【見つけて】
突然の水害の辻褄を合わせようとしているのか、八月三十一日の勝瑞の空は、したたかに雨を降らせていた。
絶え間ない雨音、それに混じって水鳥の鳴き声が時折聞こえる。蝉の声は無かった。
「そこから秀吉は見えないか!?」
例年よりも静かな夏の勝瑞城に、元親の大きな声が響く。
返事は、櫓の上から返ってきた。戦場に似つかわしくない可愛らしい声である。
「いんや! 見えるんは足軽か、小物の侍ばっかりや!」
櫓の上にいるのは、雑賀から来た者で、名前を蛍という。その射撃の腕は、元親の知る限りでは一番であった。飛ぶ鳥を落とすのは当たり前、夜間飛び回る蛍を撃ち抜く。また、視力も良く、遠くの針すらも狙い撃つことができた。現在、彼女の腕と目に、長曾我部の命運を賭けていた。
「そうか! 引き続き捜索を続けるように!」
元親はそう言うと、雨に濡れるのも構わず、自身も城外に目を向けた。元親よりも遥かに目の良い蛍が、櫓で捜索を続けている以上、彼自らが目視での捜索を続ける必要性はあまりない。ただ、家の命運を人に預けて眠れるほど剛毅な人間でないために、何か自分でもやっておかないと気が済まないのだ。
かつて元親は、土佐の東部勢力であった安芸家、その本城である安芸城を島のようだと思ったが、今の勝瑞城は正真正銘の島であった。城外には見渡す限り湖面が広がっており、今降り注いでいる雨により、その水位は徐々に上昇している。湖面を眺めていると、浅い水底に沈んだ金物が、鈍く光を照り返し、その存在を恨めしそうに伝えてきているのが見えた。
湖面より顔を出している屋根や木々には、ムクドリの様に多くの人間が止まっていた。しかし、数万人分の止まり木がある筈もなく、そこからあぶれた多数の者たちは、燃えさしの大きな薪や、作りかけの置盾に掴まり、浮いている。
そんな人間たちを尻目に、水鳥の群れが、湖面を我が物顔で泳ぎ回っていた。浮いた兵糧などをついばんでいるのだろう、しきりに顔を水につけていた。
「それらしき人影は無いか……」
秀吉を直接見たことは無いが、伝聞でその姿を知っている。細かな人相などは役には立たないだろうが、小さな体格と、総大将に相応しい立派な具足、この二点を備えた人間はそういない筈である。だが、やはりというべきか、元親の視界にそれらしきものは映らなかった。
城門に繋がっている道にもいなかった。そこは他よりも高いため、沈むこと無く、城外の敵兵に貴重な陸地を提供していた。そこに運よく逃れえた者たちは、ただ身を寄せ合って、こちらを眺めてきているだけである。士気も無さそうだった。攻撃の心配はないだろう。
「まあ、自分が見つけられるなら、蛍がとっくに見つけているか……」
そう呑気に言ったが、内心は焦りしかなかった。秀吉一人を殺すために、五万人の人員を一月動員し、流域付近の領民を全て避難させ、そして多数の家財や家、人命を犠牲にして勝瑞一帯を水浸しにしているのである。これで失敗は許されないだろう。
せめて生きているということが確認できれば、手の打ちようがある。しかし、水底に沈んでしまっていては、それが分からない。
「どこかで生きていてくれないかな……」
秀吉の所在を知りたいあまり、こんな本末転倒なことすら願ってしまう。
いつしか湖面に、小舟が浮かぶようになっていた。これは、この地域特有の各家に備え付けられた舟であり、今のように吉野川が氾濫した時に使われるものであった。おそらく、羽柴勢の目端の利く者が周囲から集めてきたのだろう。その数は徐々に増えており、『止まり木』から『止まり木』へと渡りを続けていた。
元親は、その光景を見て閃いた。
「──蛍! 舟が集まっている箇所がある筈だ! そこを重点的に見てくれ!」
元親の鋭い指示に、一羽、水鳥が驚いて空へと飛び去った。その一羽に、本能のままに他の水鳥たちが続いていき、やかましい羽ばたきと鳴き声が辺りに木霊した。
その喧騒が完全に消え去らない内に、櫓から嬉しそうな声がした。
「おった! おったで! 間違いない、あれが秀吉や!」
元親は蛍を褒め、その後すぐに、例の物を持ってこさせた。それは、吉野川に堰を作るのと同時期に、鍛冶町へ詳細な指示を出して作らせた特注の物であった。
元親が屋根の下に移動すると同時に、それは来た。二人がかりで運ばれてきたのは鋼鉄製の槍──ではなく、銃であった。ただに、極端に長い。銃身だけでも元親の身長以上ある。
元親はそれを受け取ると、人の手を借りて、自ら玉薬を込めた。通常の三倍の量を銃口から入れ、倍近い長さの槊杖でそれを突き固めていく。そうしていると、鉄砲鍛冶師の金地の腕が、十数年で相当のものに達していることが良く分かった。歪みのない長大な銃身と、その内側に見える三条の緩やかな螺旋状の溝、さらに言えば、弾丸も、それを物語っていた。
