大坂6
それは、八年も前の出来事だ。
勝姫は七歳。
十兵衛は九歳だった。
江戸城にいた勝姫は、母である江君が溺愛する末弟の万千代を可愛がろうと抱き上げた。
しかし、不注意で誤って床に落としてしまった。
赤子であった万千代にけがはなかったのだが、当然のごとく激しく泣いた。
勝姫は江君に激しく罵られ、怒りをぶつけられると覚悟した。
しかし、江君は万千代を抱き上げると優しくあやし続けたが、勝姫をいちべつもしなかった。
勝姫は、自分が母親に愛されていないばかりか、怒りや憎しみの対象ですらないと知った。
その心の乱れを隠す術を持たなかった勝姫は、恥じらいもなくわあわあと泣き叫び、わめき散らしながら城内の稽古場にいた十兵衛の所へとやってきた。
そして、壁にかけてある袋竹刀を手に取りと、荒ぶる気持ちそのままに十兵衛に襲いかかった。
この時まで、勝姫は十兵衛との試合において負けたことはなかった。
当然、剣術において天賦の才を持つ勝姫とはいえ、七歳では剣を持つ腕さえおぼつかない。
九歳だった十兵衛は将軍家の姫君のご機嫌取りに負けてあげていたのだ。
この日も勝姫はそんな試合のつもりだった。
思う存分に十兵衛を打ち据えることで、心の中のわだかまりを霧散させようと思ったのだ。
しかし、この日に限って、十兵衛は手加減をしなかった。
泣きながら何度も何度も襲いかかってくる勝姫の乱暴な軌道の袋竹刀を、事もなげに受け止め、時には流し、軽々とかわした。
そして、勝姫の手首、二の腕、胴、胸に容赦なく袋竹刀を叩き込んだ。
勝姫は悔しくて痛くて、さらに泣きわめきながら十兵衛に打ちかかった。
十兵衛はその技の全てを軽やかにかわし続けた。
勝姫はその十兵衛の華麗な動きに魅せられた。
それとともに、十兵衛の足元にも及ばない己の剣技の不甲斐なさを恥じた。
なによりも、ひどい泣き顔で取り乱す自分とは異なり、あくまでも余裕しゃくしゃくといった様子の十兵衛の顔が気に入らない。
――何とか一刀でも浴びせないと気が済まぬ。
勝姫は闇雲に袋竹刀を振るうのを止めた。
十兵衛の動きに合わせ、ときには自らの動きを呼び水に十兵衛を誘い、袋竹刀を振るい、技を仕掛けるようにした。
すると、袋竹刀の切っ先が十兵衛に届くようになった。
まだ、その体を打つまではいたらないが、十兵衛には先ほどまでの余裕はなくなっているようで、必死の形相で勝姫の攻撃を受け止めている。
その攻防を続けるうちに、勝姫はいつしか無心で剣を振るっていた。
勝姫は十兵衛の喉を狙って素早く袋竹刀を突く。
十兵衛はこの太刀筋を読み切り、かわすために一歩だけ後退。
その瞬間、勝姫は身を屈め、十兵衛の袋竹刀の下へと跳び込んだ。
相手の刀の下に跳び込むなど危険極まりない愚行だが、十兵衛は自分の袋竹刀によって作られた僅かな死角の所為で、勝姫の動きが見えない。
勝姫は屈めた身を起こすのと同時に、袋竹刀を十兵衛のあごを目がけて突き上げた。
――わらわの勝ちじゃ
勝姫は渾身の一撃が十兵衛のあごを砕くと確信した。
が、その途端に視界がぐにゃりと回転し、その身は激しく稽古場の床にたたきつけられた。
十兵衛が勝姫に足払いをかけたのだ。
勝姫の体は、十兵衛が予想していたよりも大きく一回転し、壮大な音を立てて床に転がった。
――やり過ぎた。
十兵衛は勝姫の攻撃をかわそうとするあまり、つい本気を出してしまった自分を責めた。
しかし、あの場面で足払いをしなければ、確実に己のあごが砕かれていた。
――恐ろしいほどの剣の腕前だ。
十兵衛はこの短時間で自分をここまで追い込んだ勝姫の才能に舌を巻いた。
今は手加減をしているが、そのうちすぐにそんな必要はなくなり、いずれは自分をも遥かに凌ぐ剣の腕前を身につけるように思えた。
十兵衛は尊敬の思いで幼い勝姫を見た。
その視線の先で、勝姫はいっこうに起き上がってこない。
――やり過ぎたか。
十兵衛は慌てて勝姫の元へと駆け寄った。
そして、勝姫に近寄ったその時、十兵衛は何かに足を取られて大きく体勢を崩した。
