アレン司祭 アレックス5/9 4:00~
ルフナが召喚された二日後より、私がそれまで毎日行ってきた朝の祈りには、大きな変化があった。この二十年近く、肌身離さず大切にしてきた一冊の教典を、祭壇に供えるようになったことだ。祈りが終わればまた、すぐに懐中へとしまう。
だが私は、この教典を近々、燃やしてしまおうかと考えていた。
教典を燃やすなど、司祭どころか、信徒にとってあるまじき行為であった。しかし、これはただ書を焼くのではなかった。私にとってのそれは、火葬であった。
朝起きると部屋はまだ真っ暗で、手元も見えなかった。窓辺にうっすらと差す光をたよりに、蝋燭に火を灯した。身支度を済ませると礼拝堂へ向かう。礼拝堂にはまだ誰もおらず、燭台を置くと小さな音がやけに響いた。
祭壇には、常より一冊の教典が捧げられていたが、祭壇の前に来ると、懐から教典を取り出し、その隣に供えた。
その場で跪き、祈りを捧げる。
ふと何かが気になって目を開けると、未だ目を閉じているのかと思う程の暗闇が広がっていた。すぐに、蝋燭の炎が消えてしまっていることに気が付いた。手探りで燭台の所まで移動し始めてしばらくした時、ゆらゆらと揺れる光とともに、彼方から声がした。
「先生?いらっしゃいませんか?」
有難いことに、ロレアが丁度よく現れた。軽く礼を言うと彼女は微笑んで、朝の祈りを捧げ始めた。私は椅子に腰掛けて、それを眺めていた。
それからまるで示し合わせたように、一人が祈りを終えれば、一人が礼拝堂に現れるという面白いことが起きた。サリムとサリード兄弟が、揃って来ないのもまた珍しかった。先に来たものは、それを見て楽しんでいた。
そのまま皆が祈りを終えると、早速、サリムが声を上げた。
「今日は少し、急ぎの仕事があるんだ。早く朝食にしようよ」
私達は、その声に押されて食堂へと向かった。
そして、皆が調理場と食卓を行き来するのを、まるで舞いを見るような心持ちで見ながら、いつものスープを混ぜていた。食器を磨いていたロレアが、こちらの方を見て、なにやら目を輝かせているように見えた。
人数が増え、賑やかになった食卓で朝食を食べていると、懐に違和感を感じた。私は教典をしまい忘れたことに気付き、朝食を食べる手を早めた。そして、適当な理由をつけて礼拝堂に向かった。しかし、そこには既に、ヴァレンの姿があった。彼が祈りを捧げている最中だったので、私は余計な物音を立てぬように移動した。先程炎が消えたままになっていた蝋燭に、再び火を移す。そうしたところで、ヴァレンが静かに声を発した。
「勝手に入ってすまない。少し一人でこうしたかったのだ」
ヴァレンは祭壇の前で跪いたまま、唐突に告げた。私はといえば、祭壇に供えたままになっている教典を見て動揺していたものの、なんとか返事をすることができた。するとヴァレンは立ち上がり、神妙な面持ちでこちらを振り向いたかと思うと、なんと彼は、深く頭を下げたのだ。
ヴァレンは、そのままの姿勢で真摯に謝罪した。誇り高き騎士である彼にとって、大変な決意を伴ったものであることは理解できた。
ただ私は、頷くしかなかった。祭壇に供えたままの教典が気になりつつも、彼の言葉の重みは理解していた。私は、それが自分の罪であることも自覚していたので、ヴァレンにそのように伝えた。彼はそこで、ようやく頭を上げてくれた。それでも、彼が赦しを求めているように見えたので、しっかりと頷いてみせた。ところが、彼にはまだ、神の目前で告白すべきことがあるようだった。しっかりと聞いてやりたかったが、教典のことだけが気掛かりで申し訳なかった。
――ヴァレンはあの教典を開いたのだろうか?そこに記された名前の、その秘密に気付いただろうか?――
私は一人、懊悩していた。私の戸惑いを知らぬはずのヴァレンは、懺悔を始めるや否や、すぐに言葉を失ったように押し黙ってしまった。
「王弟殿下。。。?」
ヴァレンのその言葉は、私の全く予期せぬものであった。何故彼が今、それを発するのか分からなかった。続く言葉に、私の困惑はいよいよ深くなった。
アレックス、と聞きたくない声が、いや、昔は大嫌いだった声が頭の中で木霊する。
"アレキサンダー殿下"。一体そう呼ばれたのは、いつ以来であろうかと考えていると、跪いたままのヴァレンに、何故、市井にあるのかを問われた。彼からすれば当然の疑問だったのだろう。事実だけを答えた。
日頃から嘘はつかないようにしていた。少しでも神に振り向いてもらえるよう、無意識にそうしていたのかもしれない。こんな時ではあったが、自分のそうした性質に気付き、大いに恥じた。
とにかく今、自分がいるのは神の庭である。神官として、嘘だけはつくまい。そう決意を新たにした。
と、再びヴァレンが"アレキサンダー殿下"と言うので、それだけは我慢ならなかった。その名でだけは、呼ばれたくなかった。
しかし、ヴァレンは何かに思い至ったようだった。彼は確認のような質問をぶつけてきた。
その問いには、答えることができなかった。半分ぐらいは正解なのかもしれない。
それでヴァレンは得心したようだった。そして、振り向いた彼は、あの教典を手にしていた。
「。。。あの孤児の娘はルフナという名でした。私はここで弔ってきました」
ヴァレンの問いに、私は振り絞るようにそう答えた。このようにしか言えないのが悔しかった。
次にヴァレンは、最後の確認をと言ったが、その言葉の違和感が何物なのかわからない。
正直に答えた。あの転生者の美しい赤い髪を見た時、間違いなく、自分はあの愛しい少女を思い出した。
ヴァレンの目は、見る間に悲痛に歪んだ。そしてすぐに、彼は憤怒を弾けさせた。
「あなたは、亡くなった少女の代わりを、転生者に求めているのではありませんか!?」
そのヴァレンの詰問は、己を貫くようだった。誓って、そうではないのだ。余人から見れば、確かにそう思われたかもしれない。しかし、あの転生者に出会うまで、私はあの少女の幸せだけを祈っていたのだ。
本当は二度と会えないかもしれない、死んでしまったのかもしれない少女。かつてルフナと呼ばれていたであろう、カレンの幸せを。