駿府8
しかし、重成の刀が勝姫の首に届く直前、霧の中から新たな一刀が現れた。その刃が重成の刀を確実に受け止め、弾き返す。
「死なせるか!」
柳生十兵衛の太刀痣丸だった。
「天下のために死ぬのは貴様だ!」
十兵衛は重成に斬りかかった。
重成は十兵衛の太刀がその身に届く前に、大きく後ろへと跳ね、攻撃をかわした。
「まさか、鬼力『分体』に勝つとはな。江戸柳生を見くびっておったか。おのれ、あと僅かで勝姫を殺せたものを……」
重成の口惜しそうな声を残したまま、その身を再び霧の中へと潜り込ませる。その姿は瞬く間に見えなくなった。
十兵衛は、この霧の中から脱出せねば勝ち目はないと判断した。
「姫様! この場からできるだけ離れましょう。重成は霧に紛れ、また攻撃してきます」
しかし、勝姫は、ただただ頭を両腕で覆って座り込むばかりで動かない。
「姫様!」
十兵衛が駆け寄ると、
「近寄るな!」
勝姫が叫んだ。
「お立ちください」
十兵衛は構わずに勝姫の左腕を掴み、引っ張り上げようとした。
だが、勝姫はひどく抵抗する。
戦闘中のこの態度に十兵衛は少し苛立った。
「姫様、ここを離れるのです。我が鬼力『真贋』によって重成の能力が分かりました。奴の所持する鬼封刀は太刀『天国』。有する鬼力は『九天』。天候を自在に操れる能力です」
十兵衛は勝姫を立たせようとさらに腕に力を込め、話し続けた。
「この濃霧も奴が『九天』で作り出したもの。この霧が晴れないということは、奴が濃霧に紛れる戦法を捨てていない証拠。この場に留まっているのは危険です。さあ、姫様、立つのです!」
しかし、勝姫は駄々っ子のように激しく頭を振って抵抗した。
「嫌じゃ。もう戦うのは嫌じゃ。わらわが刀を振るっても人が死ぬだけじゃ!」
勝姫の声は震えていた。
「奴の言う通りじゃ。わらわは母上に好かれたい……」
勝姫の震えた声が霧に吸い込まれていく。
「わらわは母上を欲しておる。優しく抱いて、頭を撫でてほしい、叱ってほしい。でも、こんな醜い姿になってしまっては、どうやっても母上は振り向いてくれぬ。こんな姿になってまで戦いとうない……」
「こんな姿? 戦う姫様はご立派です。しっかりと戦って勝ち続ければ、母上様のお気持ちも変わりましょう。さあ、早くお立ちください!」
十兵衛が勝姫の左腕を強引に引っ張り上げると、勝姫が必死に隠していた額があらわになった。
そこには二寸ほどの鋭い角が額から一本生えていた。
「見るな……」
勝姫は消え入りそうな声を上げると十兵衛の手を振りほどき、再びその額を隠そうとした。
「角があるから何だ!」
十兵衛は間髪を入れずに怒鳴った。
「角が生えようが、口が裂けようが、拙者にとって姫様は姫様です。お慕いする気持ちに何ら変わりはありません!」
勝姫は思わず顔を上げ、十兵衛を見つめた。
十兵衛は必死の形相で訴え続ける。
「万人のために天下太平を成し遂げんという幼き頃からの姫様の宿願は、角ごときで消え失せるほど軽いのですか? その程度の覚悟であるのならば、姫様を守るために死んでいった者たちはうかばれませぬ!」
十兵衛は伊助と兵庫の死体を哀しげに見やった。
勝姫の心に再び炎が灯った。
――死んでいった者たちのためにこそ戦い続けなければならない。
勝姫は、十兵衛の言葉によって再び戦う意志を取り戻した。
そして、その気持ちと感謝を十兵衛に伝えるようと思った。
しかし、突然に響き渡った剣戟によって、勝姫の声はかき消されてしまう。霧の中から現れた重成の刃が十兵衛を襲い、十兵衛がこれを迎え撃ったのだ。
「姫様! こ奴は引き受けます。その間に霧に紛れ、できるだけ遠くへお逃げください」
十兵衛はそう叫ぶと、重成と激しく刃を交えながら霧の中へと姿を消していった。
「十兵衛!」
勝姫は懸命に叫んだ。
しかし、霧の中から聞こえてくるのは十兵衛と重成の剣戟の音のみだ。
勝姫は、小さな角が露わになることなどもう気にしていなかった。
今、守るべきは己の見てくれなどではなく、心から自分を想ってくれる大切な人だ。
幼い頃から勝姫の思いを真剣に受け止め、笑ったり怒ったり戸惑ったり叱ったりしてくれるのは母ではなく、十兵衛だった。
――十兵衛を失いたくない。
勝姫は童子切安綱の柄に手をかけ、十兵衛と重成の戦いの音に耳を澄ませた。音から二人の場所を特定し、十兵衛の助太刀に向かおうと思った。
しかし、激しいつばぜり合いの音は、常にその発する場所を変えていく。勝姫は二人の居場所がつかめない。
勝姫は「すまぬ」と声をかけ、伊助と兵庫の死体を越えた。
そして、
「十兵衛、返事をせい!」
と声を張り上げた。
「答えろ、十兵衛!」
返事はない。
その時、霧の中を移動し続ける戦いの音に変化があった。




