初陣5
吉兵衛は庭の片隅から勝姫と陽炎を眺めつつ、女と子供の戦いに一歩も立ち入れないでいる自分に驚いた。
――なんて動きだ。
勝姫の剣技の絶妙さは、助太刀など無用と思わせる凄味と可憐さがあった。
それに増して凄まじいのは、「しゅうれん」とつぶやいた後の陽炎の動きだ。目で追えない。
――鬼の力とか言っていたな……。
その時、吉兵衛は首元に大きな衝撃を感じた。同時に意識が急に遠のき、玉砂利の庭に膝から崩れ落ちていくのが分かった。
気絶した吉兵衛の後ろに若侍が立っていた。当て身で吉兵衛の意識を奪ったのだ。
若侍は黒い羽織のはかま姿で、右目に刀の鞘を当て眼帯にしている。先ほどまで勝姫を探して江戸市中を駆け回っていた柳生十兵衛その人であった。
「十兵衛、よく追いついたな!」
肩で息する若侍を見て勝姫は明るく声を上げた。
「探しましたぞ……はあ、はあ、ここは……拙者にお任せを。我が新陰流で……」
十兵衛は喘ぎながら腰の太刀「痣丸」を抜いた。
柳生十兵衛は、将軍徳川秀忠の剣術指南役を務める父柳生宗矩に幼少から鍛え抜かれている。腕前は非公式ながらすでに目録である。
しかし、剣術の腕に覚えがあるのは勝姫も同様だった。宗矩は勝姫にとっても剣術の師である。そして、天賦の才に恵まれた勝姫はすでに目録以上の腕前だった。
つまるところ、勝姫は柳生十兵衛よりも強い。
「助太刀は無用じゃ。下がっておれ」
「下がりませぬ。姫様をお守りすることが拙者の務めでござる」
十兵衛はそう言うと右目の眼帯を外した。現れた瞳の色は、激しい打ち身によってできる青い痣のような色をしていた。
「姫様、あの女に宿りし鬼の力が分かりました。我が鬼力『真贋』によれば、長篠一文字に封じられし鬼力は『収斂』。一瞬で間合いを詰められる能力です」
◆◆◆
〈痣丸〉源平合戦で活躍し、悪七兵衛の異名を持つ猛将平景清が所有していた。景清の死後、痣丸を所持した武将は失明したり目の病気を患ったりする不幸に見舞われた。
◆◆◆
痣丸を使う十兵衛の右目は、鬼力「真贋」を宿す負担で青く変色してしまっている。そのため、十兵衛は鬼の力を使う時以外は、鍔の眼帯で右目を隠しているのだ。
「一目で相手の能力を見破るとは、『真贋』は相変わらず卑怯な能力じゃの」
勝姫が肩をすぼめると、十兵衛は淡々と反論した。
「相手を知り、対策を立てることは卑怯ではござらん。さあ、先日に姫様が呑み取った鬼力『空隙』をお使いくだされ。間合いから一瞬にして離れられる能力『空隙』ならば『収斂』の能力を無効化できます」
「逃げ回っていて、勝てるはずがなかろう。ましてや、民草を相手に鬼の力など使えるか」
童子切安綱を正眼の構えで陽炎に向けたまま、勝姫はきぜんと言い放った。
「しかし、危のうございまする」
「わらわが後れを取ると思うのか?」
勝姫は十兵衛の忠告を受け流すと、庭にいる陽炎に向かって大きく口を開いた。
「将軍徳川秀忠の三女勝姫として、もう一度、そなたに命じる」
勝姫は大音声で言い放った。
「長篠一文字を徳川家に差し出せ。さすれば、これまでのわらわに対する狼藉や、この遊女屋における人殺しの罪には目をつぶってやろう」
だが、陽炎は何も答えない。長篠一文字を放そうともしない。乱れた黒髪の間から、濁った眼で天下人の姫君を見つめるばかりだ。
十兵衛はその瞳の闇を見て背筋が震えた。妬みや憂い、嘆き、怒りといった下々の者が身分の高い者に抱く、通り一遍の感情ではなかった。そこには、男女の愛欲に飲み込まれ、踊らされ、心身ともに磨り減った遊女の空虚さだけがあった。
運命に流され、社会の大勢に抗しきれずに荒んでいった者だけが持つ特有の無の感情。彼らには常人には起こしがたい何事かを起こし得る恐ろしさがある。
――この女は危険だ。
十兵衛の剣士としての直感がそう告げていた。
しかし、勝姫は陽炎に声を掛け続ける。
「なんじゃ。丸腰になった途端に、わらわに斬り捨てられるとでも思っておるのか?」
勝姫は笑顔のまま庭に降りた。
「下々の者をむげには斬らぬ。証拠を見せよう」
そう言うと勝姫は突然に正眼の構えを解いた。それだけではなく、童子切安綱を右手に大きく掲げると、切っ先を背中に向け、背負った鞘に刀を収めてしまった。
「姫様!」
「収斂」
十兵衛の絶叫と陽炎の喜々とした声が同時に寒気を振るわせた。
陽炎の身が一瞬にして勝姫の前に現れる。
二尺三寸の長篠一文字を振るって、勝姫を葬り去るのに最も適した間合い。
勝姫の元に駆け寄ろうとした十兵衛は、勝利を確信した陽炎の瞳に光が差すのを見た。