【上陸して】
一五八五年八月二八日。淡路洲本城下の人口が倍増した。その倍増の要因となった人員の多くは、畿内出身の兵である。彼らは越中からそのまま南下し、瀬戸内海を越えてやってきていた。
それらを引き連れて来た者は洲本城に上り、弟から詳しい経緯を聞いていた。戦陣ということもあり、城内の広間に構えられた床几に二人とも座っている。
「──という次第でして、彼らの奇妙な陣立てや備にしてやられました。寡兵を相手に無様な結果を出してしまい、申し訳ありません」
蝉の鳴き声を伴奏にしながら、自身の負け戦の詳細を秀長は包み隠さず兄に報告した。これもまた秀長の器量を示すものであるが、それと同時に、兄との絆の深さも表れていた。
弟から報告と謝罪を受けた兄は、目を閉じたまま、咀嚼するように何度も小さく頷いた後、口を開いた。
「……お前で無理ならどうにもならないだろう。俺以外にはな」
その声は、さして大きくない声量にもかかわらず、蝉の雑音をかき消して広間全体に響いた。その後、小柄な体で軽快に立ち上がり、猿のようなしわくちゃの顔を向け、秀長の兄──秀吉は、腹心の部下でもある弟に命じた。
「早急に軍船を整えさせよ。それが完了次第、阿波に上陸する」
「承りましたが、越中からそのまま来られているのにお疲れではありませんか?」
「気遣いは無用。向こうでは殆ど戦などはなかった」
越中の佐々成正は、秀吉の軍が領内に近づいたと同時に服属を申し出てきた。秀吉の言う通り、彼の連れて来た五万の兵は誰も疲れてはいない。
「それに、こんな片田舎にいつまでもかかずらっていられんしな。元親の奴め、俺が折角寛大な条件を与えてやったというのに……」
秀吉にとって四国は、『どう攻略するか』よりも『いつまでに攻略するか』という程度のことでしかなかった。
直に元親と戦い、敗北を喫した秀長からすれば、秀吉のこの判断はやや駆け足気味に映った。もう少し慎重に準備を進めてから上陸しても良いのではないか。そんな思いから、秀吉を引き留めようとする。
「そこまでお急ぎになられずとも、天下が手中からこぼれたりはしないと思いますが……」
しかし、この秀長の慎重さは、秀吉にとっては悠長なように映った。秀吉はわざとらしく溜息をした後、弟に問うた。
「……俺の歳を知っているか?」
「えーっと確か私の四つ上ですから、四十九歳ですな」
間違っていないために、秀吉は一つ頷いた後、続きを話した。
「上様が亡くなられたのも同じ年齢であった。つまり、俺はいつ死んでもおかしくないような歳になっている」
秀吉の言う上様、つまり、信長の死因は、寿命ではなく明智光秀による暗殺である。人の一生として『人間五十年』とは謡われてはいるが、実際は各人の生命力によって大差がある。秀長は冗談だと思い、笑いながら否定した。
「大袈裟な……」
秀長は兄の顔を見た。皺に塗れているが、瑞々しく血色の良い生気に溢れた顔であった。病に侵されなければ百までは生きるだろう。そう思わせるほどに。
「大袈裟ではない。俺は、毎日そう思いながら生きている」
眉をひそめながらそう言う兄を見て、秀長は、咳払いと共に笑気を払った。
神妙な面持ちとなった弟を見て、秀吉は話を続けた。
「確かにお前の言った通り、天下がこちらのものであるということは揺るぎない。だが、肝心なのはその後だ。天下統一を果たしても、その数年後に死んでしまえば、元の木阿弥だ。天下を統一し、その支配を強固なものとし、それを次代に受け継がせて初めて、死ぬほど働いてきたこの人生に意味がある」
ここで一度区切り、秀吉は自分の言葉が浸透するのを待つかのように少し黙った。絶え間ない蝉の声が、一時、場を取り返す。しかし、秀吉がまた話し始めたことによって再び奪われた。
「まあ、あれだ。要は、俺には時間が残されていないのだ。せめて、天下を統一してから十年は健在でいたいが、寿命は伸ばせん。だから、一刻でも早く天下をこの手にしたいのだ」
悲痛な訴え。そのように秀長は感じた。相槌でも打とうかと思ったが、口が重く感じられ、簡単に開けず、喉が固く感じられて容易に震わすことができない。静まった広間に、人の事情などお構いなしな蝉の自己主張が流れ込んでくる。今の秀長にとって、このやかましさはありがたかった。
突如、秀吉が破顔した。
「……というのは冗談だ。本当は、あまり長居すると浮気を疑われてしまうからに他ならない」
あっけらかんとそう言う秀吉によって、場の空気は変わった。普段の陽気さを纏った秀吉は、追加の命令を下した。
「それと、讃岐にいる権兵衛を阿波に呼び寄せろ」
権兵衛とは、長曾我部勢の動きを抑えるため、先年より四国に送り込んでいた仙石秀久のことであ
る。
「権兵衛をですか……? 同じ兵衛なら官兵衛の方をお呼びした方が……」
この秀長の疑問は、権兵衛の能力を知っているが故の反応であった。権兵衛は、槍働きや少数を率いさせる分には非常に役に立つが、大局を見る目に欠けている上、大規模な合戦では功に逸って突出してしまいがちな猪武者であった。
「そうだ。前に手ひどく負けたとはいえ、家中であいつが一番この辺りの地形に詳しい。それに、羽柴家では貴重な古参の者だ。多少欠点があるとはいえ、隅に追いやるようなことはせん」
一代で成り上がった秀吉に、親より受け継いできた家臣はいない。これからの支配体制を確固たるものにするためには、長いこと秀吉に忠誠を誓い続けている直参の配下をないがしろにすることはできなかった。
「それでしたら、すぐにでも」
「船の方も忘れるなよ」
「心得ております。遅くとも二日後には完了するでしょう」
頭を下げてから、秀長は場を辞した。
一五八五年八月三十日。阿波の地に再び羽柴軍が上陸した。その数は八万を超す。
対して、長曾我部軍は僅か六千の兵で勝瑞城に籠り、それを待ち受けていた。




