プロローグ② とある令嬢の救出劇
「……待ってて。今、行くから」
そう口にした少女の声は震えていた。こうして立っているのもやっとである。
時刻は夜が深まった頃。底冷えするような夜の寒さも少女はこたえていた。一つにリボンでまとめた長い黒髪が風に揺れる。
「!」
前方を蠢くのは黒い異形の物体。辛うじて人の形を成しているそれらが、赤いレンガが特徴的な広場を闊歩していた。今はまだ、少女に目もくれてはいないが。
「……っと。いいえ、何ともない」
ふらつく足をごまかし、そのまま歩き続ける。虚勢を張りながらも歩みを止めない。辺りに溢れる異形の存在の、その先を見据える。視線の遥か先、そこにようやく―。
月が雲隠れしている夜空では、視界もまともに確保できない。そのような中でも少女はその存在を確認する。
広場でも際立って目立つ断頭台。今にも処刑されそうになっている存在こそが。
「私はあなたを……」
彼女が求めていた人物だった。
その人物は叫び続けている。来るな、と。構わずに逃げろと。頑なに少女の助けを拒んでいる。―そういう人だった、と少女は儚く笑った。
異形達は囃し立てているかのように、今にも処刑されそうな人物を取り囲んでいる。続々と断頭台の周りに集ってきた。
「―もう、『何度目』?懲りないね」
突如、断頭台のてっぺんに小さな少年が降り立つ。頭上には王冠、そして赤いマントを纏った幼い少年である。
「ええ」
きっぱりと返事されたことに、頭上の少年は心底呆れ返っていたようだ。
「……本当に懲りない人」
何度もこうしてお互い顔を突き合わせてきた。だからこそ少年は少年で思うところもあるようだ。そんな彼は『ある事』を問いかける。少女は肯定し頷く。少年は呆れつつも、仕方ない、とおざなりに地面にあるものを放り投げた。宝飾が施された剣だった。
「いい加減、丸腰じゃかわいそうだし」
「ありがとうございます」
剣の扱いなど学んだ事はない。けれど、少女は確信していた。自分なら扱えると。
「―うん、今のきみなら出来る」
断頭台の上の少年もそう頷いた。少女はリボンをきつく結び直し、丁重に拾い上げる。
「―今度こそ、あなたを助けてみせる!」
異形の者達が雄たけびを上げる。始まった。少女も剣を構える。
「くっ……」
逸る気持ちと共に剣を振り回していく。切り伏せた異形達の悲痛な叫びに、少女は顔を歪める。心を痛めている場合ではない、と少女は首を振った。何よりも救いたい存在の為に、少女は邁進していく。
「頑張るもんだね。でもね、お姉さん?―今夜も、おしまい」
広場の上の空を指さす少年につられて、少女も空を見上げる。
「あ……」
その人物までまだ遠いのに。それなのに、空が白み始めてしまった。
「……どうせ、明日も来るんだろうけど」
「ま、待って―」
夜明けと同時に、『それ』は一旦終わりを迎える。
少女の目の前を塞ぐように現れたのは緞帳だ。赤いレンガは木の板へと変貌する。後方にあるのは赤い観客席。現実へと景色が戻ろうとしている。
「うん、待ってはあげる。……いつまで待ってあげられるか、わからないけど」
淡々とした声だけ残して、少年は姿を消す。
「……早く、早くしなくちゃ」
焦る彼女の目の前が暗くなっていく。意識が、落ちていくかのように。
「はっ!」
少女は飛び起きた。その反動でガタの来ているベッドが大きく揺れる。その事にも驚かされつつも、少女は一息をつく。ベッドから立ち上がると、薄暗い部屋のカーテンを開ける。
山々の合間に朝日が昇っている。朝が来た。一日が始まる。そして、夜を待ち、夜明けを迎えてしまう。その繰り返しだった。何日も、何日も。彼女はそうして日々を送ってきたことか。
「……支度、しなくちゃ」
二度寝をしても意味がない事は、少女は承知だ。日常を送り、そしてまた夜を迎えない事にはどうしようもないと。
こうしている間にも、あの人は辛い思いをしているのではないか。それでも夜にならない限りは、その姿を見ることさえも叶わない。
日常が疎かになっていく。もはや少女にとってはあの夢のような空間こそが大事だった。生気は衰え、目は虚ろとなっていく。―もはや、彼女にとって日常などどうでも良くなってきていた。
「……ようやく、夜になる。やっと、あなたに逢える」
日が落ちて夜を迎える。日常という義務を果たした彼女は、ベッドに潜り込む。
「……私、だけなの。もう、私しかいない。だから―」
長い睫毛が影を落とす。少女は寝息を立てる。そして、深い眠りへと落ちていった。
朝から一日が始まるという。けれど、彼女にとっての一日の始まりは今、この瞬間からだった。
少女は膝から倒れ落ちる。今もまだ戦い続ける彼女だが、自身の体の限界は迎えていた。起き上がろうとしても、そのまま崩れてしまった。これは夢の中ではないのか。それなのに肉体の疲労などあっていいのだろうか。
「……そんなの、影響出てるに決まってるじゃん」
どこか沈んだ声で話しかけてきたのは、断頭台の上が定位置の少年だ。この少年も毎晩のように付き合ってくれてはいた。
「ねえ、お姉さん。まだやるの……?」
だから何晩も何晩も付き合わされてうんざりしている。―いや、それとは違うようだ。心配するような声色も含まれていたからだ。
「……」
ええ。といつものように力強く返事しようとした。だが、少女から声が出ない。出そうにも掠れ切った声が限度だった。
「……そんなに、大切な人なの」
「!」
少女はその問いかけに力なく答える。
「……ええ。大切な、人。私だけじゃなく、その人は誰からも―」
浮かぶのはその人の笑顔だ。誰からも慕われる人だった。それなのに。
「でも、もう私しか……」
それからはもううわ言のように繰り返す。
「お姉さん……」
少年の声はもう届かないようだ。まだ何か言いたげだった少年だったが。
「……って、ちょっと!?」
ある異変に気がつく。
「―ねえ、ねえったら!」
「……?」
声を荒げた少年の声に、少女はゆっくりと顔を上げて反応する。
少女は言葉を失った。
知恵をつけたのか異形達が断頭台をいじくり回している。その事により、断頭台の斧は振り下ろされ―。
「―!!!」
少女は声にもならない悲鳴をあげる。慌てて手を伸ばすが、それがどうして相手に届くと思ったのか。
「……ねえ、お姉さ―」
惑う少年の声が遠くなっていく。気づけばまた、少女は舞台の外だ。―今日もまた夜が明けていく。
「!」
今日もまた少女は飛び起きる。
「はあはあ……」
ここ最近の彼女の目覚めはよくないが、今朝は段違いだった。嫌な汗が止まらない。動悸は激しいままで、頬に涙が伝う。深呼吸を何度も試みるも、彼女の心は落ち着いてくれない。
「……今夜こそ、今度こそは」
何度も自身に言い聞かせ、しきりに頷く。そうして無理をしようとはしても。
「もう、これで終わりにしたい……」
彼女は追い詰められていた。彼女自身は気づくことはなかった。思わず口に出た言葉を否定する気力さえなかったのだ。