【押し流されて】
この日の夜に昇った月は三十日月と呼ばれる下弦の中で最も細い月である。その極細の月から発せられた月光は、勝瑞城周辺の地表に降り立つことができずにいた。
「流石にこれだけ焚くと暑いな……。のぼせそうだ」
右手をうちわのようにしてあおぎながら秀吉は言った。月明かりをかき消すほどの大量の篝火は、その全てが光源になると同時に熱源にもなる。右手が煽った空気ですら暑かった。
秀吉としては早く本陣に戻り、涼みたいところであったが、自分でたきつけたため、諸陣を一通り見て回らなければならなかった。
どの陣も将来の天下人の覚えをめでたくしようとしているのであろう。通常の篝火を増やすだけにとどまらず、様々な形の篝火を用意していた。ただ大きくするだけは当たり前、近くの雑木林から切り倒した樹木を溝に横倒して丸ごと燃やす、住民がいなくなっているのをいいことに近くの家屋を解体してそれを篝火の材料にしているのもあった。篝火の材料になっている家も、片端から切り倒されている雑木林も、両方とも領民たちの生活に欠かせない財産なのではあるが、それは秀吉に関係の無いことである。後のことは、この地に封じた者がどうにかするだろう。
「……堤防の材料が無くなりそうだが……まあいいか」
少し北に移動すれば、樹木の生い茂った讃岐山脈がある。多少手間はかかるが材料に困ることは無さそうであった。
広大な陣中を移動していると、燃え盛る火を一生分見たような気がする秀吉ですら目が惹かれるものがあった。
「こんな馬鹿な真似をするのは、あいつしかいないだろうな……」
庄屋か何かの家だったであろう大きな造りの家屋が、そのまま燃えていた。城のように石垣の上に建てられたそれは、周囲を煌々と照らしている。秀吉がその火事のような篝火に向かって歩くと、大きな声に迎えられた。
「ややっ、これは秀吉様」
秀吉の予想通り、権兵衛がいた。秀吉の触れを忠実に実行しようとしてこうしたのだろう。それにしても思い切りが良すぎた。
「いかがでござろうか?」
そう尋ねてきた権兵衛の真意を見透かした秀吉は、高く燃え上がっている炎を見上げながら、褒めた。所詮遊びのようなものである。面白ければよい。
「陣中のおおよそを回ってきたが、今までこれほど明るくしてある陣は他に──」
炎の向こう側に、赤い煙が立っている。
「どうかされたので?」
そう問いかける声を無視し、秀吉は無駄に大きな篝火の側面へと回り込み、煙の出処を見た。それは勝瑞城からであった。いつからそれが立っていたのか分からない。
「火の不始末か何かですかな?」
追いかけてきた権兵衛のそんな見解がすぐ後ろから聞こえてきた。普段であれば馬鹿は可愛げがあるが、こういう急場だと腹ただしく思えてくる。
「ただの火事の煙が赤く染まるわけがないだろうが。狼煙だ」
苛立ちが声色に少し表れているが、抑えようとしているわけでも無いため、秀吉は気にしなかった。権兵衛の方は鈍いため、主君のそんな気持ちに気づくことなく尋ねた。
「狼煙ということは、長曾我部が何かしてくるということで?」
分かり切ったことを聞くな。そう怒鳴りたい気持ちを抑え、秀吉は黙して、元親が何をしようとしているのか考えた。
夜襲であるならばわざわざ合図は出さない。では、他に何の手段があるのか。そう思った時、秀吉はあることが気になった。丁度その疑問の答えを知っている本人が近くにいるため、尋ねる。
「……ところで権兵衛よ。お前が前にこの辺りに来た時に雨は降っていたか?」
「いえ。雲一つない青空でございました」
「……その前日もか?」
「はい」
秀吉は歯噛みした。その行為の原因は権兵衛の馬鹿さ加減にというよりも、それを知っておきながらあっさりと信用した己の迂闊さにあった。家康と対峙していた時までの秀吉であればこうはならなかった。日ノ本の中央部分を完全に抑え、天下統一がほぼ決定づけられていたため気が緩んでいたのであろう。
長めの瞬き一回分の間に後悔と反省を終えた秀吉は、気持ちを切り替え、次の行動のために権兵衛に聞いた。
「ここから一番近い高台は何処だ!?」
「高台と言われると……屋根の上でしたら──」
「──構わん!」
鬼気迫る秀吉の様子を見て、ここでようやく権兵衛はただごとではないと気づいた。戦場に立っている時と同じように、真剣な表情を浮かべた。
「ここから城の方に行ったところに、今焼いているようなのと同じ造りの家があります」
「そこへ行くぞ! 走れ!」
秀吉は駆けだした。秀吉よりも大きな足音も、後からついて来ている。
「法螺! 鐘! 太鼓! 何でもいい! 大きな音を鳴らして皆に警告しろ!」
走りながら近習に指示しつつ、秀吉自身、持ち前の大きな声で、呼ばわった。
「皆逃げろ! 高い所へ登れ! 水が来るぞ!」
どんな人間であっても、呼吸の関係上、常に叫び続けることはできない。走りながらであれば尚更である。息を整える度にはっきりと聞こえてくる轟音を、秀吉は聞きながら走り続けた。
権兵衛の言う家には、すぐについた。石垣に設けられた階段を上ると土塀に囲まれた庭があり、そこで寝泊まりしていたのであろう将兵が何人かいるのが見えた。その中の一番偉いであろう将が、秀吉を出迎えた。その者は秀吉の記憶にない。配下のそのまた配下である陪臣の者であろう。
「こ、これはこれは秀吉様。ご、ご無事で何よりです」
その震えた声は恐怖心を隠せていなかった。もはや轟音は誰の耳にも明らかである。多少の想像力があれば、これから何が起きるのかもはっきりと分かった。
「塀で見えづらいな。屋根に上がるぞ権兵衛」
「御意に」
陪臣の将に梯子を持ってこさせると、秀吉は屋根に上がった。権兵衛もその後に続く。
「もう来ていたか……」
屋根に立ったとはいえ、戦国時代の夜の帳は分厚い。秀吉の視界には、猛き狂った吉野川の侵攻状況を暗示した次々と消えていく篝火しか映っていなかった。しかし、聴覚はその惨状を過分なまでに伝えてきていた。人の悲鳴、怒号、助けを呼ぶ声、仲間を案じる声、避難を促す声、全力で駆けて行く足音、馬の嘶き、火が消える音。それらすべてが轟轟とした音に飲み込まれ、混ぜられ、押し流されて、秀吉の耳に届いて来る。秀吉は目の前の惨状に心を痛めるでもなく、こう呟いた。
「何割が死ぬか……」
損害の割合によっては撤退を考えなければならない。それどころか、下手をすれば自身の立場も危うくなってくる。まだ秀吉の配下に加わって日の浅い者は多い。その殆どが『一番力のある秀吉にとりあえず迎合しただけ』といった者たちばかりである。それらを宥めるなり透かすなり脅すなりして御し続ける。その方策を考えねばならないのに一山いくらの将兵の犠牲に心を痛めている暇など秀吉には無かった。
三十日月の頼りない月光が勝瑞城周辺に降り立ち、きらきらと反射している。吉野川はその暴力性を発散して満足したのか静かになっているようだった。
しかし、思案に没頭している秀吉がそれに気づくことは無かった。
今年の更新はこれで最後になりそうです
また来年もよろしくお願いします
追記:誤字報告ありがとうございます




