母の愛と婚約者の愛
アマリアは裏口から出て、酒類が貯蔵されている倉へと向かう。すっかり辺りは暗くなっており、夜は更けている。
「季節が変わったからかしら……」
寒さにアマリアは身震いしてしまった。寒さ対策のショールをまとってなければ、さらに寒さに打ちのめされていたかもしれない。温暖な気候のこの地にしては、やけに今日は冷える。
「……ちゃん」
「!」
か細い声と共に、倉の軒下から現れた人物にアマリアは仰天する。品のある女性が体を震わせていたのだ。黒いフードを被った彼女は身を潜めていたようだ。
「ごきげんよう、アマリアちゃん。久しいですね」
親しみを込めてアマリアの名を呼ぶも、どこか緊迫めいた女性。
「―伯爵夫人」
彼女の婚約者の母親だった。国の中央に位置する領土からわざわざ南に下ってきたのだ。さすがに夫人一人とは考えにくい。とはいえ異様な事態であることはアマリアにもわかった。
「ご、ごきげんよう。いえ、こちらお使いください」
ひとまずと、体を冷やしたであろう夫人に自身のショールを差し出す事にした。
「……お気遣いなく。貴方にお話があって参りました」
「さようでございますか。わたくしにですね。冷えますからどうぞ中に―」
人目を忍んだのはわかる。アマリアは室内の、人が寄り付かなさそうな場所へ誘導しようとする。だが、夫人は頑なに拒む。
「お願いがあるの……!貴女にしか頼めなくて……。お願い、アマリアちゃん……」
「!」
アマリアにとっての伯爵夫人。婚約者の母である彼女は、いつも落ち着いていて穏やか、そして優しい貴婦人だ。そんな女性がこうも取り乱している。アマリアは嫌な予感がしてならない。
「……ごめんなさいね。急にこのような話をされても、困るでしょうに」
「いえ、わたくしの事はお気になさらないでください。それに、わたくしがお役に立てるのでしたら、何なりとお申しつけください。ああ、それと」
倉に入り、そして出てきた。アマリアが手にしていたのはスツールだ。一番状態がマシなものである。夫人は長旅、そして精神的な負担もあったのだろう。かなり憔悴しきっていた。自然な流れで夫人の肩にショールをかける。してやったりとアマリアが笑うと、夫人も小さく笑った。このような戯れも許してくれるような心の広い女性だった。それは息子である彼も―。
「……あの子からの連絡が途絶えました。学園の規則で月一の便りは許可されてました。……それなのに、ここ数か月途絶えて!」
ああ!と夫人は両手で顔を覆う。夫人が言うに、家族のみに許された手紙が届かなくなったという。
「そんな……」
気が向かないからと、手紙を怠るような人ではない。家族仲も良好で、彼自身も家族想いだったとアマリアは記憶にある。やはり、只事ではないようだ。
一体何が起きているというのか。どうしてこうも重なってしまうのか。
―彼の身に本当に何か起こったのか。
「……そんな、まさか」
「ああ……、どうして」
アマリアは愕然とする。だが、より滅入っていたのは母親である夫人の方のはずだ。しゃがんだアマリアは夫人の手にそっと触れる。今は伯爵夫人の言葉を待つ。
「……あちらからの連絡が途絶えると、もうどうしようもないのよ。あの子の安否を知る事も、あの子の生存を知る事すらも!」
「……!」
アマリアもその学園の噂を聞いた事はあった。名家や富豪の子息が通うような名門校。だが、『特殊』でもあると。外部との交流は断絶され、そこはまるで―。
「……ああ」
アマリアは天を仰いだ。
夫人の言わんとしていることが理解出来てしまった。そして、それが出来るのは確かにアマリアくらいかもしれない。
―その学園に潜入する為に、入学せよ。内部から探るしかないのだと。
「……酷なお願いだとは存じてます。危険があるかもしれません、けれど!……もう、貴女にしか頼めないのよ」
「わたくしに……?」
夫人は断腸の思いなのだろう。スツールから立ち上がってアマリアの両手を掴む。勢いにつられてスツールは転がっていく。
「―あなたは覚えていたわ、あの子の事」
「!」
これは杞憂でもなく、おそらく事実だ。彼に関する記憶が消えかけている。それは婚約者のアマリアだけではなく。
「私も、あの子の父もそうなの。薄れていくのよ、あの子の事が。思い出もそう、ついには名前までも!」
「!」
実の親である彼らも喪失していっているのだ。―アマリアの婚約者の事を。
「手紙が来ない。だから、学園に問い合わせてみたら……」
在籍していない、との回答がきたという。参っている時に決定打を受けたのだ。婚約者に縋りたくなるのも、手段を選んでられないのも。アマリアは痛いほどよくわかった。
