一つ星公演 〇〇をぶっつぶせ!―〇〇が在るべき意味 閉幕
「良いかしら、シモン先輩?私は―」
「……お嬢?」
シモンはアマリアを通り越して、奥を見つめ続けていた。かつてそこにいたのは、クロエ?だ。本物ではない。
「ええと……」
「お嬢、お嬢だ……!」
困惑しているアマリアをよそに、シモンは連呼する。この期に及んで幻惑でもないだろう。となると、『舞台上のクロエ』だろうか。本人はないだろうとアマリアは考える。
「……顔、ぐちゃぐちゃ。ハンカチ、持ち歩いてるでしょ?拭いたら?」
ゆったりと歩いてきたその少女。よく通る声。小柄で成長した今も妖精そのものの純真な美しさ。
「……クロエ、先輩?」
―クロエ・リゲル。その人がシモンの前に姿を現したのだ。
「お嬢!」
舞台上のクロエ、本物ではないかもしれない。けれど、シモンは本物を相手にするかのようだ。アマリアもそうだ。どうしても、本物を相手にしている感覚になってしまうのだ。
「ハンカチ、無いの?」
「あ、ハンカチ、ハンカチ……。無い」
制服や私服の時なら持ち歩いているのだろう。だが、現在のシモンはみすぼらしい姿だった。
「あ……」
正気に戻ったシモンは恥ずかしくなったようだ。近づいてくるクロエから距離をとろうとする。
「なにそれ?はい、逃げない」
クロエは構わず距離を詰めてきた。シモンはついに欄干まで追い詰められてしまった。
「シモン君?随分と暴れてくれちゃって。……私の事まで騙しまでしてくれて?」
「うう……」
クロエに問い詰められたシモンは萎縮しきってしまった。その場でうずくまってしまう。
「散々迷惑かけて。悪い子」
「ひぅっ!」
クロエは手を上げた。シモンは頭を抱え込んで、丸まってしまっていた。自分を守るかのようだった。恐怖から身を守るかのように。―かつて、母親からの暴力から守っていたかのように。
「……弱い子」
「……え」
シモンに振りかかったのは暴力ではない。優しい手のひらだった。クロエは労わるようにシモンの頭を撫でたのだ。
シモンは信じられずにいた。あれだけクロエの怒りを買ったのだ。信用などしてないと言わしめたのだ。罰を与えられて当然だと、シモンはそう思うしかなかった。それなのに、クロエがくれたものはとても優しいものだった。
「……ごめんね、シモン君。私が見てきたのは、一部でしかなかった。こんなに、あなたは辛い思いをしてきたんだ」
「お嬢、それは……!お嬢は、何も悪くない!」
勢いよく顔を上げたシモンは息を呑んだ。そこにあるクロエの表情が、あまりにも慈しみに溢れるものだった。
「ううん。私にも悪いところがあった。……あなたは私を純粋に慕ってくれていた。でも、私は信用しきれずにいた。正直、お母様の事もあったから」
「!」
シモンの表情が強張った。暴力でねじ伏せられるとしても、シモンの心は納得も折り合いもつけられるものでもない。容易なものではなかった。
「もっと、あなた自身をみてあげてれば良かった。……シモン君はシモン君なのにね」
「お嬢……?」
「あなたのしでかしたこと、許せもしないし。おじいちゃんにも報告する。絶対チクってやる。でも、あなたとちゃんと向きあうから。約束する」
クロエは自分のハンカチで、シモンの顔を拭った。そして、優しく話しかけた。
「『帰ろう』、シモン君。皆、待ってるよ」
「あ……」
みすぼらしい姿の彼はもういない。淡い光に包まれたシモンは、リゲル商会の制服を身にまとう。彼の為にあつらえたかのように。相応しい姿だった。
「お嬢!」
「あ、ごめん。ハグは許可してない。やめて?」
「お嬢はそうでなくちゃ!」
感極まったシモンが抱き着いてこようとしたが、クロエはやんわりと拒否していた。それでもシモンは幸せそうだった。クロエも満足そうに笑う。―幼いあの日の二人が重なるようだった。
