一つ星公演 〇〇をぶっつぶせ!―〇〇が在るべき意味①
『いいかい、シモン?よくお聞きよ』
『なあに、おかあさん……?』
煤けた部屋の壁に、傷んだ家具達。食べかすが散乱した食卓。床に転がった看板は掠れた文字で『アデール商会』と書かれていた。
荒んだ生活が想像出来たこの部屋で、厚化粧の女性は金髪の少年に語りかけていた。ボサボサに伸び切った髪の少年は虚ろな目で頷く。
この少年こそ、幼い頃のシモンなのだろう。相手は、おそらくシモンの母親だ。今、シモンの過去が再現されているのだ。アマリアは舞台の端で見守ることにした。
『この生活とはおさらばだよ。物好きなリゲル商会がねぇ、私達の生活の面倒を見てくださるとよ』
『……?』
シモンはよくわかっていないようだった。首をかしげている。
『ああ、どんくさい子だねぇ!』
『ひゃうっ!』
女に頬を引っ叩かれた幼きシモンは、勢いで地面に転がってしまう。シモンはぶたれた頬をさすっていた。
「!」
幼い子に暴力を働いた。アマリアは反射的に動きかけるも、耐える。
『まあいいさ。お前みたいなやつにもわかりやすく説明してやろうかねぇ。リゲルっつう、わるーい奴らのことをさ』
下品にしゃがみ込んだ女性は、シモンに砕いて説明することにしたようだ。
『たくさんのひとをだまして。ふこうにして。じぶんたちだけいいおもいをする。―そんな極悪商会のことだよ。私らの店も散々嵌められて。―潰れちまった』
『ごくあく……?』
『ああ、本当に馬鹿な子だねぇ!』
『ご、ごめんなさい!』
シモンは頭を抱えながら丸まった。ぶたれないようにと。
『……ふん。そういやそうだったね。手を出さないことも条件だったか。いけないいけない』
『よくわからない……』
シモンの母親はぶつくさ言っているが、シモンには理解できないものだった。
『……ああ、苛つく子だねぇ!っと、いけないね。お前みたいなガキもいるからさ、同情してくだすったんだとよ。子供ごと面倒みさせてくれないかってね。私の親父とも知り合いだったからねえ。まあ、罪滅ぼしってやつさ』
『つみほろぼし……?』
『いちいち聞き返してくるんじゃないよ!』
『ひっ!』
手は上げない代わりに、罵声は浴びせる。虐待には変わりない。シモンは怯えたままだ。
『いいかい、シモン。私達はリゲルの連中の世話になることになる。でも、忘れんじゃないよ。アイツらは私らを貶めたんだ。―わるーい奴らなんだよ』
『わるいやつら……』
『ああ、そうさ。わかるじゃないか。シモン、そのことを忘れんじゃないよ』
『リゲルはわるいやつら……。はい、おかあさん。はい……』
母子ともリゲル商会の本店に訪れた。アーケード通りの商店街は多くの客で賑わっていた。まさに華やかなものだった。廃れきった自分達の『アデール』とは違う。シモンの母親は舌打ちした。
『まあ、見てくれだけだがね』
そうのたまった本人も一張羅だった。タイトな赤のスリットドレスに、毛皮のコート。ヒールの高さにも負けず堂々と立っていた。現役時代の服を引っ張り出してきたのだ。
「私の衣装……」
まさしくアマリアの衣装とほぼ同じだった。どういった偶然かはわからない。もしかしたら。―故意かもしれない。
舞台は続く。アマリアは舞台上に意識を戻す。
シモンの身なりもきちんとさせていた。知り合いから強奪した、シャツとサスペンダー付きのズボンを着せていた。ぶかぶかの服を着せることによって、体の傷も隠すという狡猾さもあった。
『いいかい、シモン。お前は黙って頷いていればいい。馬鹿がばれるからね』
『はい……』
『黙って頷けといっただろう!?』
『……!』
母の形相に恐ろしくなったシモンは、こくこくと頷いた。
『―あの。店先ではお静かに願います』
凛とした少女の声がした。
『ああ!?なんだって……』
いけ好かないガキの声だ。シモンの母親は脅そうとするが、顔色が変わる。
