プロローグ④ 最高の令嬢を経て
『ほら、こっち!』
『うん―』
私は大切な相手の名を呼んでいた。何回そう呼んだかもわからないくらい、馴染んでいるもの。先行く彼が、かつての私に手を差し出してくれていた。いつだって私の前を歩いていた彼。けれど、振り返ってはいつも私を待っていてくれていた。
この記憶は確か、そう。二人で邸の近くの森まで繰り出していたのだ。私が珍しい蝶の噂を聞きつけたものだから、彼も是非探そうと言ってくれた。結局見つからなかったけれど、私には十分だった。
彼と一緒に過ごせたから。私の大切な婚約者である彼と居られたから。
彼とこうして過ごすようになったのは、いつからだろう。彼はきっと、私にとっては大切で、そして心から望む人のはず。それなのに、私は―。
彼の事を思い出せなかった。いえ、全てではない。思い出せたのは、彼が私の婚約者であったという事実。それに伴う、幼少期の断片的な記憶。そして、『隕石症』の発症者であったということ。
幻覚をもたたらすその病は、夢か現実の区別がつかなくなるといわれ、彼を苛んできたものだった。昼は明るく笑う彼も、夜は眠る事に怯える。
少しでも心が和らいでくれればいい。恐怖に包まれる彼を見る度にいつも考えていた。
彼が穏やかな寝息を立てた夜は安堵した。夢か現実かを惑うことなく、深い眠りについたのだろうと。
彼が青ざめた顔で飛び起きた時は、私は彼を抱きしめた。彼が見ていた夢、それは私が彼の前から消えてしまったものだという。夢の中の出来事ではなくて、それは彼にとっては紛れもない現実だったはず。縋る彼を私はずっと抱きしめ続けた。伝わればいいと思った。私はここにいると。ちゃんと側にいると。
あの頃の私はそう信じていた。二人はずっと一緒にいられるのだと。
この世界の中枢にあるのは大樹だった。大樹がもたらす恩恵により、世界には安寧をもたらされ、繁栄を極めていた。大樹を要する国に隣接するのが、新生した国『ノーヴァ』。
その国の南方に、寂びれた港町がある。軟弱な子爵の息女、アマリア・グラナト・ペタイゴイツァはそこで生まれ育った。農業に家業にと日々を忙しく過ごしていた。
アマリアは婚約者がいた。だが、その彼が通う学園にて消息を絶ったという。ただ連絡が途絶えただけではない。―彼の存在自体が消失しつつあったという。そんな彼を追って、アマリアは学園への編入を果たす。
あたたかな故郷から離れ、辿り着いたのは名門校と謳われている『プレヤーデン』学園。一方、事情がある生徒を受け入れ先ともいわれていた。訳有りの子息や息女、それこそ隕石症を患っている青少年もだ。
編入したアマリアは、多くの価値観を目の当たりにしつつも、不思議な現象に出くわすことになる。眠りに落ちると訪れられる場所。―『劇場街』。劇場が連なる街である。そのままだ。
公演内容は、学園の生徒にまつわるものだ。そして、悪意に満ちた内容だった。学園にそぐわぬ生徒を見せしめ、公開処刑にして断罪するといったものだった。それを超展開で執行するのが、学園の支配者と名乗る少年だった。
アマリアは成長した婚約者の姿を目にする。物語に沿って、観客である生徒達を納得させられなければならない。もし、支配者による結末を迎えてしまったなら。学園が望まない生徒として、処罰されてしまう。そうして、存在が消滅してしまうのだ。
アマリアは奮起する。だが、迎えた結末は支配者による超解決。―すなわち、アマリアの敗北だった。だが、アマリアは諦めてはいなかった。彼女が諦めが悪かったという事もある。それだけではなかった。
自身の生い立ちや学園での振る舞いにより、周囲から孤立しつつあったアマリア。舞台においても、実に滑稽だっただろう。それを笑う事もなく、彼女と向き合ってくれたのが、緑色の目が特徴的な少年だった。アマリアが立ち直れたのも、彼の存在があったからだ。
処罰の対象になった生徒がまた現れた時も、アマリアは心のままに舞台へと躍り出た。物語を通して、学園の憧れの存在である侯爵令嬢の苦しみにも触れる。その彼女の陰の存在とも対峙した。令嬢の物語は、アマリアが思い描く結末を迎えることができ、少女の存在の消失は免れられた。
まるで劇のようだ。人の生は時に残酷で滑稽で、それでいて心を打つものもある。
この物語は、いわば劇のようなものだろう。それらの劇を通して、少女は人々の心に触れていく。
そうして辿り着く先には、きっと『彼』がいる。
少女にとってかけがえのない『彼』を、取り戻していく物語である。
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