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短編(日常・恋愛)

特保みたいな恋をした

作者: 鞠目

「本日からお世話になります、特定(とくさだ)保子(やすこ)と申します。前職は食品メーカーで電話窓口の業務をしていました」

 仕事ができそうな人、それが彼女の第一印象だった。

「ご迷惑をおかけすることもあるかと思いますが、一日でも早く皆様のお役に立てるよう頑張ります。ご指導ご鞭撻の程、何卒よろしくお願いいたします」

 ダークグレーのスーツに、ショートカットの黒髪、就活生のような真っ白でぴんとアイロンが当てられたシャツを着た彼女。きっとこの人はすごく真面目か、もしくは初日だけ見た目を重視する人のどちらかなのだろう。まあ、どちらでもおれには関係のないことだ、この時はそう思っていた。


 実際、特定さんはとても仕事が良くできた。あと、真面目が服を着ているのかと思うぐらいくそ真面目だった。

 仕事に関して飲み込みが早く、一度伝えたことを何度も聞いてくることはなかった。営業事務の仕事は初めてと聞くが、彼女が処理した営業書類はいつも正確で、しかも処理スピードも早い。

 しかも、隙間の時間を使って作ってくれる、営業担当のための補足説明用資料は非常に使いやすく、彼女が入社して半年後には、うちの営業部に必要不可欠な人材になっていた。


「これ、君のところの新しい事務の人が作ってくれた資料だね? とても分かりやすくて助かっているよ」

 彼女が入社してから取引先を回るとこう言われることが増えた。

「もしよかったら、お客様にこちらの資料をお渡しください」そう言って営業担当全員に彼女が配った、うちの商品説明資料は、非常に分かりやすく、顧客からも好評だった。

 医療品や薬、健康食品から研究資材を専門に扱ううちの会社の商品群はかなり複雑で、新人の営業担当ですら全て把握するのに時間がかかる。なのに、彼女は入社後すぐに全ての商品を理解するだけでなく、もともとあった資料よりも、もっと分かりやすい顧客向け説明資料を作ってくれたのだった。

 彼女が作った資料には表紙に『と』と小さなマークが付けられていて、誰もが一目で彼女が作った資料かどうかを判断することができた。彼女が入社して一年が経過する頃には、営業関係の資料のほとんどに『と』のマークが付き、彼女は社内外両方から絶大な信頼を獲得していた。

 ただ、彼女は真面目過ぎると言うのか、冗談が伝わらないと言うのか、性格の一部が邪魔をして、人間関係の面においてはまだ、職場に馴染みきれていなかった。


「あの、来週の日曜日にロハスマーケットがあるんですが、一緒にどうですか?」

 特定さんが入社して二年が過ぎようとしていた頃、一人で残業をしていると突然彼女に誘われた。おれが想定外のお誘いに固まっていると「ロハスマーケットは植物園で行われる、環境保護と健康をテーマにした大きなバザーみたいなもので、えっと、エコバッグは持っていかなきゃいけないんですけど、ご飯も美味しくて……」と、しどろもどろになりながらロハスマーケットについて説明をしようとしてくれた。普段見せない表情があまりにも可愛くて、おれは思わず赤面しそうになった。

「ああ、ごめん、びっくりしてさ。いいよ、行こう。楽しそうなイベントだね。何時に行こうか?」

 どうして誘ってくれたのかはわからないけれど、おれは一緒に遊びに行くことにした。生真面目だが男性社員に人気の特定さんに、彼氏がいるとは聞いたことはない。週末の外出相手がおれなんかでいいのだろうかと気になるが、変なことを聞いて『やっぱりやめときます』なんて言われると怖いので、あえて聞かないでおいた。

「いいんですか! ありがとうございます!」

 嬉しそうに喜ぶ彼女を見て、改めて彼女が可愛かったことを認識した。今まで遠目に眺めるだけだったけれど、もしできることならこの人とお付き合いしてみたい。いつの間におれはそんなことを考えるようになっていた。

 ロハスマーケットは週末の大雨による影響で中止になってしまったけれど、その一件をきっかけにおれたちは月に一、二回遊びに行くようになり、その半年後にはお付き合いすることになった。

 因みに彼女は入社した時から人畜無害そうな雰囲気を出すおれのことが気になっていたらしい。くすくすと笑いながら話す彼女を見て、物好きな人もいるもんだなあとしみじみと思った。


 保子と付き合ってわかったことが二つある。一つ目は彼女と一緒にいるととってもお金がかかるということだ。

 健康志向の彼女、同棲を始めて分かったことだが食べる物にかなり気を遣っている。オーガニックや有機栽培、無農薬といった言葉のついたお値段の高い食材にこだわるため、食費がすごい。また、外食をするにしてもジャンクフードはNGで、こちらもオーガニックや契約農家から仕入れた野菜しか使わないようなレストランにしか行かないので、これもまたお金がかかる。

