初陣6
しかし、陽炎の刃が振り下ろされる前に漆黒の刃が動いていた。
勝姫の死を確信したはずの遊女の左肩から心の臓に向かって漆黒の刃が振り抜かれる。陽炎の傷口から血潮が豪快に噴き出し、空を舞う初雪を朱に染めた。
「なぜ来た……」
哀れみの憂いが勝姫の目に浮かぶ。
勝姫は童子切安綱を鞘に収めた直後、誰もいない前方を目がけて抜刀していたのだ。
居合斬りである。
その刃は本来ならば、ただ空を切るだけのはずだった。しかし、「収斂」の力によって陽炎は自ら己の死地に跳び込んでしまったのだ。
「ああっ……」
吐息を漏らした遊女の手から長篠一文字がこぼれ落ち、その切っ先が玉砂利を割って大地に五寸(約十五センチ)ほども深々と突き刺ささった。
「これで、ようやく死ねまする……」
陽炎は勝姫に向かって口元を緩ませた。そして、力尽きたかのように両膝を大地に付け、だらりと頭を垂れた。
「最後に津高のお山が見たかった……」
遊女はか細く声を上げると絶命した。
十兵衛が勝姫の元に駆け寄る。
「お怪我はございませんか?」
小さな姫の肩は震えていた。
そして、こともあろうに天下第一の名刀童子切安綱をぽいっと庭に放り捨てた。
――あっ、これは久しぶりに来てしまう。
十兵衛はこれからの勝姫の行動を予測して身を硬くした。
「十ぅ兵衛ぇぇえええええ! 怖かった――!」
勝姫は大きな泣き声を上げながら十兵衛にがっちりと抱きついた。
「真剣と対峙するのがあんなに怖いとは知らなんだぁああー!」
勝姫は顔をしわくちゃにし、壮大に溢れ出る涙と鼻水を十兵衛の着物に何度もこすり付けた。
「ひ、姫様! 落ち着きなさいませ!」
十兵衛は何とか勝姫を引き剥がそうとするのだが、思いのほかがっちりと抱きしめられていて離すことができない。
十兵衛は、着物が涙と鼻水で汚れるのが嫌という訳ではない。徳川将軍家の姫君が、家臣に、それもたかだか将軍家剣術指南役の嫡子ごときに抱きついているという事実がまずいと思った。
これが人の目に触れ、将軍秀忠の耳に入れば、文字通り十兵衛の首が飛び、お家断絶は間違いない。
十兵衛は、勝姫が齢三歳の頃から、剣術の稽古役兼遊び相手、そして使い走り兼なじられ役として十年近くも仕えてきている。
勝姫は幼い頃から泣き虫だった。何かにつけても号泣して泣き止まず、それをなだめるのも十兵衛の大切な役目だ。
そして、勝姫を泣き止ますのに一番効果的なのは、勝姫が落ち着くまで存分に抱きつかせ、最後にあることをすることだった。
――なでなで、である。
二人がまだ幼い頃ならばまだそれでよかった。しかし、今や勝姫は十三歳、十兵衛は十五歳だ。
勝姫が泣いて抱きついてきたのは数年ぶりだ。誰かにこのことを知られたら、十兵衛は確実に切腹だ。
主君のために死ぬるは武門の名誉なれど、正直、女を知らぬ前に死にたくはなかった。
「姫様! 離れてくだされ」
十兵衛が無礼を承知で声を荒げた。
「いやじゃぁぁああああ」
勝姫が十兵衛の羽織に顔を埋めたままぶんぶんと首を振った。
「放してほしいでござる」
十兵衛は今度は幼子をあやすように優しく声をかけた。
「嫌じゃ」
「放さぬと大変なことになります」
「嫌……」
「どうすれば放すでござるか?」
勝姫は潤んだ瞳で十兵衛を見上げると、恥ずかしげにか細く声を上げた。
「……してっ」
十兵衛は勝姫の声が十分に聞き取れなかったが、何を言いたいのかは分かった。ただ、この場はしっかりと声に出してもらわないと、仮に後々に秀忠から詰問された時に言い訳が立たない。
「もう一度、はっきりと命じてください」
「頭なでなでしてっ……」
勝姫が真っ赤な顔でこれが精一杯という様子で話した。
さすがに十三歳にもなって頭を撫でてほしいというのは気恥ずかしかったようである。
「では! ご命令とあらば」
十兵衛は右手を勝姫の頭に置くと、僅かに左右に動かし勝姫の頭を優しく撫でた。
「あはっ!」
勝姫は途端に破顔すると、涙を引っ込めた。そして、もう満足というふうに十兵衛からさっさと身を引いた。
何事もなかったかのように勝姫は元通りの高貴な表情を取り戻すと、放り出した童子切安綱を手に取った。
「ふうー」
十兵衛は大きく息を吐いて緊張を解きほぐすと、先ほどの様子を誰かに見られてはいまいかと心配になって慌てて周囲を伺った。
その心配をよそに、庭には意識を失った初老の岡っ引きと、亡骸となった遊女がいるだけだった。