「辛うじて思い出したのは、貴女の事なの。……アマリアちゃんはやはり覚えていてくれたのね」
「……いえ、わたくしは」
しばし彼の事を忘れていた。そう正直に伝えようとするが、夫人の握る力は強まっていく。今それを伝えても夫人には届かないだろう。
「いくら替え玉を用意しようとも、あの子への気持ちが強くなければきっと」
忘れてしまうだろう、と瞳を伏せた。
「……」
こうして彼の事を覚えているのならば。気持ちの強さに確信は持てないアマリアだが、彼を思う気持ちはある。そして、目の前で打ちひしがれている夫人を案ずる姿も。
「ああ、ごめんなさい……。あの子にとっても、私達にとっても大切な貴女なのに……。それでも、もうこうするしかなくて」
もう一度ごめんなさいと告げて夫人は立ち上がった。そしてアマリアにショールを返却する。そして背を向けて去ろうとしていた。
「わたくしにとっても、大切な方々です。伴侶になるであろう方も、そしてご両親である方々もそうです」
「アマリアちゃん……」
あくまで夫人は彼女の方を向く事はない。それでもアマリアは語り続ける。
「わたくしも同じ想いです。あの方に何かがあったかと思うと、不安が止まりません。……それならばいっそ!」
ショールを両手で強く握りしめる。見た目はシンプルながらも心地の良いものだった。アマリアが長年愛用している、思い出深い彼からの贈り物だ。
「ならば、入学するしかないかと思うのです。無事を確認さえ出来れば安心でしょう」
「……」
「―会いたいです。私は彼に会いたい」
「貴女……」
そう言い切ったことで、アマリアは後に引けなくなった。もとより腹はくくっていた。彼女は発言に後悔はしていなかった。
当面の問題は残る。最大の難関は学費だ。アマリアのへそくり貯金でも少しは足しになるかもしれないが、莫大な費用がかかるという。そうなると、もう一つの道に賭けるしかないのか。
「あとの事はお任せください。奨学制度もあると耳にしました。昔、乳母と姉に叩き込まれましたので、その、ご安心ください!」
「アマリアちゃん……、本気なのね」
「はい」
しっかりとそう答えた。夫人は優しく笑んだ。
「……いいえ、その必要はありません」
「わたくしは本気です」
心外だとアマリアは内心思った。一方学力に不安をもたれているのかとも考える。ならば結果を見せようとするが。
「それはよく存じているわ。聞いてくださる、アマリアちゃん?」
「はい」
夫人は反対する事はもうないようだ。そして提案する。
「貴女には編入学として赴いて欲しいの」
「編入で、ございますか。わたくしは一年生から入る覚悟でありましたが、さすがでございます。そちらの方が自然ですね。……それでその、お恥ずかしい話ですが」
「費用を出すのはこちらです。お願いしているのはこちらなのですから」
さすがにアマリアはお断りしようとした。財政難のこの子爵家では、費用を抽出するのは困難だ。両親が工面してくれる可能性にしても、相当無理をさせることになる。確かに財政が潤っている伯爵家ならば容易かもしれないが。
「その……」
「これで費用は問題ありませんね。しかと推薦状も添えますから」
「はい……」
話がどんどん進んでいく。
「婚約者であると記載しておきます。わたくし共の娘同然です、とも」
「む、娘にございますか」
「あら?どのみち婚姻が成るのですから、おかしな話ではないでしょうに。もはやわたくし達の娘同然ですし」
「……!」
夫人はいたって真剣だった。本人は何もおかしな事は言っていないと主張する。
「……アマリアちゃん」
そっとアマリアの頬に触れ、慈しむような眼を向ける。
「……本当にありがとう。わたくしは貴女があの子の婚約者で良かったと思っているわ。『あなた』で本当に良かった」
「……そんな」
「冗談でもなく、本当に貴女の事を娘だと思っているの。だから、少しでも危険を感じたら戻ってきてちょうだい。その為の便宜も図ります」
「……はい」
逃げ道を用意してくれるのはわかる。だからアマリアも返事をする。返事だけだった。おいそれと帰るわけにはいかない。
離れて待機していた従者と共に、夫人は後にする。手続きは向こう任せ、審査が通れば晴れて入学だ。
「……待っててね」
四年前に彼が入学して以来、二人は会ってない。あれから時は経ち、月日がお互いの姿を変えた。それでも彼の事を見つけてみせる。アマリアはそう誓った。
婚約者の母はアマリアの事は歓迎しています。
ただ、含みはありそうですね。