 あと、定期的に運動するように言われ、彼女が通うジムに一緒におれも通うようになったのだが、こちらは月謝と合わせておすすめされたサプリメントも買うので、さらに出費がかさむ。

「健康に長生きするためだから」

 彼女は笑顔でそう言うが、金銭的にも精神的にも少し辛いものがある。


 二つ目は結婚への障壁が高いことだ。それもちょっとやそっとの高さじゃなく、見上げてもてっぺんが見えないぐらい高い。

 付き合い始めてすぐの頃、保子に「私、早く結婚したいの」と打ち明けられた。彼女は二十代後半、おれは三十代前半。確かに結婚を先延ばしにするのは良くないと思うが、性急過ぎやしないかと引っかかった。しかし、彼女が焦る理由はすぐに分かった。親の存在だ。

 彼女の両親は大切な娘を、よくわからない男にやるわけにはいかないと考えており、二人を納得させるには二人の中にある不安要素を全て取り除かねばならないらしい。話を聞いた当初は、当然のことだろうと思ったが、おれの考えは甘かった。

 彼女の実家で初めてご両親に会った時、おれは真っ白で無機質な会議室のような部屋に通され、そこで出身地、趣味、学歴、取得資格を圧迫面接のように聞かれた。

 保子のご両親は濃紺のスーツを着ていて、おれが話す度にバインダーに挟まれた分厚いプリントの束に何かを記載していた。国の機関で働いているらしいお二人は「私たちの質問やお出しする課題は国の審査と……」とかなんとか小難しい説明をされたが、想像を超えるご両親の対応に混乱していたおれは、言葉を全て拾いきれなかった。

 楽しい会話なんてものはなく、二時間かけてご両親からの全ての質問に答え切り、へとへとになりながら帰ろうとした時、彼女のお母さんから「じゃあ次は健康診断、それから各種試験ね」と言われた。おれは何も考えず「引き続きよろしくお願いします」と言って帰路についた。

 お母さんの発言の意味が分かったのは、圧迫面接の二週間後だった。家に帰るとポストに人間ドックの資料が届いていた。資料には保子のお母さんからの手紙が数十枚添えられており、内容を要約すると、どうやらおれの健康状態が心配だから人間ドックを受けてこい、ということらしい。

 こうしておれは彼女の両親の要望に応えるために、人間ドックを受けて検査結果を提出した。すると、検査結果を送った翌週にまた書類が届いた。書類には次の指示があり、指定された試験を受けるようにと書いてあった。おれは仕方がないので指示に従って、TOEICや TOEFL、聞いたことのない団体が実施する学力テストをたくさん受けた。試験理由は毎回長々と説明されたが、まとめると『お前の学力が不安だから』ということらしい。


 学力系のテストが終わると次はフルマラソン、歌唱力、料理スキル、サバイバルスキル、元ライトフライ級王者とのスパーリングなど、様々な試験や課題を受けさせられた。悪い結果が出た時は、両親が求める合格ラインに達するまで何度も挑戦を繰り返し、そしてたまに抜き打ちで過去にクリアした試験を再度受けさせられた。抜き打ち再試験に関しては、電話で保子のお母さんに理由を聞いてみたところ、もう説明するのが面倒になったのか、『不安だから』と言われた。流石に頭に血が上ったが、ここで冷静さを欠く行動をして、これまでの努力が水の泡になるのは辛かったので、笑顔で「そうですか」とだけ答えた。

 彼女と同棲して三年目、子どもが欲しいという保子の年齢を考えて、おれは保子の実家に結婚させて欲しいとお願いしに行った。しかし、返答は『認められない』の一点張りだった。理由は『まだ審査が終わっていない』とのことだった。思うところは大量にあったが、おれは一日でも早く審査を終わらせて、早く結婚を認めてもらおうと決意した。

 彼女と同棲して七年目、ご両親からの試練がやっと終盤戦に突入した。しかし、八十八個目の課題である、世界一過酷なトライアスロンのレース完走に向けて、スイムの練習中におれはふと気がついた。

「おれは一体何をやっているんだろう?」


 保子は既に三十半ば、おれはもう四十だ。結婚のために頑張ってきたが、彼女のこだわりによる出費や、ご両親の課題に合格するための出費で貯金はあまりない。そして、うちの親は大して金持ちでもないし、保子のご両親からは『結婚したとしても資金的な援助はしない』と宣言されているため、結婚式や夢のマイホーム、それから子どもの養育費に対して資金的な援助を受けられる見込みはない。

