る大勢力を相手にするのは不可能であった。たとえ、その戦力の半分が豊前に向けられたとしても、一蹴されるのが落ちだ。
「……孤軍で儂の軍勢を退けた軍才があるだろう? ん?」
秀吉の目が細くなった。ただにこやかになったとも見えるし、値踏みしてきているようにも見えた。
「それはっ──たまたま天候に恵まれただけのこと、私の才など取るに足りません」
思わず、声が上擦った。危うく、闇に葬った真実を口にしそうになった。勝瑞城での一戦は、あくまで吉野川が雨によって氾濫したことで引き分けたことになっている。真実を知っている二人きりだからと言って、口を滑らしてしまえば、まずい。
秀吉は、元親の返事を聞き、大笑いした。その笑い声で驚いたのか、蝉の鳴き声は遠くなった。
笑いを収めた秀吉は、話を続けた。
「いやなに、一人というわけではない。同じ時間に呼びつけておるのだが、まだ来ておらんだけの──」
慌ただしく玉砂利を踏み散らす音が聞こえてきた。その音は、物凄い速さで茶室に近づき、その音源は障子に手をかけた。
「讃岐守、ただいま到着いたしました!」
開かれた障子の向こう側から、ゆったりとした着物の上からでもわかる隆々とした体つきをした男が現れた。謝意を示すためか既に跪いている。大粒の汗が、額や首筋を流れており、夏が暑いにしても大げさすぎるほどであった。
その男は、誰も聞いていないのにもかかわらず、遅参の言い訳を始めた。
「申し訳ありませぬ。登城中、馬が足を折ったため、やむを得ず自分の足で走ってきたのですが、着いたのがこの時刻。なんの申し開きもございません。如何様な罰でもお受けいたします」
そう申し開き、濡れ縁に額を打ち付けた。
「分かった、分かった。それより、茶でも飲むか? 権兵衛」
「いただきまする」
秀吉は、遅参について怒るでもなく、茶を点て始めた。二人の関係性の深さが、元親にも見て取れた。
権兵衛という名を、元親はよく知っていた。そのため、向こうからから始められた自己紹介を、特に感慨を受けることもなく、受けた。そして、返した。
権兵衛は信長の死後、秀吉によって淡路の防衛として派遣された将であった。果敢な戦い方をする将であり、淡路を守るだけにとどまらず、急に阿波や讃岐に上陸してきたことが何度もあった。しかし、敵地にもかかわらず戦線を無闇に広げては、集結した長曾我部軍に叩かれて四国から追い出されるを繰り返しており、あまり大局を見ることができない将というのが元親の受けた印象であった。僅かでも劣勢になったらすぐに逃げだす逃げ足の早さが無ければ、今こうしてここにはいないだろう。
元親は、作法もそこそこに喉を鳴らしながら茶を飲み干している権兵衛を見た。権兵衛は、官職の通り、讃岐を丸々与えられている。後は阿波と伊予の大名が訪れれば、作戦の詳細が話されるのだろう。そう思っていたのだが──
「──揃ったところで始めるか」
「へ?」
思わず、疑問が表情と声に出てしまった。
秀吉は、無礼者の顔をじろりと見ると、心を見透かしたように理由を語り始めた。その顔は、決して愉快そうではない。
「阿波の蜂須賀は、吉野川の氾濫の復興で手が離せん。伊予の小早川は、本家の毛利と共に、豊前より入る。豊後に行くのは、その方らだけだ」
秀吉は更に話を続けた。
「無論、薩摩まで攻め取れと言うわけではない。ただ、儂が来るまで豊後を守っておればよい。大友の兵と城を戦力として加算すれば、充分に防ぐことができるだろう」
「必ずや。なにせ、あの世に名高い長曾我部父子が、今度は味方にありまするからな」
権兵衛のそれはよくある世辞であったが、元親の脳裏に一瞬、嫌な予感が走った。そしてその予感はすぐに現実のものとなった。
「ほう、父親の強さは儂も存じておるが、息子の方も武勇に秀でておるのか」
秀吉の目が、きらりと輝いた様に見えた。
「それはもう。実際に相まみえて負かされた拙者が言うので間違いありませぬ」
「それはそれは。……そういえば」
ここで、秀吉の皺だらけの顔が、元親に向けられた。
「不幸なことに、儂はそんな将来有望な若者に、直に会ったことが無い。もしや、前に人質にしようとしたために、警戒しておるのか?」
「……いえ、そのようなことは」
「では何故、秋にも、正月にも、顔を見せん? ひょっとして──確か、名を信親と言ったか。信親は儂に思うところがあるのではないか?」
「……決して、そのようなことはありません。春には、『関白殿下のためであるならば』と自ら斧を振るい、大木を幾本も切り出す働きをしておりました。あやつの腹を裂いて、中身を全て晒してみせても、殿下に対する害意や悪意は、塵一つ程も有りはしますまい」
必死なあまり、普段はしないような例えまでもが、出た。しかし、その甲斐は無く、恐れていた言葉が出た。
「……であるならば、此度の戦には、もちろん出るのだろう?」
予言のことを話すべきか元親は迷った。信じてもらえるはずが無いと分かり切っているのだが、それでも、僅かな可能性を期待してしまう。
だが、結局、元親は信親の出陣を約束してしまった。それは、別方向の僅かな可能性に期待したからであった。この出陣が予言とは無関係である可能性。不吉な予言を自力で回避できる可能性。しかし、それら可能性は、あれだけ避けようとしていた信親の四国外上陸を約束してしまった自分に対する慰めとも方便ともいえた。
「おう、来たか」
二人の客人を帰らせた主人は、新たな客人を迎えた。新たな客人は弟であった。
「……土佐侍従殿は、もうお帰りになられたようで」
「そうだ。俺とお前の二人きりだ」
秀吉はまた茶を点て始めた。今日で三度目である、その手つきはすっかりと慣れたものになっていた。
茶筅が茶碗の中をせわしなく回る。その小気味よい音を伴いながら、兄弟は、これから起きる戦の話をした。
「……というわけだ。どうだ? この案に何か不足しているところはあるか?」
「……豊前方面については特にございませぬが、豊後方面の大将に権兵衛を据えてしまうのは如何なものかと。官兵衛ならともかくとしても」
「官兵衛は、豊前に送る。それに、権兵衛には権兵衛なりの使い方がある」
「少なくとも、大将として使うのは違うと思われますが……。薩摩の使う『釣り野伏』とやらにまんまと引っかかりそうですし……」
秀吉は、茶筅を回す手を止めた。
「……俺が勝瑞で言ったことを覚えているか?」
秀長は、少しの時間、右斜め上に視線を向けた後、眉間に皺を作り、頷いた。
また、茶筅が回り始めた。
「後顧の憂いは、なるべく俺が元気なうちに断っておきたい」
「……権兵衛はこのことを知っているのですか?」
「教えておらん。あいつにこのような謀は向いていないからな。ただ純粋に使命を果たそうとするだけだろう」
「……まあ、権兵衛の場合は、教えない方が却ってうまくいくかもしれませんな」
「それに、結果がどうなろうと俺に損はない。思い通りにいかなかったとしても、大友を守るという目的は達成できる。いわばやり得だ。とはいえ、成功の可能性を高める手は打ってあるがな」
そのために、失えば致命的な傷を負いかねない弱点を、増やしたのだ。重傷を負った蝙蝠は、地に堕ち、二度と羽ばたくことなく死に絶えるであろう。
秀吉は視線を茶碗に落とした。さっきから点てていた茶は、もう飲める頃合いになっていた。