『失礼しました。自己紹介がまだでした。私はクロエ・リゲルです。おじいちゃん、違った。祖父が案内するようにと』
花柄のワンピースをまとった少女が、裾をつまんで挨拶をした。早口気味なのは緊張でもしているのだろうか。
長い金髪は下ろしており、大きなリボンをつけていた。つぶらな大きな緑の瞳に、朱で染めたような色づきのよい唇。もちもちとした頬は弾力がありそうだった。華やぐ笑顔のとびきりの美少女。―幼少期のクロエだった。
客席が沸き立った。姿を現わした美少女に会場内は釘付けだった。アマリアとて例外ではない。このような状況でなければ、大興奮していたこれであろう。
『あ、あわわわわ。こ、これは、クロエのお嬢様ですね!息子共々お世話になりますとも!わ、わたくしは―』
シモンの母親は慌てふためきながら、商会の令嬢に挨拶をした。クロエも笑顔で返す。シモンはというと。
『ようせいさん……?』
目の前に現れた少女を、本気で妖精と思っていたようだ。無理もない。それだけ浮世離れした美しさだったのだ。
『なっ!また馬鹿なことを!』
『ごめんなさい!』
また叱られそうになったのでシモンは反射的に謝る。
『……』
クロエはただじっと見ていた。またしてもまずい、と母親思ったようだ。猫なで声で何でもないと笑ってごまかす。クロエもにこりと笑った。
『えっと、案内します。離れになるけど、住むところ用意したって。祖父がそう言ってました』
あっちです、とクロエは手を添えて示す。遠くからみての判断になるが、小さいながらもしっかりとした造りだった。母親は悪くないと頷いた。
『はなれ……?』
シモンは自分がわからない言葉を繰り返した。黙っていろと言ったのに黙っていない。母親はカッとなり、今度こそ叱りつけようとする。令嬢の前だろうと構うものか、暴力自体は奮っていないのだからと。そう開き直っていた。
『お前という子はっ……!』
『うっ!』
手は上げられない。そうはわかっていても。わかってはいても、シモンの中から恐怖は消えない。ずっと、こうして。罵声を浴びせられなから。店が潰れてから。父親が出ていってから。落ちぶれてからずっと。―シモン・アデールはこうして生きてきたのだから。
『―離れはね、隠居かな。えっと、母屋じゃないところ』
『え……』
シモンは思わず目の前の少女を見た。目が合うと、クロエは微笑んだ。
『母屋。私達が暮らしているところ。そこじゃないの。でも、ちゃんとしているよ。おじいちゃん、あなたのおじいちゃんとお友達だったんだって』
『ともだち。それはわかる』
『そっか。他に気になる言葉はある?』
『!』
シモンは目を見開く。この少女は質問しても怒らない。それどこか、受け付けてくれるのだ。物心がついた頃から、シモンは母親しか知らなかった。信じがたいことだったのだ。
『……きいても、おこらないの?』
『ばっ!……い、いやだねぇ。この子は何を言ってるんだろうねぇ。……いい加減におし』
『うう……』
令嬢の前だからか、小声で牽制される。シモンは萎縮してしまった。
『……行こ』
『え』
小さなぬくもりが触れてきた。クロエが手を繋いで、シモンを引っ張っていく。
『じい!』
『はっ、クロエお嬢様』
どこに控えていたのか。身なりの良い老紳士が突如現れた。リゲルの執事のようだ。
『そちらのご婦人、ご案内して差し上げて。私はお散歩に行ってくるから』
『はっ、承知仕りました』
シモンの母親のことは執事に任せ、クロエはシモンを連れ出していった。どうやら商店街周りを散策するようだ。
『で、さっきのだけどね』
『さっき……?』
『怒らないのかって。どうして怒ると思ったの?』
『……おれも、わからない。でも、おかあさんがおこるから。おれがいけないんだって』
『あなたは悪くないよ』
『え……』
シモンが立ち止まったので、クロエもそれに倣った。
