姉とアマリア
「ん……」
アマリアは気がつけば薄もやの中、一人立っていた。しばらくは辺りを見回していたが、埒が明かなかったのでゆっくりと歩き出す。揺蕩うように、ふらつきながらも足を進めていた。
―見ているよ。
「え……」
どこからともなく声がする。途端、アマリアの視界が開けていく。
「ここは……」
柔らかな陽射しが差す。暖かい風が吹く。懐かしい匂いがする。見覚えのある景色だった。
アマリアの眼前に広がるのは彼女の父の領地、子爵領の港町だった。決して豊かとはいえないが、それでも暮らす人達は笑顔に満ち溢れている。
「……」
アマリアがこの地を発ってから、少ししか時間は経ってない。だとしてもだった。アマリアは故郷がこんなにも愛おしく寂しくも思ってしまった。
アマリアは懐かしみながらも港町を歩く。たどり着いたのは馴染みの店だ。威勢の良い夫婦が切り盛りしている。
「まあ、ごきげんよう!」
「……」
見知った顔に声を掛けるも、相手は聞こえてないのだろうか。アマリアの方を見る事すらない。無視でもされることは、この領民の人柄からしてないだろう。というより、反応一つさえないのだ。
「どうしたことかしら。……あら?」
首を傾げたアマリアが目にしたのは人だかりだった。少し離れた位置だったので、アマリアは寄ってみる。
「……あ」
人だかりの中心人物こそ覚えのある女性だった。
「姉上……」
人が群がり騒ぎとなっていても、落ち着いた対応をしてみせる。淑やかな女性はアマリアの姉その人だった。アマリアは近づくのをやめ、その場で様子を見る。
アマリアは遠巻きで見ながら、改めて実感する。―ああ、本当に綺麗な人だと。優美さを備えていて、一人ひとり誠実に対応している。通りすがる人々も吸い寄せられるようにやってくる。
「……」
眩い。アマリアはそう思った。
―見ているよ。ずっと見つめ続けてきたんだ。
「!」
まただった。謎の声がする。アマリアは勢いよく周囲を確認するも、日常を営む人々、姉に夢中な人々。それらしき人などいないのでは、そう思ったところでアマリアはハッとする。
「姉上のこと……?」
―本当に誰よりも美しい。ずっと、見守ってきたんだ。
「!」
声の実体はない。それでいて、熱のこもった言いようにアマリアは後ずさってしまう。言っていることは好意的なことなのだ。いつものように悪意を向けられているわけではないのに。アマリアは怯んでしまったのだ。
「―あら、アマリア?」
「あ……」
どうしたことか、アマリアに対して反応があった。それも、人に囲まれているアマリアの姉からである。優美に手を振っている姉を機に、取り巻いていた人々もアマリアに一斉に視線を向ける。
「これはアマリア様。ちょうどあなた様のお話をしておりました。日々、勉学にも励んでおられると。優秀な姉君の元、幸せでございますね」
「以前着ていらしたドレス、ええ似合ってらしたのですが。姉君が選んでくださったというドレスの方が。……その、本当はそちらの方が合ってらしたのでは?」
「あ……」
アマリアはまた一歩、下がってしまう。
「……弟妹君、泣かせてしまわれたとか。姉君が慰めれられて、仲を取りもっていただいたのでしょう?その、表情をもう少し和らげてはいかがでしょうか?それに、もっと柔軟な思考をお持ちになるなど。―姉君のように」
「!」
確かにアマリアは厳しくし過ぎて、弟妹を泣かしてしまったことはあった。
「さすがは姉君ですね」
「姉君には感謝しなくては」
誰しもが姉を讃える。いつも比べられ、称賛されるのは姉の方だった。
中心となって微笑み続けているのは、姉だ。暖かな眼差しでアマリアを見守っている。慈しむような表情は、妹を大事に思っているのだと。誰しもがそう思えてならないほどだ。
「姉上……」
愛情を向けてくれているだろう姉に対し、自分は一方的に抱いている感情。―劣等感。それはアマリアの中から消えてはくれないものだった。どれだけ努力をしても、彼女のようにはなれない。
「……私、失礼します。もう戻らなくては」
戻る。ここが故郷だろうに可笑しなことをいうと、人々は笑い出していた。アマリアも愛想笑いをする。表面上は笑っているが、アマリアは一刻も早くこの場から去りたかったのだ。この、どこか異様な場から逃げ出したかった。
―ずっと気になっていた。その優美な笑顔の下で、どんな思いを抱えていたのか。どれだけの感情を隠してきたのか。ずっと、ずっとだよ。
「!」
この得体のしれない声からも。アマリアは笑顔のまま逃げ出していく。それは優美とはほど遠く、怯えで歪んでしまったものだった。
アマリアは走り続ける。着いた先は海岸沿いだった。船が泊められている。漁で使われるものや、観光船もある。
「どうしたんだい、アマリア様ー?」
「海に向かって!どうしようというのです!?」
様子がおかしいと感じ取ったのだろう。人々がなんと追いかけてきたのだ。後方にいる姉もまた、アマリアを心配そうに見ている。
「あ……」
アマリアの後方にあるのは海のみだ。
「お戻りくださーい、アマリア様!」
呼びかける声も耳に入れようとせず、アマリアは船のある停船所に向かう。彼女の頭の中で占めている思いは、早くこの場から去りたいだった。子爵家所有の小型船なら操作は慣れている。アマリアは頭を下げながらも、彼らから離れる為に船を出す。
