学園一の色男とスキャンダル
温室に続く道の前に、庭園があった。雪解けされており、ここだけ別空間のようだった。すっかりあたりは暗く、足元の明かりを頼りに歩いていく。
箱型のガラス製の建物が温室だった。入口扉のドアノブに『管理者在室』と書かれた札がかけられていた。読み通り、とスーザンが指を鳴らす。その色男とやらは、この温室にまだいるとのことだ。
「ふふん。スーザン先輩の狙い通り!んでもって、この曜日が大体彼の温室デーなんだよね」
「そうなのですね」
「おまけに!本日彼はどの女子との約束も取りつけていない。これはもう確実っしょ!」
「さ、さようでございますか」
情熱的といったら聞こえがいいが、把握しすぎではないだろうか。アマリアは深く追求する事はしなかった。あえて触れない。怖れた。
なにはともあれ、目当ての人物はこの中にいるという。話によるとアマリアの婚約者と相当親しい人物だったという。その人物ならば、彼の事を覚えているかもしれない。淡い期待かもしれない。それでも、とアマリアはノックする。
「―アマっち。自由に入っていいんだよ。温室は普通出入り自由だからさ」
「なんと。教えてくださいまして、ありがとうございます。では、お先にどうぞ。スーザン先輩」
ドアノブを開いて、スーザンに入るように促す。だが、当のスーザンはとぼけた顔をしていた。
「アタシは入らんよ?アマっちが一人で入るんだよ?ほら、込み入った話になるかもじゃん?」
「なんと!」
あれだけ守るだ任せるだ豪語していたではないか。そして、あろうことにもドアの隙間から映像記録の道具を構えていた。盗撮する気満々だ。
「お力になっていただきながら恐縮にございますが。……隠し撮り、にございますか?」
「ああ、気にしない気にしない。取れ高さえなければ、映像残さないし!……おやおや、アマっち?うふふ、期待しちゃっていいのかな?」
「いえ、決してそのような事態には……。そうですね、承知しました、わたくし一人で失礼させていただきます」
唖然としていたアマリアだったが、改まる。ここまで覚悟を決めてきたのは彼女自身だ。相手がどのような人物だろうと、引き下がることなどできない。
「失礼致します―」
むわっとした蒸し暑さだった。寒がりのアマリアとしては歓迎できる心地よい温度だった。南部地方に生息する樹木は、アマリアの故郷でよく見かけたものだ。他にも種類は多々ある。見慣れない華やかな花々達を、アマリアは初めて目にした。この国でもそう、おそらく隣国でも見かけないものだった。遥か遠くに咲くような、異国情緒めいた花たちだ。
「ごめんください。どなたかいらっしゃいますか?」
返事はない。アマリアは室内を巡りまわる。
中央にあるのは鉄製のガーデンテーブルとチェアだ。この植物たちに囲まれながらのお茶会はさぞかし絵になることだろう。この学園のお嬢様方の為にあつらえたものとも思わせた。
「突然の訪問お許しください。わたくしはアマリア・グラナト・ペタイゴイツァと申します。怪しい者ではございません。どなたかいらっしゃいませんか?」
アマリアは気づいた。肝心の婚約者の友人の名前を聞いていなかった。ただ色男という情報しか今はない。そして、もう一つ気づいたのが。
「……どうしましょう、暑いわ」
ただただ暑い。コートと冬制服を着用している事もあり、さすがの寒がりも暑くなってきたようだ。コートを脱いで、自身の腕にかける。それでもまだ暑かったが、そこはもちろん耐えていた。
アマリアは窓際まで寄っていく。ガラス製の壁からは外が窺えた。暖かな室内とは違って凍てついた世界。温室一帯から抜ければ、一面の銀世界だ。
「……まるで、別世界ね」
非日常の中にいるようだ、とアマリアは思う。ハンカチで額の汗を拭い、そして捜索を再開しようとした、その時だった。
「もしかして迷い込んだのかな。……アマリアちゃん?」
甘く。そして蠱惑めいた声だった。耳に残るその声に戸惑いつつも、アマリアは振り返る。目当ての人物にしろ、そうでないにしろ、挨拶をすべきと彼女は思った。
「……」
「ん?どうしたの?」
同じ長さで切り揃えられた黒みがかった茶色の髪をかき上げる。その様にアマリアは素直に見惚れてしまった。
艶然と微笑む彼の色香は留まる事を知らない。はっきりとした顔立ちと大人びた雰囲気はとても同世代とは思えない。若干浅黒い肌に、鍛えられたしなやかな体躯。
アマリアは納得出来てしまった。スーザンが指す色男。それこそが目の前のこの青年であると。―そして、アマリアの婚約者につながる可能性のある人物であると。