 そもそもうちの親は「あんたは何年も何のために、一体何をやってるの?」と実家に帰る度に不思議がられた。よく考えてみればその通りである。おれももうよくわからない。

 さらにもっと不思議なのが保子だ。応援してくれているのはわかる。わかるが、何故親を止めてくれない? 何度二人で結婚の話をしても「うちの親がごめんね」と言って毎回会話を勝手に切り上げられる。そう思うとおれの中でなにかがふつふつと湧き上がり泳ぎが加速した。

 この日おれはスイムのタイムで自己新記録を出すがこの日を境にトライアスロンの練習を辞めた。


 今、おれは結婚して二児の父である。妻は保子ではない。

 スイムで自己新記録を出したあの日、おれは保子と別れた。彼女はおれを引き止めることもなく「そう、じゃあ仕方がないね」と言っただけだった。別れて四ヶ月後、彼女は会社を辞めておれの前から完全に姿を消した。

 おれは今も同じ会社で働いている。営業に出る度に今でも『と』のマークがついた資料を使っているが、最近は『き』のマークがついたものが増えてきた。『き』は木幾(きき)能佳(のりか)が作った資料だから『き』のマークなんだそうだ。木幾は保子が辞めた一年後にやってきた後輩の女性社員で、そして今のおれの妻だ。

 能佳(のりか)は保子と同じぐらい仕事が良くできた。いや、それ以上に仕事ができ、人当たりも良くみんなから好かれていた。真面目だった保子と比べるとゆるいというか、砕けた雰囲気のある彼女は入社後あっという間に会社に馴染んでいた。

 能佳にはおれからアプローチした。どこがどう好きなのかうまく説明できないが、言ってしまえば一目惚れだった。お付き合いし始めた頃に「私の親、すごく厳しいから驚かせることになるかもしれない」と言われた時、おれはまたこの展開なのかと覚悟を決めた。

 しかし、それは杞憂(きゆう)に終わる。保子の親から出された検査や課題の結果を持ってご挨拶に行くと、ご両親はすんなりと付き合うことを認めてくれるどころか、結婚まで認めてくれた。おれが持参した資料については「こちらで審査をすることはないから安心するといい。その代わりしっかりと自己管理を続けなさい」と能佳のお父さんに笑顔で言われた。あまりにも優しい反応と思いの外あっさりとことが進んだことに、おれは夢でも見ているのではないかと思った。

 後日、能佳から聞いた話によると、おれが帰った後、彼女のご両親はおれのことを褒めちぎっていたそうだ。しかも、嬉しいことに、今まで連れて行った男を全否定してばかりだったお父さんが初めて認めてくれた男がおれになるらしい。

「なんかね、『しっかりした男を連れてきたじゃないか』って喜んでたよ。過去の努力は無駄じゃなかったんじゃない?」と笑いながら言う彼女を見て、おれもそうかもしれないなと少し思った。


「前の資料もわかりやすかったけど、新しいこのマークがついたこっちの資料も分かりやすくて助かってるよ」

 最近は得意先からこう言われることが増えた。資料自体に問題はないので、保子が作った資料は今でも使われているが、イラストや、より噛み砕いた表現が多用された『き』のマークの資料も増えてきており、営業担当はお客様へのヒアリングを元に資料を使い分けている。どちらか片方を残すのではなく共存している状態は会社にとってもお客様にとっても良い状態だと思う。

 今でも営業に出た時、『と』のマークのついた資料を見る度に、色々と思い出すことはある。あの頃より精神的にも金銭的にもゆとりのある生活ができているが、その反面厳しい目がないので堕落しないように気をつけなければいけない。

 そう考えると、あの頃に戻りたいとは思わないが、悪いことばかりでもなかったのかもしれない。そんなことを考えながら、今日もおれはお客様への最適な提案ができるように『と』と『き』のマークの付いた資料を持って営業に向かう。

 

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[良い点] ∀・)面白いコンセプトを持った作品なんだろうなぁと思って読んでみたら本当に面白いコンセプトを持った作品でありました。僕がこういうのを書いたらブレると思うんですけど、本作は全然ブレてないです…
[良い点]  保子を思う気持ちが、後々主人公の幸せにつながっていて、もしかして自分の周りにいる人との繋がりが、将来、意外なところで、役に立つかも……と、前向きな気持ちになりました。
[良い点] 自分にもトクホのお茶などに凝ってた時期があったなぁと思いつつ読みました。 最初の彼女、特定さんとの恋は主人公がギブアップする格好となりました。 しかし、その時の経験が木幾さんとの交際や後の…
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