初陣4
――なるほど、将軍家の姫君ともなるとさすがに顔つきが違う。
吉兵衛は納得しかける。
しかし、すぐに、
――いや、遊女屋に徳川の姫君がいる訳がない。
と慌てて首を振った。
混乱する吉兵衛は気付かなかった。この小娘が吉兵衛の方を振り返った直後、陽炎が先ほどと同じ言葉をささやいたことに。
「収斂」
直後、いつの間にか陽炎は小娘のすぐ近くに移動。目の前にいる小娘を目がけて長篠一文字を振り下ろした。
「危ねえ!」
吉兵衛は小娘を助けようと左手を伸ばした。が、それよりも早く、小娘が大太刀を持っていない左手で吉兵衛の襟首をつかむ。
そして、落ち着いた声で言い放った。
「空隙」
その瞬間、小娘と吉兵衛の身は陽炎から離れ、大広間の外にある白い玉砂利を敷きつめた庭まで移動していた。
先ほどまで二人がいた場所では、陽炎の長篠一文字の刃が空を切っている。
「あれ?」
雪を額に受けながら、吉兵衛はあまりに摩訶不思議な出来事の連続に呆けた声を上げた。
「岡っ引きよ。女子供を救おうとするその心意気、天晴れじゃ」
小娘は吉兵衛の襟首から手を放すと、にこやかに声をかけた。
雪雲の隙間から月光が差す。吉兵衛には小娘の顔が先ほどよりはっきりと見えた。
太陽を背負っているかのような気品。何よりもその威厳に満ちた声。生まれながらにして人を従える定めを帯びた声色だった。
吉兵衛は、四国の西予での初陣の後、長宗我部のお屋形様から特別に声をかけられたことを久々に思い出した。
――英傑の声色。
多くの者が一度でもその声を聞けば、自然と心根が震え、従いたくなる。
この小娘は本物の将軍家の姫だと、吉兵衛は信じた。
そして、勝姫の持つ大太刀に目を奪われた。長さのわりには細身であり、刀身は黒みがかっている。刃紋から滲み出た闇の色によって全体が染められたかのようだ。
「その刀は……」
吉兵衛は妖しい光を放つ大太刀に魅入られたかのように声を上げた。
「天下無二の名刀、童子切安綱じゃ!」
勝姫はお気に入りの玩具を自慢する幼子のように声を上げた。
吉兵衛はその刀の名を知っていた。いにしえに源頼光が酒吞童子という鬼の大将の首を切り落とした時に使った刀だ。そんな伝説の名刀が目の前にあるという事実に吉兵衛は息をのんだ。
「下がっておれ」
勝姫は吉兵衛にそう命じると、体を反転させた。そして、陽炎と向き合うと、小さな身には不釣り合いな大太刀を両手で握り直す。
「長篠一文字をわらわに渡してもらおうか」
勝姫は余裕たっぷりに話しかけた。
「その刀には、わらわの大伯父である織田信長公が宿した四十八の鬼のうちの一匹が封じられておる。刀を振るう者はその鬼の力を得る危険なものじゃ。だが、わらわは天下太平のためにその力を欲しておる」
陽炎はゆっくりと首を振った。その顔には、よくやく僅かな感情が滲んでいた。勝姫を値踏みするかのように目を細めている。
「渡さぬのならば、奪うまでだ!」
今度は勝姫が先に動いた。
陽炎に向かって跳びかかると、空中で童子切安綱を振り上げ、そのまま斬りつける。
しかし、陽炎は長篠一文字を横にし、勝姫の初太刀を頭上で見事に受け止めてみせた。
「やりおる!」
初太刀を防がれた勝姫は、着地した途端に床板を大きく踏み蹴り、その身を右前方へと躍動させた。
「収斂」
陽炎は勝姫の動きを冷静に目で追いながら、また、同じ言葉をささやいた。
途端、陽炎の身は一瞬にして勝姫の後方へと移動した。
驚き振り向いた勝姫の喉を狙い、長篠一文字が疾風の如く突き出される。
「くっ!」
勝姫は、襲ってくる切っ先を童子切安綱の刀身でなんとか受け流した。陽炎の刀は勝姫の左側へと抜けていく。
勝姫は、刀と一緒に突っ込んできた陽炎の横っ腹を思いっきり蹴りつけた。
陽炎の身が庭まで激しく吹っ飛ぶ。細身の体が大地にぶつかると、その衝撃で玉砂利が跳ね散った。
「どうじゃ!」
勝姫は得意げに胸を張った。
だが、その視線の先で陽炎はすぐに起き上がると、正眼の構えで長篠一文字の切っ先を勝姫に向けた。
あくまでも無言。その瞳はひどく濁っている。