「……っと」
目を見て挨拶をしようとすると、自然とアマリアが見上げる形となってしまう。なぜか相手が黙ってしまう。そのまま沈黙しているわけにもいかず、アマリアは改めて挨拶する事にした。
「失礼致しました。初めまして、わたくしの名は……」
と言いかけたところで、アマリアはふと気がつく。相手は既に自身の名を呼んでいた。
「うん、知っているよ。アマリアちゃん」
「わたくしの名をご存知で?はっ……!」
アマリアはピンときた。アマリアはつい先程、自分の名を言いながら歩いていた。という事は、暑いと言っていたくだりを見られていたのだろうか。アマリアは気まずくなる。
「―ねえ、アマリアちゃん。俺の事、覚えてる?」
「……!?」
アマリアが一人気まずくなっている内に、いつの間にだろうか。かなりの距離を詰められていた。自然と二人は近づく。
「俺達、会った事あるよね?」
アマリアを覆うように、青年は両手を壁につく。アマリアはひたすら首を振って否定した。これだけ濃い人物の事など、そうそう忘れる事などないだろう。だから、初めてお会いする、とアマリアは答えた。
「……そう。まあ、それでもいいか」
「!?」
「それでも構わないよ。俺はこの際どちらでも―」
壁から青年は手を離した。そのまま解放されるかと思ったが、アマリアの肩にそっと触れる。意図がわからないアマリアは、相手を窺い見る。
「……」
「……」
強く見つめられていた。アマリアはどうしても目をそらせずにいた。アマリアよりさらに深い漆黒の瞳の色だ。そうして見つめ続けられる内に紅潮していくアマリアの頬。だが、一方で背中に汗が背を伝う。
自分は間違えたのでは、とアマリアは後悔していた。相手が本気にせよ、そうじゃないにせよ。あれだけクロエ達が忠告してくれていたのに、安易に異性と二人きりになってしまった。その事にアマリアの顔は青くなる。
「……こうして、君に触れられたらそれでいい」
このままだと抱き寄せられる。このままだと―。
「な、なりません。このような行為は、十分に不純行為にあたるのではありませんか?せめて懇ろな相手でないと。……その、おかしいかと」
失礼承知でアマリアは相手を押し返した。意図せず相手の胸元に触れてしまうことになる。逞しい胸元だが、よく押し返せたものだ。相手が笑いながら脱力していた事もあるのだろう。
「不純って。ただハグしようとしただけなのに。まずはご挨拶のハグ」
真顔でいうが、どこまで信用していいものか。彼は彼で両腕を広げて待機していた。おいで、と笑ってみせる。アマリアはそうはいかない、と距離をとった。そもそも、ほぼ面識がないはずの相手と抱擁する意味がアマリアにはわからなかった。
「……どのみち、わたくしには出来ません。その、ある方に対する不貞行為でありますから。相手の方にも申し訳ないです」
「お相手?」
アマリアが敬遠している事を察したのか、青年は姿勢を正した。お互い距離をとったままだ。
「その方は……」
自分の婚約者とばらしていいか、とアマリアは迷う。だが、ここは踏み込むべきだ、と彼女は選択した。もしかしたら、という希望的観測もある。婚約者と親友だったなら、もしかするとアマリアの話もしていたかもしれない。より記憶につながるかもしれない。
「わたくしの許嫁です。家に決められたお相手ではありますが、わたくしにはもったいないほどの方です」
「……そんな。君だって素敵だよ。その男こそ幸せ者じゃないかな。こんな可愛らしい子がお嫁さんになるんだから」
「か、か、かわいい?け、決してそのような事は」
「うん、可愛いよ。……うーん、あまり言われ慣れてないのかな」
このままではさらに相手のペースだ。アマリアはさらに距離をとりつつも、語りかける。
「お、お気遣いありがとうございます。……本当にお相手の方は素晴らしい方です。だからこそ」
―貴方もずっと『彼』とずっと一緒にいたのではないか。そう、語りかけた。
友人として。いや、親友と評されるほど側にいたのではないか。どのような想いかはわからない。けれど、彼に対して強い思いはあるはずだ。アマリアは相手の言葉を待つ。
「……『彼』?俺、男とつるんでた?どうだったかな……?」
おかしな質問だろうに、青年は真剣な顔をしていた。悪い人ではないのか、と思うと同時にアマリアは諦観した。やはり、誰しもがそうなのか。
「俺といつも一緒に……っ!?」
「!」
