エピローグ
言葉と言うものは不可思議なものである。
人形は人の形を写す言葉だし、鞄は皮で何かしらを包む意味を持つもので、
電子レンジに至れば電子と料理用の釜戸を合わせたのだから至極分かり易いものだ。
そんな事を考えながら、僕は婆ちゃん家の黒電話のダイアルに指を掛ける。右手には受話器。左手には電話帳を開き、彼の人の番号を探した。外ではトンビが鳴き、障子から通る風が心地よい。矢張り高山の夏は涼しい。
【然らば愛は?】
中学生の頃、親元を離れてここから学校に通っていたため、嘗ての友の連絡先は全てこの家のこの張簿に載っている。
逆にここにしか残っていないから、市内から50分もかかるこんな岐阜の辺境まで来なきゃ行けないわけだが。
帳簿の端、ラストのページに、控えめに書いてある中学生らしい、愛らしくも汚ねぇ字。苦心して辿ると、矢張りあった。『吉佐史乃』
【愛…愛は、㤅で、「胸がいっぱい」になる…で、夊で「足を引き摺る」つまり心残りを表すんだよ。確か。】
指にかかったダイアルを撫でるように回す。ぎぃころぎぃころ。部屋中に響くレトロな摩擦音は中学生の頃の記憶を鮮明に蘇らせる。
【そんなこと聞きたいのではないよ土鞍少年?愛とは何か。言語から紐解くのも浪漫があって良いが、矢張りそこは経験から求めねば!】
色褪せた日々の中色づく、彼の人の言い回しはヤケに古風であった事を思い出し思わず吹き出す。
思い出の中のその日も、丁度今日の様な風の心地よい、麗かな日だった。
【僕と吉佐さんは同い年だろう?少年はよしてよ】【人間の美徳はすべてその実践と経験によっておのずと増えるんだよ。実践と経験を重ねれば自ずと美徳________つまり愛も増え、そうしたら認識し易くなる。ほぅら。経験と体験は大事だよ。】
受話器を耳に当てる。二、三回のコールの後、彼女は受話器を取った。自ずと握る手が強くなる。
(嗚呼。声を聞くのはいつぶりだろう。中二の夏、彼の人が転校してから、早いもので五年も経ってしまった。
愛はまだよく解らない、でももし、君のその意地悪な声、古風な言い回し、無駄に綺麗な黒髪、栗色に淡い瞳、触れたくなるようなその唇、そしてその_________________________少年と僕を呼ぶ君の姿全てを見たら、僕は愛が分かるかもしれない。そうだ僕は君に惚れていた。君は、君はどうなのだ?)
しかし受話器から流れてくる音は、未だ聞こえない。だが受話器を取る音は聞こえた為、彼女に今、僕が何か話せば声が届くのは確かだ。
「あの…もしもし、吉佐さん?久しぶり、覚えてるかな、中学の時一緒のクラスだった土鞍だけど…」
【知ってるさ、ソクラテスの言葉だろ。しかし愛というのも分かり易いじゃないか吉佐さん。お互いに好意を抱けば良いのだから。】【あー、呆れた。これだから中坊の少年は…。愛ほど解りにくく難解なものはないよ。】
【重言。全く、吉佐さんは人生何回生なんだい…。君も同じ中学生の少年のはずだろ?】
「……………、土鞍少年?」
えらく嗄れた声だったが、それはまさに吉佐だった。僕は偉く歓喜して、用意してた言葉全てをすっぽかして、思わず用件だけ、先に言ってしまった。
【ふふふ、大学2回生】【もう、ふざけないでくれよ。】【あら、ほんとよ?】
「あの…今度一緒にどこか行かない?急なのは分かってるけど、久し振りに旧友とも仲を深め直したいというか…。」
「少年。」「?なんだい」
「悪いけど私は行けないよ。ご覧…いや、ご清聴の通り死にかけみたいなやつなんでね。」
「えっ?」
「やられたんだよ…さるぼぼ隊とかいう巫山戯た連中に…荒らされた…。私の研究もボチャだ。もう若返れない…。」
「若返る……?」
途端、しまったという風な掠れた声を出して、無機質な音が流れ出した。その内通話が切れたのだと漸く気づき、後一、二回ほどかけ直したが繋がらなかった。
こうして意味の分からぬまま僕の初恋は終わった。
しかしこの時、初恋などと気を取られてはいけなかったのだ。巫山戯たさるぼぼ達が、もうすぐそこまで来ていた。
つゞく