取り戻した彼の記憶。呼びたかった彼の名前
『お、やっとおきた』
幼いアマリアはベッドで眠りについていた。そんな彼女の寝顔をベッドに腰かけながら見守っていたのが、婚約者である彼だった。顔は靄がかかっていてわからないが、小さな手でアマリアの頬を撫でる少年の姿があった。アマリアは慌てて体を起こす。
『―さま』
彼のことは最初は様づけで呼んでいた。小さいアマリアでもわかっていた。彼相手には本来そうあるべきなのだと。
『はあ、まだそれかよ』
みるからに不機嫌になる彼に対しても、アマリアは申し訳なさそうにするしかなかった。少年もアマリアを困らせたかったわけではない。なら、と彼なりの妥協案を出す。
『それじゃ、まずは二人きりのときだけ。それならいいだろ』
『二人きり?でも……』
『おいおい。おまえはおれのヨメになるんだぞ』
『よ、よめ!』
『……う、うん。まあ、おれのものってことだ!』
言ったあとに一人で彼は照れていた。顔を赤くしながらも、アマリアの手を握った。
『おれもそう。おまえのものだ』
『わたしの……?』
『ずっとそうだった。これからもそうだ。……とにかく!おれとおまえのなかだ。えんりょなんてしないこと!』
『……えんりょ』
『うん。えんりょなんかするな。おまえがすきなふうによべばいい』
アマリアは思案する。未来の伴侶となる彼をどう呼べばいいのだろうか。やはり様づけかと思う彼女だったが。
『アマリア』
心から愛しそうにアマリアの名前を呼ぶ。幸せそうな彼を見たアマリアは思う。そして子供ながらに彼の名前を呼びたいとなった。彼女の素直な気持ちだ。
『マ。……マ、マーちゃん』
『マーちゃん』
アマリアは慣れない呼び方ともあって、俯いてしまった。相手も反芻するものだから、顔は赤くなる一方だ。
『……うん。マーちゃん。それもまたよし!』
『へんじゃない?』
『ぜんぜん!じゃ、きまりな。はやくなれろよ?』
『うん。……マーちゃん』
幼いアマリアが拙く呼んでも、彼は満足そうにしてくれていた。アマリアも笑顔になる。
幸せな時だった。あの頃のアマリアは。
―ずっとそうだった。これからもそうだ。
素直にその言葉を信じられていた。
「ん……。マーちゃん……?」
アマリアはゆっくりと瞳を開く。薄暗い室内ということはわかるが、なにせ彼女の頭は朦朧としていた為、定かではなかった。体が火照り、若干呼吸も苦しい。風邪の症状だった。
「残念、クロエ先輩です」
「クロエ先輩?……クロエ先輩!?」
アマリアは飛び起きそうになるが、クロエによって止められる。アマリアの意識がはっきりとしてくる。見慣れた自室に、そして白いマスクをしたクロエ。彼女は椅子を拝借してアマリアの側にいる。どうやら看病してくれていたようだ。
「ああ、ありがとうございます。……申し訳ありません。風邪もうつってしまうのでは」
「気にしないで。私風邪ひいたことないから。ほら、マスクもしているし。あとで寮母さんにもお礼いっといてね?……ほとんどはあの人が看てくれてたから」
「なんと……。あの方にも是非ともお礼を……」
「今はいいって。熱も下がったことだし、今日は安静。気を遣うのもやめる。いい?」
「はい、お言葉に甘えます……」
着替えやら付き添いやらで寮母とクロエには面倒をみてもらった。今は治すのに専念することにした。大人しく休むに越したことはない。
「ん、元気はあるのかな。どう、夕ご飯食べられそう?」
「夕ご飯。ええ、いただけるのでしたら。栄養をつけて、……夕ご飯?」
「んー、ぼんやりしているな。夜の七時だよ?」
「なんと……」
とっくに授業も終わっていた。アマリアはこの時間まで寝込んでいたのだ。唖然とするアマリアをよそに、クロエは食堂から病人向けの料理を持ってきてくれるようだ。
「ありがとうございま―」
『それ』を目にしたアマリアの喉がひゅっとなる。
部屋の隅に、布の上に置かれた履物がある。あれだ。例の四つ星公演でアマリアの足元を支えてくれた軍用ブーツだった。
なぜ、部屋にあるのか。なぜ、こちら側にもあるのか。
「いえ……」
その疑問は今更なのだろう。現にレオンも着ぐるみを日常に持ち込んでいた。あの着ぐるみを発端に色々なことが起こりすぎた。幸いなのかクロエも触れてはこない。今はそのままにしておくことにしたようだ。
「あー、そうそう。早く元気になってね、アマリアさん」
「はい、それはもう」
「―でないと、エディ君も起きてこないから。あなたが居ないことをいいことに、全然起きてこないの」
「!」
唐突にエディのことをぶっこまれた。これだけ熱をもっていた体が一気に冷めた、気がした。あくまで気のせいだとアマリアは思う。
「ん?なにか変なこと言った?これを励みに元気になるかな?って思ったんだけど……」
「い、いえ!なにもおかしなことなど」
クロエはきょとんと首を傾げていた。いつもは様になるその仕草にも、アマリアはどういう感情を持てばよいかわからなかった。
翌朝。看病と休んだ甲斐もあり、アマリアは回復した。朝一であった寮母にもお礼をいい、寮の生徒達とも挨拶を交わす。クロエも普通だったので、アマリアもそうすることにした。エディは起きる気配は全くない。
「……行ってくるわね、エディ」
特に体調を崩しているという話はきかない。アマリアは扉越しにエディに声をかけ、そして学園へと向かっていった。
「ごきげんよう」
「……おはよ」
自身の教室に入り、アマリアから挨拶をする。ちらほらと返してくれるようになった分、マシになったものだ。
「アマリア様!具合大丈夫!?無理してない!?」
「え、ええ。おかげさまで」
あのアマリアのパートナーをかって出てくれる、人望もあるクラスのさわやか君がアマリアを見るや否や駆け寄ってきた。彼の必死さにアマリアも圧されていた。注目も集まりつつもあるので、アマリアはそっと距離をとる。
「……」
いつになっても視線が収まることはない。予鈴まで時間もあるので、アマリアはどこか別のところで時間をつぶそうとしていたが。
「あ、いたいたー!アマリアせんぱーい!!」
教室のドアからひょっこり顔を出したのはレオンだった。教室にいた生徒達は慄く。こちらでの悪評はそのまま、劇場街の影響も響いているようだ。レオンは眉を下げるも、笑顔に戻る。自分が招いたことと考えているようだ。
「体調、すっかり良さそうで。でさ、ちょっと話せる?」
「ええ」
アマリアにとっては渡りに船だった。