青年は激しい頭痛に襲われている。自身の額に手を当てながら、息を荒げながら痛みに耐えている。
「大丈夫ですか……!?今、お医者様のところまでお連れしますね」
使用済みな事を申し訳なく思いつつも、青年の額の汗をぬぐう。そして、青年を連れていく為に、彼の肩を抱える。
「申し訳ありません……。わたくしの問いがきっかけでしょうね。今すぐにでもお連れしますから」
これ以上聞き出すよりも、彼の容態の方が気がかりだった。アマリアは肩をかついで学園の医務室へと連れていこうとした。外にはスーザンも待機しているはずだ。結局助けるも何もなかったが、この際それはよかった。今は手助けしてくれればそれでよい。
「それでは、参ります。はっ!」
体格の良い彼を担ぐのだ。アマリアは気合を入れた。そして、体を起こす為にそっと身体に触れる。ずしりとした重みに、アマリアは小さく呻いた。だが、このまま放ってはおけない。作物を担ぐ要領で彼を支えようとした。
「……これで不貞行為だと思う方が難しいよね」
これだけ密着していても、相手はあくまで人命救助としてしか思っていない。顔を赤くしていても、あくまで男の重みによるものだ。それにしても元気そうな声色だ。痛みに苛まれていたのではなかったのか。
「ありがとう、アマリアちゃん。俺は大丈夫だよ」
頭上から笑い声がした。アマリアは無理をしていないか、と相手を見る。顔色が悪いわけではなさそうだ。呼吸も落ち着いている。
「無理なさらないでください。わたくし、付き添いますから。医務室へと参りませんか?」
「……本当に、心配性だな。大丈夫だって」
「さようでございますか……。それならば、おかけになってはいかがでしょうか。あちらの椅子をお借りしますね」
「―ううん、このままの方がいいな」
「このままとは?……はっ!」
このままとは?ではない。そして現状にも。この、アマリアから抱きついているかのような体勢にも。アマリアは内心自身に激しく突っ込みをいれた。
「……不思議だな。こうして君と寄り添っていると、元気になるだけじゃない。心が満たされていくんだ」
「お、お元気ということでよろしいのですね?……あくまでお体を心配しただけですから。ご無事なのでしたら、それで良いのです。―わたくしは、これにて」
一刻も早く、相手から離れようとする。先程は踏ん張りながらも相手を助けようとしていた。その時はぎりぎり人命救助にみられたかもしれない。けれど、今は。
「そうそう、俺を助けようとしたんだよね。顔を真っ赤にしながら、重たい思いさせてしまったけど。―今ならどうかな」
けれど、今はどうだろうか。この甘い空気の中なら、二人は。
「……どう見えているのかな、俺達は」
「わたくし達でございますか。もちろん、ただの―」
アマリアは言われるがままに、自分達の姿を映し見る。ガラスの壁に映されたのは、ただの生徒同士ではない。アマリアは愕然とする。
そこにいるのは寄り添う男女だ。慈しむような眼差しを向ける青年と。そして。そんな彼に添うように体を寄せるのは―。
「はい、ストップー!うちの寮生をこまさないでくださーい!」
「クロエ先、……クロエ様!」
突然の来訪者にアマリアは混乱を極めた。公の場でのクロエの呼び方もごっちゃになるほどだった。
「こーまーるーよー、アマリアさーん!それ目撃されたらまずいってぇ……」
クロエは嘆く。てっきり新月寮に戻っていたと思いきや、引き返してきたようだ。たその現場を目撃していたクロエは嘆ききっていた。彼女は心底困り果てていた。クロエが危惧していた状況そのものだった。
アマリアは慌てて彼から体を離した。一方、青年の方は。
「やあ、クロエちゃん。これはこれは、妖精さんのおでましだ」
同じ学年だからか、知り合いのようだ。にこやかにクロエに手を振っていた。クロエはクロエで愛想笑いで返す。慣れた返し方だったので、毎度の事なのだろうか。
「見てたの、私達くらいだからよかったものの。私と……そこの盗撮犯ね?」
「ひ、人聞き悪いな。それがさ、うまく撮れてなくてさ。あやつ、うまく立ち位置調整してたのでは?……ひっ、クロっち!ほ、本当にやばかったら、さすがにアタシも止めに入るけど、でも彼って結局はさ?」
焦るクロエの後ろにいるのは、バツが悪そうなスーザンだ。青年はいつものことだと苦笑いした。バレバレの尾行も彼にとっては日常茶飯事だった。
それにしても。最後までスーザンが盗撮に徹しているとは思わなかった。その事がよりクロエを苛立たせている。本当に危なかったら止めるつもりだったとスーザンは言い訳しているが、クロエはわざとらしい溜息で返した。