「最後の一発……」
岡豊から送られてきた弾丸は椎の実型であった。最初は八発あったが、照準器の調節のための試射によって、六発を消費し、一発は保存状態の悪さのために破損したため、これが唯一の一発となっている。
元親は、椎の実型の弾丸を指でつまむと、上下を間違えないように気をつけながら銃口に挿入した。尖っている方が上、つまり銃口側である。反対側の平たくなっている部分は下、つまりは銃床側に向き、火薬の爆発力を余すことなく運動エネルギーとするために、発砲されるとやや開いて銃身にへばりつくような構造になっていた。その上、銃身にへばりつくようになったおかげでライフリングの効力も充分得られるようになり、弾道の安定性にも寄与していた。
自分の描いた不慣れな設計図で、よくぞここまでの完成度の物を作り上げた。最初に実物を見た時、元親はそう感動したものだった。
弾丸も押し込むと、後は火皿に火薬を盛り、火縄を挟むだけである。しかし、火薬を盛ったところで火蓋を閉じ、そこを油紙で包んだ。銃口にも油紙を詰め、念のため、更に全体も油紙で包む。後の作業は、射手が行った方が、火薬が湿気る可能性は低い。
入念な防水処置を施した後、元親は射手に『長銃』を渡すため、梯子の中ほどに昇り、中継地点となった。
「旦那がそこまでせんでもええんちゃうか?」
元親の甲斐甲斐しい動きを見て、蛍が苦笑しながら長銃を受け取った。弾ける火花でできたそばかすと、目がやや大きい以外は、普通の町娘といった感じである。人相だけでいえば、凄腕の鉄砲撃ちにはとても見えない。
「まあ、そうだけど、自分でも何かしておきたくてね」
立場的に言えば、装填も、長銃を渡すのも、全て人に任せるべきであろう。だが、この一発ですべてが決まるとなると、なるべく自分の手で準備を進めておきたかった。これは、部下に信頼が無いからというよりも、願掛けの様なものであった。
自らも櫓に昇った元親は、火の付いている火縄を蛍に渡した。既に油紙は取り除かれ、床に散乱していた。
「おおきに」
火縄を受け取った蛍は、それを火ばさみに挟むと、火蓋を開いた。
二畳ほどの広さの櫓。その昇り口横の端に蛍が膝立ちになり、そこから対角線を引いた所にある板壁に、長銃の銃身が乗った。元親がその銃口の延長線を辿っていくと、小舟の集いつつある屋敷があり、その屋根の上に、人影らしきものがあった。しかし、距離がありすぎ、元親には秀吉かどうか判別できない。その上、屋根の上には複数人いる。
「……本当にあそこに秀吉がいるの?」
「おう。紀伊におる時にも見とるから、間違いない」
そう自信満々に言われれば、元親としても安心できる。だが、それでも、懸念事項が次々と湧いてきた。戦いの喧騒が無いのが、元親の精神を臨戦状態にさせないからだろう。
「距離は充分届く?」
「おう。試射の時には、あの屋根の上にも的置いとったからな」
銃の構造と弾丸の形状によって長銃の射程距離は火縄銃と一線を画す。それどころか、命中精度も加味すれば、大筒をも上回った。
「風は無い?」
「……雨粒は真っ直ぐ落ちとるし、水面も凪いどる」
面倒臭さが声色と表情に表れていた。それでも、元親は尋ねずにいられない。
「晴れの日しか試射してないけど大──」
「──やかましいわ! そんな心配すんねやったら、自分で舟出して首取りに行かんかい!」
「いや、それは……」
晴れの日であれば、それもできた。舟や筏に銃兵を乗せて漕ぎ出せば、身動きの取れない相手を一方的に狙い撃てる。だが、この雨の中ではそれはできない。何故なら、火縄銃はこの雨の中では撃てないからである。それに、舟を出して向かったとしても、秀吉は真っ先に逃げるであろう。だから、こうして狙撃で仕留めようというのだった。
「ほな黙っとかんかい!」
「……」
静かになった櫓の上で、蛍は長銃を構え、右目を大きく見開いた。目はぎょろりと大きくなり、その大きさは、人の倍近くある。これを初めて見た時には元親もかなり驚いた。だが今では、この蛍の異相を見ても『猛禽類の目に似ているな』という他愛も無い感想を抱くぐらい見慣れていた。
雨の降りしきる音。櫓の屋根から水が滴る音。調子を取るような一定の呼吸音。
射撃訓練の心得として、『月夜に霜が降りるが如く』という言葉があるのを元親は思い出した。これは、『銃を撃つ時は、それだけ静かな心持で引き金を引け』という意味らしい。
今まさに、月夜に霜が降りつつあった。