「!?」
船を出してからまもなく、船体が沈み始める。アマリアは船を修繕しようとするも、大きめの穴が船体に空いてしまっていた。やむを得なく彼女は船を乗り捨て、海へと飛び込んだ。
「何をなさっておいでですか!?ほら、早くお戻りを!」
同郷の民から逃げるアマリアは、奇行をとっているとみられたことだろう。海の中浮かぶアマリアはそうはしないとしない。見かねて民が助け出そうと海に入っていく。
「―アマリア、困らせないで」
「姉上……?」
凛と通る声がした。それはアマリアの姉が発する声だった。
「戻っていらっしゃい。皆、あなたの帰りを待っています。もちろん、私もよ」
「ですが、姉上……」
「ええ、待っています。あなたは私の大切な妹。―私の大切な『影』」
浜辺に黒い霧が漂い始める。姉を取り囲んでいた民達も、そしてアマリアの姉までも。異形の姿へと変わっていく。
「!」
アマリアは喉を鳴らす。あの美しかった姉の姿が、見るも無残もないものになっている。
「あ、姉上……?」
「私の姿が醜く映っていますか、アマリア?」
「い、いえ……」
「いいの、その反応が答えなのだから」
アマリアがわかりやすいところもあるが、姉としてわかりきったことなのだろう。こうも続ける。
「それは、あなたがそう捉えているからに過ぎないの。望んでいる、といった方が良いかしら」
「姉上……?その、おっしゃっている事の意味が」
「あなたの目にだけ、そう映っている。あなたがそう願うから、そう見えているのでしょう。―私が醜くあれば良いと」
「!」
「あなたの心が、そうさせているの」
何てことを言うのだと、アマリアはすぐに異議を唱える。
「違います!」
「違いません」
それをアマリアの姉は即、否定した。
「あなたの心が歪んでしまっているから。ほら、わかるでしょう?優しくしてくださった領民の方々はどう見えているかしら」
「……!」
今の領民の姿はどうなのかと指摘を受け、アマリアは気が付く。まるで学園の一部の生徒のように、苦手意識や嫌悪感をもたらす人物像となっていた。
「……痛ましいわ」
「……」
唖然としているアマリアに対し、姉は悲しそうに目を伏せていた。その姿もまた、様になっていた。
『ああ、今日もお美しくあられるわ』
『なんて素敵な方なのかしら。どこぞの王族に見初められてもおかしくないわね』
ノイズ混じりの声は、異形と化した領民によるものだ。黒く蠢きならも、元領民達は姉を誉め続けている。彼らには、いつもの美しい姉の姿であるようだ。
『アマリア様、素直になりませんか?姉君の美しさは生来のもの。慈しむ心は、多くの苦しみの末に培われたもの。その素晴らしさを、本心では認めたくないのでは?』
『血のつながらない正妻の母君のもと。分け隔てなく育てられたとはいえ、真の愛情はアマリア様方、実子に注がれたのでしょう。それでも、こうも懸命に生きてこられたのです。今や堂々たるもの、誇り高きお方ですわ』
「……違います。母は、私達に対して常に平等でありました。姉の素晴らしさとて、とっくにわかっております」
『まあ!そうですか、そうですか』
反論するアマリアに対し、笑い声が上がる。何が可笑しいのかわからない、とアマリアは眉を顰める。
『よくご存じでしょうね。姉君がとても魅力的であると、身をもって実感しているでしょうね』
「……ええ、わかっております」
『町の殿方はこぞって姉君に夢中。いえ、来訪者も紛れもなく。ふと訪れた方でもそう。―存在を知ったからには、心惹かれずにはいられない。アマリア様もよーくご存知でしょう?』
「ええ……!?」
アマリアは左胸にちくりと痛みを感じた。一瞬のことだったが、今でも残り続けてそうな異物感がある。
「アマリア。よくわかったでしょう?あなたの本質が」
「私の……?何をおっしゃるのですか、姉上」
「あなたは私には敵わない。……あなたは私の『影』に過ぎないのです」
「!」
「さあ、早く戻っていらっしゃい。私を妬むその心の醜さも、私に屈するその心の弱さも。―私は愛しくてたまらないの。さあ、アマリア」
異形と化した姉は両腕を広げる。どこまでも優しい声だった。領民達も賛同するかのように、姉の元に集う。
『アマリア様、皆待っていますよ』
『アマリア様、あなたの居場所はここですよ』
アマリアを迎え入れようとする。それでも、アマリアは彼らの元へ引き返そうとはしなかった。
「いや……。私は、私は本当は……!」
彼らに背を向け、アマリアは泳ぎを再開する。物心がついた頃から泳いでいた為、泳ぎは得意だった。そんな彼女だが、荒波の中動きが取れなくなっていく。それでももがくように泳いでいく。
故郷の民が呼ぶ声がする。優しい姉が待っている。それでもアマリアは逃げるように泳ぎ続ける。
「くっ」
波の勢いが増していき、アマリアはもがき続ける。やがて、海の中へと沈んでいってしまった。
―ああー、思い出すなぁ……。『あの時』は君に助けられた。
この声は誰なのかわからずじまいだった。アマリアの意識は薄れていく。
―今度はこっちの番だ。君を助けてみせる。