「スージーはこの際おいといて。……まあ、確かに。あなたの名誉の為に言っておくけど、踏みとどまるラインはわかってると思ってる。相手もちゃんとみるだろうし」
「当たり前の事を言うね、クロエちゃん。彼女は大事な女の子なんだ、無理強いはするつもりはないよ」
「んー。大事な『女の子』ね。まあ、いいけど。……アマリアさん」
「はい!」
急に振られたので、アマリアはびくついてしまった。お怒りかと思いきや、クロエの話は違うものだった。それこそ。
「……どうだった?」
「!」
本題だった。アマリアは目を伏せた。たとえこの青年の隊長を慮らなかったとしても、婚約者の事は記憶にないままだっただろう。そう、とクロエは返事した。
「ふーん……」
青年は事情を汲み取った。彼女、アマリアは誰かを捜している。その誰かは彼にはわからない人物だ。けれど、そんな相手を彼女は強く求めているようだ。
「帰ろ?アマリアさん。ほら、スージーもさ」
「クロっちぃぃぃ……。結局許してくれるぅぅぅ。しゅきぃぃぃ」
クロエから差しのべられた手をスーザンは力強く握った。痛い、と暗い声をクロエが出してもその手を離す事はなかった。
「……ん、確かにもう帰った方がいいかもね」
純金で出来た懐中時計で時間をみたあと、三人組に帰るように促す。門限に近いとの事だ。
「本当は君達を送ってあげたいんだけど。―ほら」
複数の足音がする。軽やかな足取り、今にもスキップしそうなくらい。
「ヨルクさまー!お迎えに参りましたー」
「あれ?なんか珍しいお姿で?」
「どっちもかっこいい!」
華のある女生徒達だ。おそらく満月寮の住人だろう。この色気ある男子生徒、ヨルクを迎えにくるのは恒例のようだ。クロエ達の態度がそう教えてくれていた。いつもの光景であると。
「……ヨルク?」
アマリアは無意識に相手の名を呼ぶ。なぜ、そうしたのか。彼女自身でもわからなかった。
「……なあに、貴女?」
様づけではなく、しかもいきなりその呼び方とは。色男を取り巻く乙女達は険しい顔つきになる。アマリアは慌てふためく。
「……失礼致しました。こちらの方がおっしゃられた通り、わたくしのお知り合いかと思ったのですが。どちらにせよ、きちんと敬意を込めてお呼びするべきでした」
「知り合いですって……?」
余計険悪になる雰囲気。まずいか、とクロエが助け船を出す。
「この子、人探ししているだけなの。ただ、名前がうろ覚えでね?それで反芻しちゃっただけ。まあ、彼は違うでしょ?」
「ええ……。わたくしの思い違いでした」
クロエのフォローに乗ったこともある。だが、やはり記憶になかった。だから、人違いとはっきりと伝える。
「……ほら、彼女がそう言っているから。それと君達?いいんだよ、いつもお迎えなんて。夜道なんて危ないし、心配だよ」
「えー、ヨルク様。お優しいけどつれなーい。わたくし達、少しでもご一緒したいのに」
「……寮についたらついたらで、お姉様方とご一緒されるでしょう?」
「こういう時でもないと、ご一緒できないですの!」
そう口々にしては、色男から離れようとしない。参ったな、と彼は苦笑する。そして、身を屈めて一人ひとりと目を合わせる。
「その気持ちは嬉しいよ。いつもありがとう。……たまには、遠回りして帰ろうか。俺も君達と沢山話したいよ」
「きゃっ、本当ですか?」
温室内なので静かながらも、少女達ははしゃいでいる。お互いの手を組み合わせながら、今にも飛び跳ねそうだ。
「……わーお、一件落着。さすがヨルクサマー」
「……さあ、私達もこそっと出ていこ?」
「……ええ、かしこまりました」
それを遠巻きで見ていたのはアマリア達だった。すっかり蚊帳の外だった彼女達は、会釈しつつも帰ろうとした。これ以上厄介事に巻き込まれないように、と逃げるようにであった。
「ああ、君達も気をつけて帰ってね」
「ご、ごきげんよう」
目ざとくそれを発見したのは、さすがの色男だった。アマリアも当たり障りのない挨拶をしておく。それ以上のやりとりは慎んだ方がよさそうだった。ヨルク界隈で盛り上がっている内に、今度こそ新月寮生たちは温室をあとにした。
「……?」
アマリアはガラス製の壁越しに視線を感じた。一瞬の事だったので、気のせいだったと彼女は思った。悪意でも好意でもない。得体の知れない感情が伴ったものだった。
彼は、学園女子なら誰にでも声をかけると認識されています。