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鬼を食らう姫  作者: 皆城さかえ
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初陣3

 陽炎は遊女らしく小袖こそでの襟首を大きくはだけさせ、白粉おしろいを塗った首元を露わにしている。

 羽織っているのは流行りの丈の長い打掛うちかけ。その柄は季節に合わせ、雪を被った松だ。


 しかし、打掛に白く染め抜かれた雪の多くは、返り血で朱に染まっていた。きれいに結い上げられていたであろう髪は乱れている。

 陽炎の顔には怒りも悲しみも戸惑いもなかった。ただ、首の白粉と唇のべにのみが艶やかに映えている。


 ――まるで幽鬼だ。

 吉兵衛は身が震える思いがした。

 しかし、こんな細腕の女に、手練れの浪人を含む男ども十数人を一刀で斬り捨てる腕があるとはやはり思えなかった。


 ――他に仲間がいるかもしれねえ。

 吉兵衛は慎重に周囲をうかがうが、陽炎の他に人の姿はない。

 やはり陽炎一人の仕業のようだ。


「おい、陽炎。てえした刀を振り回してるじゃねえか」

 吉兵衛は覚悟を決め、ことさら穏やかな口調で話し掛けた。

 

 乱心している者を相手にする場合は、まずは落ち着かせるのが常套じょうとうだ。

 吉兵衛は話し掛けながら、陽炎が両手で垂れ下げている刀を注意深く見た。

 その刃長は二尺三寸(約七十センチ)ほど。暗がりの中にありながらも銀色の光を存分に発して異様な存在感を示している。

 

 吉兵衛はそのきらめきを見て、一気に背筋が凍り付いた。

 十五歳で元服した時から戦場に出て、様々な刀、槍の下をかいくぐって命を永らえてきたが、陽炎の持つ刀の発する以上の凄味を感じたことはない。

 

 ――寄らば切られる。

 そう直感した。


 まずはあの刀を取り上げなければならない。

「おい、陽炎。そこで待ちよれよ。その刀を渡すんじゃ、女子供が持っていい物じゃあねえきに」

 吉兵衛が部屋の奥にいる陽炎の方へと一歩踏み出した時、陽炎の唇が微かに動いた。

「しゅうれん」

 吉兵衛には陽炎がそう言ったように聞こえた。


 突然、陽炎の姿が吉兵衛の視界から消えた。

「なっ!?」

 次の瞬間、驚く吉兵衛の目の前に、なぜか陽炎の姿があった。

 それも刀を振り上げた姿で。

 

 陽炎は無表情のままに刀を振り下げた。その軌道は吉兵衛の首元から心の臓を見事に捉えていた。

 吉兵衛は身を引こうとしつつも、陽炎の一刀が避けられない間合いだと直感した。

 

 ――死ぬるか。

 しかし、覚悟を決めた吉兵衛を襲ったのは、焼けるような痛みではなく、耳をつんざくような鋼の衝突音だった。

 吉兵衛と陽炎の間に躍り出て、陽炎の刃を刀で受け止めた者がいたのだ。

 

 小娘であった。


 腰まで伸びた総髪を白い布で束ねた変わった髪形をしている。その背には、大きな鞘を斜めに縛り付けている。赤い着物に金色の帯。身の丈は、吉兵衛の胸ほどしかない。

 そんな十二、十三歳にしか見えない小娘が二尺七寸(約八十センチ)はあろうかという大太刀を頭上で真横に掲げ、陽炎の一撃を見事に受け止めていた。


 小娘は長刀をさらに頭上に押し上げ、ついには陽炎の刀を弾き返す。

 陽炎は弾かれるままに飛び退き、先ほどまでいた座敷の奥の壁まで身を下げた。


「あれが長篠一文字か!」

 小娘は、陽炎の持つ刀を見ると喜々とした声を上げた。

「豪壮でありながら華やかな一振りじゃ。さすがは信長公が愛した名刀だけある」

 まるで新しい玩具を見つけた幼子のようにはしゃいでいる。


 ◆◆◆

〈長篠一文字〉信長の愛刀。長篠の戦いにおいて、武田軍から長篠城を守り抜いた城主奥平信昌に対し、信長は長篠一文字を贈ってその功を労った。

 ◆◆◆


 吉兵衛は長篠一文字という刀の号は知らなかった。ただ、遊女屋における乱闘騒ぎの最中に、小娘がしゃしゃり出てきた異常さだけは分かった。

「邪魔じゃ。危ないきに、どきよれ!」

 吉兵衛は座敷の外に小娘を引っ張りだそうと、その肩に手をかけて気付いた。


 小娘の着物は絹だった。それだけではない。金糸や銀糸をふんだんに使って、着物のいたるところに見覚えのある家紋が絢爛けんらん豪華ごうかに縫い付けられている。

 なんと、三つ葉の葵の紋であった。


 吉兵衛は慌てて小娘の肩から手を離した。

「おめえ……いや、お前様は、どなた様で……」


「将軍徳川秀忠が娘、勝じゃ!」

 勝姫は吉兵衛を振り返ると、満面の笑みで答えた。


 その口の端をきりりと上げた花咲くような笑みによって、これまで陰惨に澱んでいた遊女屋の空気が途端に華やぐ。

 小さな顔に大きな瞳、凛々しい眉、通った鼻筋、広いおでこ、小さく形の良い唇……そのすべてが気品に満ちていた。

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