「……ふふ」
「なにそれ。いいとこどりされたのに、機嫌いいじゃん?」
すっかり蚊帳の外にあったアマリアの下にレオンがやってきた。アマリアはそれでもいいと胸を張っていた。
「いいのよ。『悪役』の出張るところでもないわ。シモン先輩が救われたなら、それでいいの」
「……ふーん」
仲睦まじい二人をアマリアは愛おしそうに見守っていた。そんな横顔をレオンは見ていた。
「……っと。例の『婚約者サマ』も相変わらずなようで」
「ええと、こちらのこと?そうね、彼かしらね。有難いわね」
いつの間にかアマリアの手には包帯が巻かれていた。白く発光していたので、婚約者によるものと考えるのが妥当だった。大切そうに触れるアマリアをよそに、レオンは話題を変えた。
「まあ、アマリア先輩のさ?挑発が効いたんじゃない?」
「挑発、ですって?……いえ、思い当たらなくはないけれど。あちらのクロエ先輩は、多分舞台上の存在であって―」
そこは疑問に残るところだ。今はともかく。
「……お二人の世界が続いている間に、私達は退散するとしましょう」
「それな」
淀んだ空も晴れ上がっていく。そんなさわやかな空の下、アマリア達は立ち去ろうとしていた。
「―令嬢の誘拐。警備員への暴行」
「!?」
この末恐ろしい声はどこからか。クロエからだ。シモンを撫でつけながら、クロエは冷ややかな目つきをしていた。彼女はアマリア達が逃げようとしていたのを気づいていた。
「警備の者、こちらへ!賊をひっとらえなさい!ああ、事情聴取は私が自ら行います。……じっくり、たっぷりとね?」
「ひいっ!」
クロエの目は捕食者そのものだった。アマリアは慄く。
「い、いえ、しっかりするのよ私!つ、捕まえられるものなら、捕まえてごらんなさいな。おほほほほ!ひぃー!」
高笑いと同時にレオンの手をとって全力疾走した。
「レオ君レオ君!フィーを、フィーを助けに行くわよ!あの子にまで危機が迫っているのよ!」
「……いやー、フィーは看板娘じゃん?安全圏じゃん?先輩、大丈夫?動転しすぎじゃね?」
「はっ!……ええ、おかげで冷静になったわ。そうね、ノア様も心配しそうになったけれど。彼女、うまくやるわね。この際よいでしょう」
「そうそう、その調子。頼みますよー、ガチダッシュ先輩」
「ええ、しっかりするわ。あと、その呼び名はいかがなものかしら」
「調子戻り過ぎ」
このやりとりを全力疾走しながらこなしていた。それなのに。
「右、包囲して。あと、そっちのチンピラの方、何か仕掛けてくるから。警戒怠らずにね。それから―」
後方で指示を出しているのはクロエだ。本気でアマリア達を捕らえようとしている。本気で逃げるも、次第に追い詰められていく。
「……エディ」
慌ただしく点灯しているのはスポットライトだ。誰に焦点を当てるべきか、状況は目まぐるしく変わっていっている。忙しないものとなっていた。
「―さーて、そろそろチェックメイトかな?」
「やっべぇ……。」
「なんと!」
壁際に追い詰められたのは、派手めな女と三下の男。部下を従えてやってきたのはクロエだ。復活したシモンも手をわきわきさせていた。
「たぁっぷり。尋問してあげるね……?」
クロエはにたぁと笑った。ホラーそのものだ。ついに捕らえられようとしていた。―その時だった。
「!?」
劇場内の照明が一斉に落とされた。騒然する中、告げられたのはアナウンスだ。
―一つ星公演。『リゲル商会をぶっつぶせ!―シモン・アデールが在るべき意味』。閉演。
それだけ告げると、慌てるかのように幕が下ろされた。いつものあらましも無い。
呆気にとられたのは観客達だった。時間を経て沸いたのは、笑い声だった。