『疑問に思うのって大事なんだって。おじいちゃんがそう言ってた。おじいちゃん、質問されるの大好きなの。だから、私も好き』
『そうなの……?』
『うん。学ぶ姿勢は大事って。おじいちゃんね、きっとあなたのこと気に入ると思うよ』
『よくわからない……』
『うん、今はそれでいいよ。えっと、何か気になることある?』
小さな歩幅で二人は並ぶ。シモンがゆっくりと紡ぐ言葉を、クロエは急かすことなく待つ。
『―店先ではお静かに願います。これね、すぐ覚えさせられたの。店先ではおしじゅかに。ってね、今でも噛んじゃうけど』
『ふふっ』
悪戯っぽく笑うクロエに、シモンはつい笑みがこぼれてしまった。彼がこうして笑ったのは久しぶりだった。前はいつか思い出せないほど、遥か昔のものとなってしまっていた。
『あははっ!』
クロエも笑った。本来の子供らしい笑い方だった。
『―よっと。到着!』
『よっと』
散歩の最終地点に到着したようだ。運河の上に架けられた橋、クロエは欄干によりかかる。シモンも真似をした。
『綺麗でしょ』
『うん』
水面が夕日を浴びて煌めいている。河のゴンドラ乗りが手を振る。笑って振り返す。温かな光景だ。シモンは心からそう思えた。
『綺麗だし、優しい人達もたくさんいるよ』
『やさしい、ひと……?』
シモンにはあまりにも縁遠い言葉だった。
『うん。優しい人。もしかしたら、あなたのお母さんも昔は―』
『……』
『ううん、今のは無し。……やっぱり、今日中におじいちゃんに会っておこうか!』
クロエは決めた!と笑顔を向けた。クロエの祖父が商会長ということは、シモンも知ってはいた。ここで思い出すのは、母からの言葉だった。
―リゲルはわるーいやつら。
『!』
シモンは体を竦めた。だが、首を振る。クロエに話を振る事にした。
『……きみのおじいちゃんに?』
『うん!おじいちゃん、厳しいし怖いけど。でもね、優しいよ』
『……きびしいのに、やさしいの?』
『うん。不思議だね』
『……うん、ふしぎ』
シモンは怖い人間は怖いだけだと思ってきていた。まさに自身の母親がそうだったからだ。
その後、シモンはリゲル家の本館へと案内された。噂通りの鬼会長、背丈は高くはないものの威圧感はとてつもないものだった。
総髪の男性、クロエの祖父と面したシモンは竦み上がってしまった。近づいてきた彼にシモンは怯えきってしまっていたが。
『……よくぞ、きてくれた。ああ、面影もあるな』
『……?』
『すまなかった。もっと早く助けたかったがな』
皺混じりの笑顔をシモンに見せてくれた。ここでようやく、シモンは実感した。ここは優しい場所なのだと―。
幼少期のシモンとクロエのやり取りに、劇場内は和やかなものとなっていた。鬼の会長も旧友の孫を心配して招いたようだ。シモンを取り巻く環境が優しいものへと変わりつつあると。そう安心していたところだった。
『……随分とまあ、懐いたものじゃないか』
『!』
用意してくれた住居に戻ると、目が据わりきっていた母親が迎えてきた。
『―いいかい、シモン』
『!?』
それはもはや呪いの言葉のようだった。シモンから笑顔は消え失せ、動けなくなってしまう。
『それで構いはしないさ。いくらでも尻尾を振ってやりゃいい。私だって今はいくらでも媚を売ってやるさ!でも、忘れちゃいけないよ。アイツらは私達の仇だと』
『おかあさん、それは』
『……ああ、屈辱だねぇ!でも、これはチャンスなんだよ。私を。いや、―私達を』
『おれ、たち?』
『ああ、そうさ。―私達を信用させるんだよ。沢山信用させて、そこで……』
『ひゃあ!』
バン!っとシモンの耳元で盛大に手を鳴らした。シモンは目をぱちくりさせてしまっていた。
『今は耐えるのみだよ。……せめて、一矢でも報いてやるさ』
『……』
シモンは言葉の意味はわからない。それでも良くない意味である。それは理解出来た。