【脅されて】(前編)
土佐の国は山深い。その国土のほとんどは山である。辛うじて存在している平野部は、中央に広がる土佐平野がほとんどの割合を占め、あとは山塊にへばりつくようにして平地が点在している。
そんな土佐平野を東西に割るように浦戸湾は佇んでおり、その湾口を極端に狭めるように、岬が二つ、両岸から突き出ていた。東岸の岬は長曾我部家の城があり、西岸の岬には本山家の城がある。本山家の城の名は湾から取り、浦戸城と呼ばれていた。
本山家の棟梁本山茂辰は、現在、この浦戸城に押し込まれている。
戸ノ本の合戦から一週間が経過した。しかし、小森はまだ影武者の役割を終わらせてはもらえていなかった。
小森は馬にまたがり、浦戸城の攻囲の準備が進められていくのを、虚ろな目で眺めていた。先日の合戦の時に体の底から湧き上がっていた旺盛な生気は、溢れ出てどこかに流れて行ってしまったようだった。
「ここんところ何も食うてないらしいな」
その声に振り返ると、帷幕の中にいた一人である親信がいた。みれば握り飯を提げている。小森は親信を無表情で一瞥する以外の反応をしなかった。それは、はたから見れば不遜な態度そのものであったが、実際の所は疲労とストレスによって極度に精神が鈍っているが故の無反応であり、小森に悪気はない。
初めての戦場暮らしに、見知らぬ人と土地。それだけでもかなりのストレスになる。それに加え、戦国時代らしき時代での話なのである。さらに生まれて初めて人を殺しているし、これらの事を誰かに相談することもできない。元々丈夫な精神構造をしていない小森が精神を病むのも無理は無かった。
親信はその不遜にも見える態度を気にはしてないらしく、気さくに、
「飯にせんかよ?」
と誘った。それから、小森をやや強引に馬から下ろし、近くにあった手ごろな石に腰を下ろさせる。
しばしの無言。木槌で柵の支柱を打ち込む音があちこちから聞こえてくる。茂辰が浦戸城に逃げ込んだ翌日から続けられているこの作業により、後少しで岬は柵で完全に封鎖されようとしていた。
「ほれ、おまんの分」
親信はそう言い、持ってきた握り飯の半分を渡した。玄米と白米の入り混じった、俵型でも三角でもない、ただ米をまとめて圧縮しただけのまるい武骨な形。拳よりも大きい。冷えて硬くなっていたが一週間も何も食べてない者にとっては、同じ重さの黄金よりも価値のある物であろう。
しかし、一週間の絶食をしているはずの小森は、食べる事が出来なかった。胃が、喉が、何も受け付けない。
小森は握り飯を落とした。それは子供の頃に聞いた童話のように転がっていく。
「ああ。もったいない」
親信がそう言いながらそれを追いかけていく。そこまでは小森もはっきりと覚えている。
気が付いたら、見知らぬ天井があった。
「お目覚めになられましたか」
小森が目覚めて間もなく、一人の男が障子を開けて入ってきた。開いた障子から入り込んでくる陽の光の強烈さに、思わず目を閉じる。
障子の閉まる音がし、瞼越しに感じる光の強さが和らいだのを感じて、小森はようやく目を開けた。入ってきた男は袈裟を着て頭を丸めていた。一目で僧侶だと分かった。おそらく年齢は四十ほどであろう。目尻に細かな皺が刻まれている。
「あ、あの……」
小森は起き上がろうとした。しかし、体が思うように動かない。その意を察したのか、僧は小森が起きるのを手伝った。
「あ……りがとうございます……。こ……こは一体……?」
少し喋るだけでもだるい。小森は普段の数倍、言葉を発するのに集中しながら自分の今いる場所を尋ねた。
「ここは国親様の居城近くの滝本というところにある寺でございます」
「あ……なたは?」
「申し遅れました。私は非有といい、この寺の住職を務めております。非有斎とでもお呼びください」
非有斎と名乗る僧はそう言い深々と一礼した。
「自分……はどうしてこ……こに?」
小森はここに運び込まれた理由を尋ねた。非有斎は答える。
「いやはやそれに関しては拙僧も分かりかねますなぁ。神の……いやいや仏の思し召しかと。なんせタイムスリップなんて言うのは物語の中だけの話だと思っておりましたからなぁ」
「あ……いや、ここに運びこまれた理由が――へ?」
思ってもいなかった解答が帰ってきた。今度は非有斎がニヤリとしながら小森に尋ねる。
「日本は勝ちましたか?負けましたか?」
小森は驚きのあまり、その問いに答えることができなかった。非有斎はその様子を見て、続けて喋った。
「私もあなたと同じです。十何歳かの時にここに飛ばされ、その時にあなたと同じように国親様のお世話になり、今に至ります」
自分と同じ境遇の者がいると分かり、小森は内からあふれ出てくるものを抑えることができなかった。涙も言葉も洪水のように流れ出て来る。そんな小森の話すことに、非有斎は一つ一つ丁寧に相槌を打ちながら静かに聞いていた。
一通り言い終えると、小森は今度は強い空腹感に襲われた。まるで内に溜まっていたものが、全て胃に詰め込まれていたかのようだった。
大きく鳴いた腹の虫を聞き、二人は笑った。小森にとって、この時代に来て初めての笑顔だった。
ひとしきり笑い終わった後、非有斎は人を呼び、遅めの昼餉の手配をした。しばらく経って運ばれてきた昼餉の粥を小森は貪る様に食べた。胃が弱っているからと一杯だけに制限されてなければ十杯は平らげそうな勢いだった。
食べ終えてから、小森は非有斎にせがまれるままに自分の生まれ育った時代の話や先の大戦の話を知っている限り話した。特に大戦の話は事細かに長々と話した。
「――そうして世界中で流行った病は完全に収まったという時期でした。自分が最後にいたときは」
「なるほど。豊かな時代になったとはいえ苦しみが無くなったわけではないのですなぁ……っと、もうこんな刻限に」
気が付けば障子越しに滲んでくる陽光がオレンジ色を帯びていた。
「まだ完全に体調も回復されているわけではありませんし、今日はこの辺でお休みになられた方がよろしいかと」
照明が蝋燭か篝火しかないこの時代では、一日の終わりは早い。小森は言われるがままに寝具に入った。そして、ほどなくしてやってきた睡魔に逆らうことなく寝た。
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