【下げて】(後編)
「この女子は元親殿の妾か?」
元親は予期せぬ出来事に、数舜、茫然としていたが、この質問でハッと我に返った。項垂れている蛍の表情は見えないが、助けを求めているような雰囲気は伝わった。
流石に『雑賀の女鉄砲撃ちで、先刻あなたを狙撃した者です』と紹介するわけにもいかず、
「土地の娘で、漕ぎ手として雇った者です」
と紹介した。
その紹介に、さして感銘を受けなかったようであるが、自分で言うほどに女に飢えている秀吉は、蛍を質問攻めにし始めた。
「歳は? どのあたりに住んでおる? 夫はおるのか? おらぬなら一緒に上方へ登らぬか? 恥ずかしがらず顔を見せよ。もしや、未通女か?」
その緩みの無い攻勢に対して、蛍は顔を伏せたまま恥ずかしそうに首を横に振ることしかできていなかった。存分に話すことができれば、明確に拒絶することができたであろう。だが、喋ればすぐに土地の者でないことがバレる。
防戦一方の蛍には申し訳ないが、元親はこれをチャンスだと思った。秀吉はこちらに背を向けており、無防備そのものである。元親は脇差の柄に手をかけようとした。が──
「──それくらいにしてくだされ、兄上」
秀吉の舟を操っていた秀長が乗り込んできた。秀長は舟の舳先側、つまり元親の背後を脅かす位置についた。
形勢が、変わった。元親は前後を挟まれる形となり、迂闊に動けばその時点で敗北と死が見えていた。
「女、構わず漕ぎ出してくれ」
秀長のその指示に従い、蛍は艪を操り始めた。舟が動き始めると、乗客の三人は落水しないように大人しく座った。ただし一名は蛍の顔を舐め回すように眺めている。
小さな川舟に四人も乗ると、喫水線がへり近くまで上がってきており、その分大きくなった水の抵抗によって舟の進みは遅くなっていた。
何かないか。そう思って元親は必死に頭の中を引っ掻き回した。このままでは、信親が海を越えて大阪に入り、そこで若くして亡くなってしまうかもしれないのだ。
妙案が浮かばない間も舟は進み続け、遂に大筒の射程範囲内から脱してしまった。
切れる手札が一つ減ったことにより、元親は一層焦りを募らせる。しかし、そんな心境とは無関係に、舟の上では静寂の時が流れていた。艪が軋む音、水を掻く音。そして、吉野川のせせらぎが聞こえる。
そうか、吉野川か。
「……今回の戦は自然に助けられました。あのまま吉野川に水を差されることなく戦いを続けていれば、きっと負けていたでしょうから」
すぐに反応はなく、先程と変わらない静寂に包まれた。
その静寂が再び破られるまでに、艪が三往復した。
「……それはきっと、いたずらに血が流れるのを天が惜しんだのだろう。人は人を制すことができても天を制すことはできん。甘んじてその意に従うまでよ」
秀吉のその答えは、元親の意図が通じたことを意味していた。
四人を乗せた舟が、秀吉の臨時の本陣に近づくと、迎えの舟が何艘も群がってきた。
「ここらでよい。あまり奥へ行かせても帰りが億劫になるだけだしな」
秀吉がそう言って舟を止めさせた。それから、近くの舟を呼び接舷させる。
右足をその舟に乗せた時、秀吉は思い出したように言った。
「……忘れるところだった。人質の件、全て無かったことにしてくれ」
「本当ですか!?」
自分で仕掛けたとはいえ、上手くいったことに元親は驚きを隠せなかった。
「うむ。そもそも元親殿の様な信義の人に、人質なぞ不要のことだろうしな。それじゃあ。今度、大坂にでも来てくれ。そこの女子も、待っておるぞ」
そう言うと、秀吉は左足も乗り移らせた。
帰りの舟の中で、蛍は遠慮なく言った。
「あいつ、滅茶苦茶気色悪かったな」
蛍のその言葉に、元親は頷いた。だが、それに同意の意味はなく、ただ、相槌の意味しかなかった。
元親の思考の全ては、これからのことに向けられていた。我が子信親が死ぬこと、長曾我部が滅びることは防げた。だが、その他のこと、特に、大幅に縮小した支配圏でどうやって家臣たちを養っていくかという課題が新たに出現している。この課題をどうやって解決しようかと考えると、頭に悲鳴のような痛みが走るのだった。
「あいつ、俺に評判を売りつけてきやがった」
乗り移った舟の上で秀吉は言った。
「……長曾我部元親、ただ者ではないとは思っておりましたが、なかなかどうして」
そう言ったのは秀長であった。不慣れな艪をぎこちなく操って漕いでいる。他の者をわざわざ別の舟に移させての兄弟水入らずであった。
元親が秀吉に持ち掛けたのは、『敵の水攻めによって和平を余儀なくされた秀吉』と見えてしまう構図を、『偶然起きた吉野川の氾濫によって和平の機会を得た元親』に完全に塗り替えるというものだった。家康との対決が消化不良で終わってから一年も経っていないにもかかわらず、今度は元親の水計にしてやられたとあっては、秀吉の能力に疑問符がつきかねないだろう。
だが、こうすれば秀吉の評判は落ちない。
亡き主君の書状を開きながら、秀吉は呟いた。
「……上様は鳥無き島の蝙蝠と言われておったが、あいつは鳥有る島でも存分に羽ばたける蝙蝠かもしれんな」
その秀吉の呟きによって何か面白いことを思いついたのか、秀長が吹き出した。
「どうした?」
「……いえ、何でもありませぬ。失礼しました」
そう秀長は言うが、秀吉としては気になる。
「遠慮せず、言え」
観念したように秀長は口を開いた。
「……それにしても、狸に蝙蝠とは、鳥獣が大敵になりやすいようで」
「まあ、猿の相手には丁度いいだろう」
兄弟の笑い声が湖面を揺らした。
笑いの波が静まりかけた時に秀長は尋ねた。
「それで、狸はともかくとして、蝙蝠はどうされるおつもりで?」
笑いの尾を断ち切り、真顔になって秀吉は答えた。それと同時に、手に持った書状も真後ろに放り投げる。
「殺す」
狸が足元を這い回るのはいいが、蝙蝠が目の前を飛び回るのは許せない。
開かれた書状が、木の葉のように舞い落ちながら静かに湖面に着水した。
こうして元親は、土佐一国と阿波の南半国を安堵してもらった。この結果は、四国を自由に飛び回っていた頃より遥かに高度を下げている。だが、それでも、飛び続けていることに違いはなく、羽を広げた当初より高い位置にあることに間違いはなかった。
しかしそれは、まだ底に叩き落とされる余地があることを意味していた。




