【漕ぎ出して】
──水鳥のやかましい羽ばたきと鳴き声が、兄弟の会話をかき消した。
「……秀長! もう一度言え!」
降りしきりる雨をかき分けるような大声が、秀吉の口から発せられた。その声の行く先は、水上にいくつか浮かんだ小舟の内の一艘である。
その小舟に乗っている秀長が、やや劣った声量で、屋根の上にいる秀吉に言った。
「主だつ将の生存を確認致しました! 兵の損害は未だ確認中のため、今しばらくお待ちください!」
「そうか! 俺はここにいるから、分かり次第報告に来い!」
秀長が一礼すると、漕ぎ手が櫂を動かし、小舟が進み始めた。水面に描かれた薄い航跡は、描かれたそばから雨粒にかき消されていった。
弟を見送った秀吉は、屋根の城側に傾いた方に座ると、兜のまびさしを伝う水滴を拭い、勝瑞城の方を見た。
「……さて、俺が向こうの立場なら、どちらにせよ舟を繰り出すが……」
この『どちら』というのは、『継戦』か『和平』の二択である。『継戦』するのであれば、羽柴軍の殆どが水上に浮いている今の状態で攻撃を仕掛けるのが常道であり、『和平』するのであれば、やはりこれも舟を出して使者を送ってくるだろう。ただ、前者と後者で、舟の数に大きな違いはあるが。
しかし、そのどちらも行われない。日の出から時間が経っており、今は早朝から朝になりつつある時間帯である。何かしらの反応を起こすつもりなら、充分な時間がある。なのに、勝瑞城は沈黙したままである。
はっきり言って、不気味であった。
元親は何を企んでいるのか。そう思っていると、後ろから声をかけられた。
「秀吉様。『雨が降っているので、中に入られては』と、この家の──いえ、先にこの家におった者が言うとるようですが、いかがされますか?」
秀吉がその声に振り向くと、権兵衛がいた。更にその後ろに、跪いている陪臣の将がいる。権兵衛が言ったのは、その将の提案なのだろう。顔色を伺うように、上目遣いにちらちらと秀吉の方を見てきていた。
高石垣の上に築かれたこの家は、浸水を免れている。そこなら確かに雨に濡れることも、水に浸かることも無いだろう。だが秀吉は、いらぬ提案をするな、と思った。
夏の気温では、雨に濡れても、さして支障はない。それに、家の中に入れば、家屋を囲う高い土塀によって、勝瑞城の様子を見ることができなくなってしまう。
俺が向こうの立場なら、黙って傘を差しだす。とも秀吉は思い、相手の気の利かなさが、相手の利口面が、勘に触った。だが、いくら陪臣とはいえ、粗略に扱えばそこからどのような悪評が流れるか分からない。特に、今の様な、形勢が不利な状況に置かれている時は、指揮官の悪評というのは流行り病よりも早く全軍に伝番していく。
そのため、秀吉は自ら丁重に断りを入れようと、その将を呼んだ。
総大将から気軽に呼ばれ、将は戸惑いを覚えつつも、恐る恐る近づいて、また跪いた。しかし、まだ距離が遠い。それは、作法に則ったものであったが、秀吉からしてみれば、その礼儀正しさが腹ただしかった。
「話をするに、まだちと遠い。もそっと近うに寄れ」
そう促して、ようやくそばに来た。秀吉の短い腕でも届く距離である。
「名は?」
「田山……田山権左衛門と申します」
秀吉の記憶の蔵に、そのような名前はしまわれていなかった。具足からみるに、精々、数百石取りの侍だろう。若い頃の秀吉であれば、数百石を『精々』などととてもいえなかったが、今ならいえた。
「田山というのか……。──っ!」
一瞬、勝瑞城の方から殺気を感じた。瞬時に田山の襟首をつかみ、自身の前へと引き寄せる。
「なっ、何を!?」
何も起きなかった。
城との距離は遠い。海戦でも使われるような大筒でも弾は届きそうにない。ただの思い過ごしかと思い、秀吉は田山を放そうとした。
その直後、田山の兜が甲高く悲鳴を上げ、それに続くような銃声が聞こえてきた。銃声は、殺気がした方向から、来た。
生温い液体が、体を伝う。不快な温もりであったが、その源泉を跳ねのけるわけにはいかなかった。何故なら、着弾した音によって異変を知った田山の配下が、庭に出てきているからであった。彼らは屋根を伝う血の川を見て、すぐさま自分たちの指揮官が撃たれたことに気づき、こちらを見上げてきている。物言わぬ肉塊とはいえ、乱雑に扱うのは不評を買うだろう。
そんな配慮があるため、一芝居うつことにした。
「おぉー! 田山殿ぉー! 身を投げ出して儂を救ってくれたのか! この秀吉、恩を忘れる男では決してござらんぞ! この恩は子に、子がおらぬなら兄弟に、それがおらぬなら親類縁者に、必ず返させてもらう故、安心して冥土に旅立たられよ!」
そう言って、死体を抱き寄せる。
自分が楯として引き寄せた事実を伏せ、秀吉はしらじらしく美談を作り上げた。その甲斐はあったようで、庭先にいる配下の何人かは俯いている。
その様子を受けて、秀吉の意識と目線は、すぐに勝瑞城の方に向けられた。
「……遠当てを、それもかなりの遠間から行ってくるとはな……」
元親の下に、雑賀の者が多数落ちのびていったと聞いている。その者たちの中にこのような芸当ができる者がいたのだろう。
「権兵衛」
「はっ」
権兵衛は伏せて屋根の傾斜に身を隠していた。かなり近づいて来ているところを見るに、這ったまま移動してきたのだろう。
「……主が狙われたというのに、真っ先に身を隠す奴があるか」
呆れ気味に秀吉は言った。権兵衛は慌てて弁解を始めた。
「あっ、いや、これは、決して命惜しさに身を伏せたわけではありませぬ。秀吉様は先に御身を守られておられるため、某はこうして隠れながら近づき、真後ろに来た時に安全なこちら側へ──」
「──もうよい。それよりも『これ』を下に降ろしてくれ」
権兵衛の長くなりそうな弁解を遮り、秀吉は田山の死体を降ろすように言った。
権兵衛は、目の前の情報から状況を判断し、最適な答えを瞬時に導き出せる。だが、その最適な答えというのが、自身の生存を第一として導き出したものであり、その答えが周りにどのような影響を与えるか、さらに言えば、目の前の情報が全てでない可能性を考慮できない。将というよりも獣に近かった。
「よろしいのでござりまするか? 次弾が来るやもしれませんのに」
「心配はいらん。俺が向こうなら、同時に数発も撃たせるが、今のところ一発しか来ていない。おそらく、弾は一発しか用意できていないのだろう。──それに」
そこまで言って、秀吉は勝瑞城の方に目を向けた。
舟、が来ている。その数は一艘であった。




