初陣1
本能寺の変から三十一年後
慶長十八年十二月夜
江戸市中
冷たい月明かりの下、一人の若侍が白い息を吐きながら江戸の街を走っていた。まだまだ髷の剃り跡も青々とした小柄な若侍である。
眼帯の代わりに右目に刀の鍔を当てている異相だが、良く見れば目鼻立ちははっきりしている。町娘たちがこの若侍とすれ違えば、その横顔を目で追いそうな美男子だ。
ただし今、町娘たちは通りにはいない。すでに子の刻に入り、江戸の民の大半は夢の中。大店が軒を連ねるこの通りには、若侍が駆ける草履の音だけが慌ただしく響いていた。
こんな夜更けに、年端のいかぬ若侍が何故に走っているのかといえば、一人の娘を追い掛けているのである。
――あの角を曲がればいるはず。
若侍はできるだけ速度を落とさないように大回りで角を曲がる。
すると、一町(約百十メートル)ほど向こう側、月明かりの下に小さな影が見えた。
「お待ちを!」
若侍は精一杯に叫んだ。しかし、その声が通りに響き渡った途端、娘の姿は霞が晴れるように消えてしまう。
若侍は小さな影が消えた場所まで走ると、肩で息をしながら、娘の小さな影を探した。だが、その必死さをあざ笑うかのように、突然に厚い雲が月を覆い隠した。
江戸の街は闇夜に転じた。
――姿を見つけにくくなった。
若侍は大いに狼狽えた。なにせ、娘の体内には鬼が棲んでいるのだ。一人にすれば何をしでかすか分からない。
鬼ではなく、その娘がだ。
娘の暴走を止めることこそが、将軍家親衛隊である書院番に属するこの若侍に与えられた任務なのだ。
「このままでは、よくて切腹、下手すればお家断絶じゃ」
若侍は壮大にため息をついた。若侍にとっての一つの救いは、娘の行く先が「桔梗屋」という遊女屋であると知っていることだった。
しかし、肝心のその場所が分からない。
「致し方あるまい」
若侍は目についた遊女屋らしき建物を一軒ずつ回ろうと腹に決めた。そうやって、あの娘が中にいるかどうか確かめていくのだ。
元服したばかりでまだ女を知らぬ十五歳の身にとっては、度胸が必要な仕事である。
「まったく、あのじゃじゃ馬には困ったものじゃ」
肩を落とした若侍の背に夜風が吹き付けた。風の冷たさが急に増したように思えた。若侍は汗ばんだ体が冷えぬように羽織の裾をつかんで身を縮こまらせた。
その頭に冷たいものが舞い降りた。
「雪か……。積もらなければよいが」
若侍は暗い空を見上げそうつぶやくと、女郎たちのいる艶やかな灯りを求めて再び走り出した。