命の天秤
私が知る先生という人は穏やかで優しく、時には厳しくまるで父親のような人でした。
貿易都市で身寄りのない子供達を預かり、世話をして育てて巣立つまで見守る。
心を閉ざした子供がいれば寄り添い、凍った心が溶けるまで根気良く向き合い。
荒んだ心で盗みや暴力に手を染める子供には叱り、分かってくれるまで何度も説得していました。
そんな先生の背中を見て、私達は育ったのです。
そんな先生の姿を知っているからこそ。
孤児院で育った子供を奴隷として売りに出しているという黒い噂を知っても、信じることが出来なかった。
最後までそんなことはないって思いたかった。
でも、今目の前の光景はその全てを否定していました。
シアンさんを見つけ、オウカさんと別れた私達はあるかも分からない奴隷契約の研究室を探しました。
時間に余裕がない中、一際豪華な一室の本棚。その僅かな歪みに気付き、サラサが力技で本棚を破壊して見つけたその裏側にあった隠し扉。
その奥にあった地下へと続くいかにも怪しい階段。
それを降りた先にあった広い空間。
その光景を見た私は絶句しました。
壁には手首に手錠を繋がれて吊るされた子供達。
体には複雑な紋章が刻まれており、そしてその全員が息をしていませんでした。
口から吐かれただろう吐血が石畳の床に血溜まりを作っています。
見覚えがあります。
孤児院の子供達です。
中には手足が折れて骨が剥き出しになっている子もいます。
なんて、
なんて酷いことを……。
反対側の壁には一面に本棚が敷き詰められていて、その全てに分厚い本がびっしりと敷き詰められていました。
本棚に入りきらない本が床に平積みで山のように並んでいます。
床には何かを書き殴った紙片や、ページを開いたままの本。
腐敗した遺体。
人間の遺骨。
千切れた腕や足。
飛び散った内臓。
見ているだけで胃から込み上げてくるものがありました。
乱雑に置かれた机にはガラスの容器がいくつも並び、中には変な色の液体が入っています。
見覚えのある背中が一心不乱に机に齧り付いて何かを書いていました。
見間違える筈がありません。
孤児院の先生が、そこにはいました。
そしてそれを守るように刃物を構えたエリーが。
「お願い、ここから出ていって……」
泣きそうな顔で言いました。
「おい、エリー!! 先生が、いや、コイツが何をしてるか分かってんだろ!?」
サラサが叫びます。
「分かってるよ!!」
「ならそこをどきな、そいつは生かしておいていい人間じゃないっ!!」
「いやっ!!」
エリーが泣き叫びながら首を横にふります。
「エリー!! こいつは孤児院の子供達を奴隷にする為に育ててたんだぞ!?」
「知ってるよっ!!」
「ロイ兄だって死んだんだぞ!?」
「先生が、やったのを……、見てた、よ……っ」
「お前……っ!! 他の子達が死ぬのも黙って見てたのか!?」
「そうだよ!!」
サラサの殺気が膨れ上がります。
このままではエリーは死ぬ。
あんな小さな刃物を握った素人如き、サラサからしたら障害にもならないでしょう。
「サラサ待って!」
「セシリア?」
「先生、……こちらを向いたらどうなんですか? それとも、私達に合わす顔すらありませんか……?」
一心不乱に机に齧り付くように何かを書き殴る先生はこちらに気付いた様子がないように一切の反応がありません。
ただひたすら鬼気迫る様子で手を走らせています。
「エリー、お願いどいて」
「いや!」
「どうして?」
私にはエリーが先生のやっていることを知っていて尚、それでも先生を守る理由が思い浮かびません。
「死んじゃうから……」
エリーが絞り出すようにそう言いました。
「セシリアさん!!」
シアンさんが叫びます。
視線を向けると彼女はエリーを指差していました。
正確にはその背後を。
「背中が、光ってます」
よく見るとこの薄暗い部屋を僅かに照らす木漏れ日のような光が、エリーの服の袖から漏れ出ています。
光の発生源は恐らく、彼女の背中。
光る背中には覚えがあります。
忌まわしき奴隷との契約。
奴隷契約の刻印。
それがエリーの背中にあって。
その奴隷紋がもしも彼女の命を脅かすものだとしたら。
私達はその邪悪な契約に覚えがあります。
恐らく契約主は先生。
先生が契約し、命令したから逆らえない。
だから孤児院で私を眠らせた。
だからロイ兄さんを見殺しにした。
だから孤児院の子供達も助けられなかった。
自らの命と天秤に掛けられて、彼女は何も出来なかった。
悪いのは彼女ではない。
彼女にそれを強要した先生だ。
いや、もはやあの男に先生だなんて似合わない。
アルフレッド。
あの男を許してはならない。
「私は死にたくないっ!! 死にたくないよぉ……」
刃物を構えたエリーが泣き叫びながら髪を振り乱して叫びます。
その悲痛な叫びには胸が痛くなるほど。
「セシリア、エリーがどんな命令をされているか分からない」
「ええ……」
「命令を達成出来なくても死ぬんだよな……?」
「その筈よ」
「……全部助けられるほど、あたしらは万能じゃない」
「分かってるよ、……分かってるけどっ」
サラサが言いたいことは分かる。
シアンも助けたい。
アニスも助けたい。
リリアも助けたい。
エリーも助けたい。
