【追い出して】(後編)
兼定が追放されたのは年が明けた頃だった。隠居すればそれで全て済むと思っていた兼定は船に乗せられる際、
「潔く身を引いた者に何たる仕打ち!これも元親めの仕組んだことであろう!?絶対に許さんぞ姫若子めが!必ずやあの者から幡多を!土佐を取り返してくれん!」
等、喚き、叫んでいたそうだった。
兼定がいなくなった後、元親は内政を岡豊城下に程近い大津という土地に移した。当然反発はあったが、それは在国している内基が抑えた。わざわざ京から下り、混乱の収拾をしてくれた内基に逆らえる人間は幡多には誰もいないようだった。
城主であった一条家が不在となり、空城となった中村城には長曾我部家の西方の統括・指揮を担当する吉良親貞を入れた。
中村城の城主は新しく任命した。だが、その他の幡多に在郷している者たちの領地や城には手を付けなかった。というよりも付けられなかった。思っていたよりも彼らの反発は強く、何かのきっかけがあれば一気にそれが爆発してしまう危険性があったからだった。
「やっぱり領有するべきじゃなかったかも……」
内に爆弾を抱えてしまったことに元親は後悔したが、既に手遅れであった。
有難いことに内基はしばらくの間在国してくれるという。内基が居てくれている内は幡多の者も表立って行動できないであろう。その与えられた猶予の内に支配体制を固める必要があった。
元親は手を尽くした。彼らを慰撫しようと。手紙を出すだけでなく城に呼び寄せたり自ら赴いたりして直に会ったりもした。中村城主の親貞も同じ様に幡多衆の機嫌を取った。
懐柔作戦は、内基が帰京の時を幕引きとして終わった。最終的に、内基は二年も滞在してくれた。だが、その間に長曾我部側になびいた者はほんのわずかであった。
蝉の泣き声がやかましい季節。浦戸湾の湾口にある須崎という港。そこで元親は、幡多から上京途中の内基を見送った。内基の方もわざわざ須崎に船を寄らせ、元親の見送りを受けてくれた。
「すまぬな。最後まで面倒見切ることができなかったでおじゃる」
「いえ。……寧ろ今まで居られたおかげで、今日まで無事に過ごせました」
内基にも仕事はある。それを遅らせてまでこの土佐にいてくれたことに感謝しかなかった。
「……それならよかったでおじゃる。達者でな」
そう言うと内基は船に乗りこもうとした。が、途中何かを思い出したように立ち止まり、振り返って元親に言った。
「ああ、それと。……もし、海に捨てた物が波に押し戻される様であれば――」
そこまで言って、扇子を首に当てる。元親はその意味を瞬時に理解した。
豊後に送られた兼定は、しきりに舅の宗麟に兵の貸し出しを要求しているらしい。その目的は、どう考えてみても幡多の奪還であることに間違いなかった。今は宗麟の方が乗り気ではない為それが実現する可能性は低いが、潮目が変わる可能性は大いにある。
つまり、内基は、兼定が兵を引き連れて上陸してくるようであれば、遠慮なく斬れと暗に示しているのだった。
京へ向かって行く船を見送りながら、元親は、この荒れた時代に家を存続させるには、身内であろうとも容赦なく切り捨てていく冷酷さが必要なのだと実感した。
元親が幡多の支配に苦労していた頃、上方の情勢は大きく変化していた。今まで手を結んでいた将軍足利義明と信長。それが敵対状態になったのである。
義昭が将軍の地位につけているのは信長の尽力によるところが大きい。それにもかかわらず、義昭は各地の反織田勢力と手を結び、あろうことか、兄の仇である筈の三好氏とも同盟関係を結んで信長包囲網を形成したのだ。その報を聞いた当時の元親は、義昭の行動上の理解に苦しみ、複雑怪奇な上方情勢の解像度を少しでも上げるため、情報網の構築に長けた左京進を京に派遣した。
結局のところ、義昭は、信長によって京から追い出された。だが、未だに将軍としての権威は保持しており、それを利用して諸邦に檄を飛ばし、信長を囲む網を分厚く補強しようとし続けている。
意外なことに、元親の下にもその檄文が送られてきた。味方は一人でも多い方が良いという判断なのだろう。だが、元親は当然の様にそれを無視した。
それどころか、ののの兄を介して織田家との直接のつながりを強めた。元親は信長がこの逆境に負けるような人物ではないと知っている。と言っても、その絶頂期に本能寺で死ぬという事ぐらいしか知らないが……。
ともあれ、その檄文が送られてきたことぐらいしか上方からの影響はなかった。相も変わらず四国山地に抱かれるように守られて平和を謳歌している。
だが、土佐国外であるなら無縁でいられるが、国内ともなると話は別だった。
兼定が豊後より来襲したことによって、土佐にも数年ぶりに戦乱が訪れようとしていた。




