出立1
ここは江戸城本丸御殿にある将軍御休息之間。
「お勝よ! 無事であったか」
勝姫が童子切安綱と長篠一文字を持って御休息之間に姿を見せた途端、二代将軍徳川家忠は人目もはばからずに勝姫に抱きついた。
「父はいたく心配したのだぞ! 怪我はないか? 痛いところはないか?」
勝姫を心配そうにのぞき込む目は潤み、今にも泣き出しそうだ。
だが、勝姫の表情は冷たい。
「父上、キモイ」
戦国世代の秀忠には「キモイ」の意味はわからなかったが、何やら一方的に拒絶されたのは直感的に分かった。
衝撃のあまりに顔面蒼白で立ちつくす秀忠をそのままに勝姫は歩を進め、御休息之間にいるもう一人の人物、天海上人の前に座った。
「天海和尚。これが長篠一文字です」
「ご苦労でございました」
天海は勝姫が差し出した一刀を両手でうやうやしく受け取った。
その間に秀忠は袖で目頭を押さえながら「これが反抗期か?」とつぶやきながら上座に座る。
秀忠が腰を下ろすと天海が口を開いた。
「昨晩に柳生十兵衛より報告を受けました。勝姫様におかれましては、鬼憑きとの初の実戦において、いささかも動じることなく見事に勝利を収めたとのこと。お祝い申し上げます」
そう言うと天海は勝姫に向かって深々と頭を下げた。
「大層な事は成しておりませぬ」
勝姫は慌てて首を振った。
幼少の頃より四書五経を手始めに、兵法や礼儀作法といった帝王学を天海に叩き込まれてきた。しかし、天海がここまで勝姫を褒めるのは初めてだ。
勝姫は尊敬する天海に褒められて素直に嬉しかったのだが、十兵衛の報告にあった「いささかも動じず」というのは嘘だと思った。
大いに動揺していた。あの遊女を斬った感触が手の平から抜けず、昨晩はほとんど眠れなかったのだ。
初めて人を切った感触と鮮やかな肉の色、我が身に降りかかった血の生暖かさが今でもありありと思い出される。
勝姫はその恐ろしさを素直に天海に告げた。
「人を斬る恐ろしさに気づかれた。それだけで、姫様はご立派でございます」
天海は、火傷の痕が大半を覆うその顔を崩し、微笑した。
この火傷については、誰もその因果を知らない。
家康の側近として数多の朝廷工作に奔走し、江戸城普請と城下の町割まで指導したこの天下の傑物に対し、無遠慮にその手の質問ができる者などいなかった。
勝姫にいたっては、師の火傷の跡など気にしたことはなかった。
「長篠一文字に封じられし鬼力『収斂』は首尾よく呑み取れましたかな」
「無事ここに」
天海の問いに、勝姫が右手で自分の胸をそっと触って答えた。
その様子を見た秀忠が「不憫じゃ」と突然に声を震わせた。
「まだ十三歳と年端もいかぬ姫が、恐ろしき鬼の力をすでに二つもその身に宿すとは。この秀忠が代わってやれるなら代わってやりたい」
ついにはさめざめと泣き出してしまった。
「これも天下安寧のためにございます」
天海は秀忠を諭すように話しだした。
「呪われし尾張織田家の血肉を受け継ぐ勝姫様にしか、複数の鬼力を体内で飼い慣らせないのです。殿やわたくしのような常人が二つ以上の鬼力を宿せば太閤秀吉のように気が触れますぞ」
天海の口がいつもの物語をつむぎだし始めた。
「そもそも、織田信長公がその体に四十八もの鬼を宿すにいたったのは、尾張の虎と称された父の織田信秀公に元凶があります……」
尾張の一奉行に過ぎなかった若き日の信秀は、古来より熱田の地に棲んでいた鬼四十八匹とある密約を交わした。
信秀がこれから生まれてくる我が子たちの血肉を四十八匹に捧げる代わりに、鬼たちは信秀に天下を獲る力を授けるという契りだった。
その密約の直後、信秀に長男信長が誕生した。
鬼たちは赤ん坊の信長の目や右手、心の臓、はらわた、脳髄などその体を四十八個に分けて食らった。
そして、それぞれが食らった体の部位を埋めるように、鬼たちは信長の体そのものになった。ある鬼は信長の目となり、ある鬼は右手となり、ある鬼は心の臓となった。
鬼たちは信長の粗暴で残忍な魂が気に入り、己の依り代としたのだった。
信長は四十八匹の鬼を体に宿したまま成長。いつしか、信長の魂の力は鬼のそれを凌駕していた。ついには、鬼を屈従させ、彼らの持つ特殊な力を自在に使えるまでになった。
そして、横死した父信秀に代わり、信長は天下布武を掲げて天下統一に乗り出す。
しかし、野望達成の寸前で重臣明智光秀の謀反に遭う。本能寺の変にて、光秀は名刀の持つ破魔の力で信長の鬼四十八匹を封じ、信長を討ち取ったのだ。
その後、光秀、秀吉、家康へと時の権力者は目まぐるしく移り変わった。
現在、家康は次男の秀忠を二代将軍に指名し、自分は生まれ故郷に近い駿府に暮らしている。ただ、大御所として未だに絶大な権力を誇示している。
一方の豊臣家は六十五万石の一大名にまで没落。しかし、豊臣家には今なお秀吉の遺児秀頼、難攻不落の大坂城、莫大な財力がある。なによりも、秀吉恩顧の諸侯に圧倒的な影響力を有する。
その豊臣家が水面下で徳川家からの天下簒奪の動きを見せ始めているのだ。中心人物は秀頼の母である淀君であった。