あっという間もなく十兵衛の体は宙に浮き、結果、その顔をしたたかに床へとぶつけた。
「痛っ!」
思わず叫んだ十兵衛が真っ赤に晴れた顔面を反転させると、何か固い物が喉にグイッと押しつけられた。
勝姫が仁王立ちしながら、床に仰向けになった十兵衛の喉元に袋竹刀を押しつけていた。
勝姫は意識を失ってなどいなかった。
床に転がされながらも虎視眈々と反撃の機会をうかがっていたのだ。
そして、無警戒に近づいた十兵衛に対し、足払いのお返しをしたのだった。
「どうじゃ」
勝姫が喜々とした顔で十兵衛を見つめた。
「まいった……」
十兵衛は驚くままに声を上げた。
「やっぱり、わらわの勝ちじゃ」
勝姫はひどく満足げに頷くと、腰に手を当てて大笑した。
その声色は、十兵衛を困らせるいつものおてんばなそれに戻っていた。
「ご気分は晴れましたかな姫様」
十兵衛は勝姫の差し出した手を取って起き上がると、勝姫に笑いかけた。
勝姫は十兵衛にそう問われて、初めて己の心の内の変化に気付いた。
無心で剣を振るい続けるうちに、いつしか母親への怒りや失望といった切ない気持ちはなくなっていた。
「姫様に泣き顔は似合いませぬ。それに、剣は乱れた感情のままに振るうものではありませぬ。己の気持ちが抑えられぬ者に、どうして相手を抑えられましょう。新陰流の真意は、戦う前に相手の気を制し、戦わずに勝つ活人剣にございます」
十兵衛はそう言うと、誇らしげにほほ笑んだ。
その笑顔を見て、勝姫は生まれて初めて人の優しさに触れた気がした。
将軍の三女としてしか勝姫に接しない周囲の大人たちと異なり、一人の人として接してくれた事が素直に嬉しかった。
だから、また泣けてきた。
「十っ兵衛ぇえ~」
勝姫は袋竹刀を床に投げつけると、十兵衛に思いっきり抱きついた。
十兵衛は少し驚きつつも、しばらく勝姫の好きなようにさせようと思った。
この小さな姫君には、寂しい時に素直に甘えられる人など周囲に誰もいないことを十兵衛は知っていた。
先ほどにひどい泣き顔で道場に現れたときから、江君との間に何か決定的なやり取りがあったのだろうと想像ができた。
勝姫があれほど泣き、取り乱す要因はそれ以外に考えられなかった。
だが、その負の感情を剣にぶつけるのは間違っていると判断した。
だから、十兵衛は本気で戦った。
でも、勝負が終わった今は、思いっきり感情を爆発させて泣けばよいと思った。
幼子が親の愛を欲して泣くのは当たり前なのだから。
「ぐっす、ぐっひん、うえっうっつうう」
汗にまみれた己の道着に顔を埋めて泣きじゃくる勝姫を見て、十兵衛はこの姫様が急に愛おしく思えた。
「姫様、お気を軽うなさいませ」
十兵衛はなんの気なしに勝姫の頭をポンポンした。
幼子をあやす気持ちが自然と出た。
その途端、勝姫の肩がびくっんと震えた。
「じゅ、十兵衛……」
勝姫は十兵衛の襟元から顔を上げると、急にたどたどしい声を上げた。
涙は引っ込んでいるが、その頬は真っ赤になっている。
「何でございましょう?」
「じゅ、十兵衛の望む物は何じゃ。こ、今回の礼に、わらわが十兵衛の望む物をなんでも与えてやろう」
勝姫は涙目ではなく、きらきらとした目で十兵衛を見つめた。
十兵衛は権力者の姫君にありがちなざれ言だと思った。
が、それで勝姫の気分が晴れるならば結構なことだ。
だから、勝姫の酔狂につき合うことにした。
「拙者は天下太平を欲しておりまする」
「天下太平?」
「新陰流の目指す活人剣は、乱世よりも天下太平の世にこそ活きるのです。武士も町民も農民も身分の差なく皆が剣を学び、鍛え、人殺しのためにではなく、己の心身のために剣を活かす。そんな世を望んでおりまする」
「そうか、天下太平か。十兵衛はそれを望むのか」
勝姫は天啓を得たとばかりに顔がぱっと輝かせた。
「わらわがその夢を叶えてやろう」
「それでは、拙者は天下太平を目指す姫様を命をかけてお守りいたしましょう」
「よし、約束じゃ」
勝姫は右手の小指を突き出した。
「約束ですぞ」
十兵衛はその指に自分の小指を絡ませた。
二人は幼子らしく歌いながら約束を交わした。




