【下げて】(前編)
二艘の小舟が接舷しあったのは、互いの出発点のほぼ中間であった。一艘は弟が竹竿で湖底を突き、もう一艘は女が漕いでいる。
時刻は設定した通り、正午丁度。天が気遣ったのか、雨は少し前から止んでいた。薄くなった雲の切れ間から時折、太陽が様子を伺いに来ている。
先に口を開いたのは、会談を持ち掛けた元親の方であった。小舟に乗って話をする作法などはない。両者とも立ったままである。
「この度は話し合う機会を頂き、ありがとうございます」
形式的な礼を述べつつ、元親は相手の、秀吉の顔を見た。そこには、教科書に載っていた肖像画に近い、皺だらけの顔があった。
戦国時代に疎い元親ですら知っている三英傑。その内の一人と直に会うことができ、元親は小さくない感動を覚えた。
「なんの、四国随一の名将と相まみえることができた儂の方が、礼を言いたい」
世辞である。或いは、皮肉かもしれない。所詮四国内に限定された名将でしかないという意味の。
「……それで、如何様な理由で儂と?」
先に送った使者によって、この会談の目的は既に知っているはずである。にもかかわらず、秀吉は聞いてきた。和平の提案は、絶対に元親の口から言わせたいのだろう。
「……此度の戦、それをこれで終わりにしたく思いまして、そのためにご足労頂きました」
「つまり、和平を結びたいと?」
「……はい」
秀吉の顔が、ぱっと華やいだ。
「歓迎するぞ。これで天下の泰平に一歩近づいた。思えば、儂らに直接的に戦う理由はなく、ただ、互いに同盟者を大切にしていただけであったな」
元親の方は、柴田勝家や徳川家康と同盟を組んで、秀吉に敵対し続けた。秀吉の方は、伊予を欲しがる毛利や、四国を追われた三好のため、長曾我部を征伐しようと兵を四国に送り続けた。見方によっては、確かに秀吉の言う通りである。だが、両者のこの行動に、互いを敵として認識し、それを叩き潰そうという意思があるのは明白であった。
けれども、それをわざわざ指摘するほど元親は馬鹿ではない。
「……その通りで」
といい、適当に話を合わせる。
「……それで、どこまで儂に差し出す?」
話の段階が一つ進み、具体的な条件の交渉が始まった。
当初秀吉から出されていた条件は、土佐と阿波のみの領有を認めるという条件であった。しかし、その条件は既に蹴っている。戦ってなお、同じというわけにはいかないだろう。
そう思い、元親はある一通の書状を持ってきていた。
「それにつきましては、これを……」
そう言ってから、舟に置いてあった桐箱からその書状を取り出した。厳重に巻き付けた油紙を取り払ってから、秀吉にそれを差し出す。
「……この印は……上様の……」
書状には、元親に土佐と阿波の南部を与える旨が記されており、『天下布武』と刻まれた朱印がその端に押されていた。書いたのは秀吉の主君、織田信長であった。
旧織田勢力は実質的に秀吉の支配下になっているとはいえ、未だに信長の存在は無視できない。もし秀吉が、表面上でも信長を敬う姿勢を見せなければ、薄皮に包んでいる簒奪者の実態を周囲に見せつけてしまうことになる。そうなれば、周囲の者たちは『自分は簒奪者に味方する裏切り者か』と淡い建前を穿った自覚を持ち、抱いた自己嫌悪の何割かを、無責任にも秀吉に転嫁するだろう。その数は、絶対に一つや二つで済まない。無数の小さなヒビとなって秀吉の天下を粉々にしてしまうかもしれない。そのような事態に陥るのを、秀吉は何としてでも避けたいはずであった。
そんな元親の読みは当たっていたようで、秀吉は、
「上様の言葉なら仕方ない」
と、書状に書かれた条件をあっさりと受け入れた。
ここまでは元親の目論見通りであった。大事なのはここからである。
「……つきまして、人質の件についてはご容赦いただきたく……」
これの返答次第では、後の行動が大きく変わる。
「子を差し出すのがそんなに嫌か? 別に取って食おうとするわけではないぞ?」
顔の朗らかさはそのままに、秀吉の気配だけが鋭くなった。それによって、元親は己の迂闊さを自覚した。これでは、自分から弱点をさらけ出したようなものである。
「……へぇ……まあ……」
元親は何とか相槌の様な曖昧な返事を絞り出すことに成功した。だが、それだけでは何の意味も無い。一瞬、本当のことを全て話そうかとも思ったが、よくて冗談としか受け取られないだろう。
「……子を想う親の心は尊重したく思うが、軍門に降った者が人質を差し出すのは戦国のならい。おいそれと免除するわけには、いかん」
秀吉の顔が悲し気になり、同情するかのような表情を見せた。
「……そうですか。分かりました」
そう言いながら、元親はチラリと勝瑞城の一角に目をやった。そこには、こうして会談が上手くいかなかった場合、秀吉を舟ごと沈めるために大筒兵を伏せさせていた。とはいえ、今合図を出せば自分たちもまきこまれてしまう。そのため、秀吉たちが彼らの本陣に戻ろうとして離れた時に、撃ち込ませる。
和平を結んでおいてこのような暗殺行為に及ぶことに、心理的抵抗はかなりあった。だがそれでも、この戦だけで言っても多大な犠牲を払ってきたのだ。今更手段なぞを選ぶ贅沢はできなかった。
そんなつもりであったのだが──
「──帰りはそちらの舟に乗せてくれ。何しろ、このところずっと戦陣暮らしでな、女に飢えておる」
そう言いながら、返事も待たずに秀吉が舟に乗り込んできた。その位置は漕ぎ手の前、元親よりも艫側の方である。
元親の舟を漕いできたのは蛍であった。撃ち損じた獲物の顔をハッキリ見たいと頼み込んできたため、舟の漕ぎ手に選んだのだが、まさかこのような事態を引き起こすとは……。