サラサと一緒に生きて帰りたい。
皆無事で。
そんなことが難しいことくらい私にだって分かってる。
選択しなければならない。
優先順位は確かにあるのだ。
命の優先順位が。
そしてエリーは妹のような存在で。
幼い頃から知っていて。
可哀想ではあるけれど。
この状況で彼女まで背負うのは現実的じゃない。
「サラサッ!!」
名を呼ぶ。
それだけで伝わる筈だ。
サラサは床を蹴り、一瞬でエリーの目の前まで飛ぶ。
近接戦闘なんて出来ない私からすればサラサのそれはまるで瞬間移動のようだ。
恐らくまともな戦闘経験のないエリーからすれば目で追うことなど不可能だろう。
一閃。
サラサの剣が刃物を弾く。
流れるような動作でそのまま回転蹴りがエリーに直撃する。
命を奪うことはなく、ただ一撃で意識を刈り取る蹴り。
一瞬だった。
その一瞬でエリーは無力化されて、サラサの剣は無防備に背中を見せる男に届く。
届く筈だった。
でもその剣は背中を向けたままで受け止められた。
止めたのは振り向かず片腕で構えた歪な形の刃物。
まるで触手のようにうねって枝分かれした実用性があるとは思えない刃物で、それを逆手に構えたアルフレッドは片腕でサラサの両手で振り下ろした剣を受け止めていました。
ありえないことです。
女とはいえ、サラサは冒険者としてかなりの実力を持つ近接職です。
その両手剣の体重を乗せた一撃を片手で受け止めるなんて人間業じゃありません。
「……うるさいなぁ、いまいいところなんだよ。邪魔をしないでくれないか?」
「この……っ!?」
サラサが吹き飛びます。
何をしたのか私では目で追えませんでした。
それほどの身のこなし。
なんとか受け身を取ったサラサは片手でお腹を庇うように押さえています。
「――――――――っ!!!!!」
声にならないその絶叫はエリーのものでした。
床に蹲ったまま、彼女は体を掻きむしるように悶えています。
「うううぅうぅうううぅうぅぅぅうううぅぅっ」
唸るように喉の奥から音をかき鳴らすその姿は異常でした。
「かわいそうに、いま耐えがたい痛みが彼女を襲っている筈だ」
「お前の――っ」
サラサが跳躍し、両手剣を振り上げて一呼吸の間に振り下ろします。
「せいだろうがっ!!」
「それは違う」
アルフレッドは簡単にそれを躱すと、今度は右手に持った小瓶をサラサに投げつけました。
サラサが慌てて振り払うと小瓶は割れて中の液体が霧状に散布されます。
色がおかしい。
それに嫌な感じがします。
「サラサ、吸っちゃダメ! 毒よ!!」
「!?」
サラサは服の袖で口と鼻を抑えると、後ろに飛びます。
吸ったかどうか確認している暇はありません。
この状況でサラサが毒に侵されれば致命的です。
私は素早く詠唱を済ませると、解毒の魔法を唱えます。
魔法に意識が向いたその瞬間。
刃物は私の目の前にありました。
触手のような歪な形をしたその刃物が。
魔法の発動に集中していた私は無防備で。
それを躱す術なんてなくて。
「セシリアっ!!」
サラサの必死の声も遠く、まるで景色がゆっくりと流れるように。
脇腹に突き刺さるような衝撃でなんとかその凶刃から逃れました。
「かふっ」
油断していた腹部にやってきた衝撃で呼吸が出来ないです。
正直滅茶苦茶痛いですけど、あの刃物で斬られるよりはマシでしょう。
命拾いしました。
私の命を救ったのは横から私を突き飛ばしたシアンの小さな手でした。
「大丈夫ですか!?」
「――――――っ」
シアンに突き飛ばされた腹部が予想外に痛くて返答出来ませんが。
ありがとうの気持ちを込めて頷きます。
「セシリアに手を出すんじゃねぇっ!!」
激しい剣戟が部屋の空気を震わせます。
サラサの両手剣とアルフレッドのナイフがぶつかるたびに火花が散り、薄暗い部屋を照らすように明滅していました。
そして倒れたエリーは今も尚、痛みに苦しみのたうち回っています。
悲鳴を上げられないほどの痛み。
言葉にならない呻き声が剣戟の音に交じって嫌に響きました。
そして彼女は吐血します。
まるで内臓を引き裂かれたかのように大量の血が口から吐き出されている様子は見るに堪えません。
一刻も早く何とかしないと。
ただアルフレッドも只者じゃありません。
サラサ相手に互角。いや、それ以上に剣を交えています。
「時間切れのようだね」
アルフレッドが呟くと。
エリーは突然動かなくなりました。
呻くこともなく。
体を掻きむしることもなく。
そして呼吸すらもしていない。
まるで糸の切れた人形のように。
「本当にかわいそうに」
「お前――っ」
「彼女はただ生きたかっただけなのにね?」
まるで他人事のように。
なんの責任もなく。
命を命とも思わない。
その言葉は。
到底許せるものじゃない。
「アルフレッドっ!!」
憎しみを込めてその名を呼びます。
明確な殺意を持って。
私は彼と相対します。
「私は貴方を絶対に許さない……っ」
緊張感の欠片もない気の抜けた声で。
無感情に。
どこまでも起伏のない平坦な心で。
彼は言いました。
「そもそも、エリーがこうなったのは君たちのせいだろう?」
そんな、許せない言葉を。
忙し過ぎて久しぶりの更新になります。
落ち着くまでは更新頻度が下がるかもしれません。




