ルフナ 小石と岩 5/20 たくさん遊んだ後~
ボートの上から手を伸ばすと、冷たいものに手を包まれた。行かないで、と手を引かれたようで、わたしはそれを握り返した。でもそれは、叶わなかった。
「わたしも、ほんとは帰りたくなんかないんだよ?でも、帰らないと駄目なんだ~」
わたしは名残惜しく、水の精霊に語りかける。
「何か言ったか?」
わたしの小さな一人言は、精霊にではなくてヴァレンに届いてしまった。
「うん。冷たくて気持ちいいねって」
こっちの世界には水の精霊なんてものは、多分いない。それでも、そんな言葉が出てくるということは、向こうの世界には、いたのかもしれない。
「この暑さにはちょうど良かったな。やはり、エレスの人々も、涼を求めて水上にくるんだろう」
「そうだねえ。それに今日は、楽しかったなぁ」
とにかく、わたしにとってのデートは終わりつつある。まだ終わってはいないのに、少しだけ淋しい気持ちになるのはどうしようもなかった。ヴァレンも何かの余韻に浸っているのか、ゆっくりとボートを漕ぎながら、その口数は少なかった。
「エレスの夏は長いからな。この冷たさが心地好いうちに、もう一度ぐらい来るか」
だけど、貸し船屋さんのある岸辺を目前にして、ヴァレンが口を開いた。
「うん!!また来ようね!今度は水着も持ってこなきゃね」
まさか、ヴァレンの方から、そんな約束めいた言葉をくれるとは思わなかった。もちろん社交辞令という可能性もある。でもでも、それはまるでデートのお誘いみたいで、わたしの淋しい気持ちは、次への期待に置き換わった。そして、期待は高揚を呼ぶ。
約束ならば、やることはひとつだ。
「じゃあ、はい!」
わたしは小指を立ててみせた。ヴァレンも今日は、それだけで理解したみたいで、理解したはずなのに、さっと目を逸らした。
「今、俺の両手は大忙しなんだ。わざわざそんなことをやる必要もないだろう?」
ヴァレンの頬が、再びうっすら赤くなった。
その瞬間、わたしの戦いの炎が、勢いよく燃え上がる。私の頭の中では、攻め時だだの、好機を逃すなだの、兜に恋愛の二文字を掲げた武将が、大きく声を上げていた。
「えっへへー!言い訳みたいに聞こえちゃうなぁ。一昨日は普通にしてくれたのに、恥ずかしくなっちゃった?」
ヴァレンににじり寄ると、挑むように右手の小指を突き付ける。ヴァレンの両手はといえば、櫂を握ってはいても、もはや漕いではいなかった。
「はい!ちゃんと約束しようよ!また、絶対来ようね」
わたしはトドメとばかりに、ヴァレンの顔に小指を近付けた。すると、ヴァレンは何も言わずに、自分の顔の前で人差し指をコの字にしてみせた。それは、悪党が約束する時の合図だった。
「あ!ずるい!!」
わたしは思いきって、その人差し指に小指を絡めた。
「こ、こら!これでは、約束と関係ないじゃないか!」
ヴァレンがそれを振りほどこうと、右手を素早く、何度も振った。わたしはそれに負けじと、がっちりと小指に力を込める。
「忘れないように印象付けるためのものだから、別にこれでもいいの!約束ねっ」
「分かった!忘れないから離してくれっ」
その答えに満足して、ヴァレンの人差し指を解放すると、ヴァレンはすぐに櫂を手にして、ばしゃばしゃと騒がしく漕ぎ始めた。
ボートを返却すると、あとは帰るばかりで、わたし達は上り坂へ向けてゆっくり歩き始めた。思い返せば、今日のわたしは、朝の占い通りに絶好調だった。当初の計画以上のことをやってのけたはずで、わたしを見るヴァレンの目にも、明確な変化があったといえる。
さっきの約束の後から、ヴァレンは一言も喋らずに、今はわたしの前を歩いている。照れ隠しをしているこの人の背中は、思わず飛びつきたくなるほど愛しかった。
もしも今、後ろから抱き締めてしまったら、わたし達はどうなってしまうのかと考えずにいられなかった。もう何も考えないで、そうしてしまっても良いんじゃないかと、ぼんやりと背中を眺めた。
しかし、その背中は飛びつかずとも急速に接近した。
「ディバイド教官。。。」
突然、ヴァレンは立ち止まり、低い声で呟いた。わたしが異変に気付いて、半歩横に移動すると、そこにはガルシアと、朝に遠目で見た、壮年の男性がいた。大木のようなガルシアと比べてしまっては、少し背が低いものの、その男性からは、まるで大岩のような印象を受けた。
その、どっしりとした体格の男性は、鎧ですら隠しきれない筋肉をまとっていて、それは膨大な熱量の塊のように見える。さらには、眉間に刻まれた深いしわと、顔や腕、手にまで散らばる大小の傷痕が、その人の歴史を感じさせた。
何が言いたいのかというと、一目でわたしは気圧されてしまった。
「貴様は相変わらず、腑抜けた顔をしているな」
ヴァレンがディバイドと呼んだその人は、開口一番に罵声を浴びせた。その悪意の矛先は、ヴァレンに向けられているに違いなかった。
ふわふわ浮かんでいた心は、ゆらゆら揺らめいてから、ぱんっと弾けた。
「なんですか、突然!」
怒りと共に飛び出して、その人の前に立ちはだかる。鬼神のような表情を浮かべる男を目の前にしても、恐怖など、微塵も感じなかった。
「陛下から護衛の命を受けたことは聞いている。無様に城を飛び出して行ったこともな」
ところがその男は、わたしには目もくれず、ヴァレンに話しかけた。フィオニス家は、やはり、ヴァレンに用があるのかもしれない。今は、わたしがヴァレンを守るのだ、と男を睨み続けた。
「だが今日は、貴様に用があって来たのではない。わしは、そこな娘に、助力を乞いに来たのだ」
ところが男は、そう言うと表情を消して、こちらに目を向けた。男は感情の読み取れない、真っ黒な目をしている。わたしは一度、振り返ってヴァレンを見た。
怖じ気づいたんじゃない。それは、確認のためのものだった。取り決め通りにわたしに任せてほしくて、ヴァレンにひとつ頷いてみせると、ヴァレンもまた、小さく頷いた。
「助力、とは一体なんですか?」
男に向き直ると、わたしはできる限り静かな声で尋ねた。そこで男は、再びわたしから目線を外したかと思うと、その場に跪いた。
「ディバイドと申す。そなたの知恵を拝借したいのだ」
ディバイドさんの急な態度の変化に、わたしは毒気を抜かれてしまった。
「え、知恵??わたしなんかの?」
「知識や、記憶と言ってもいい。この国を、他国の脅威から守護するために、どうか力を貸してもらえまいか?」
ディバイドさんが頭を下げるのを見て、わたしの心中は、更に複雑なものになった。
わたしは以前、シエラさんが語り聞かせてくれたお話を思い出していた。ヴァレンに卑怯者と言った、ひどい人達がいたはずだ。そこにはディバイドさんも含まれるのではないかと、見当をつけていた。先程までの態度を見れば、それは間違いなさそうだった。
そこに、ガルシアの助言である、追い返せという言葉があれば、わたしのやることはひとつのように思える。
ところが、目の前のディバイドさんは頭を下げて、なんと、お願いにきたと言っている。その理由も、一応は明示されている。
追い返すにしても、もう少し話を聞いても良いのではないかと、わたしの意志は、またも揺らいだ。




