ルフナ 不調 5/32 ヴァレンの手を引いて~
宿屋のおじさんに事情を話すと、快く二人部屋に案内された。元々泊まるはずだった一人部屋には、まだ荷物も運び込んでいなかったし、なにより、わたし達の到着が早かったのが幸いした。今は日没を迎えたばかりで、まだお客さんの数は少ない。村にひとつしかない宿屋さんが賑わいを見せるのは、これからというところだった。
「ほら。いいから!胸当ても外すよ!」
「こ、こら!」
ヴァレンの外套と盾を強引に引っ剥がすと、そのまま胸当ても外した。ヴァレンは言葉と両腕で抵抗をみせるものの、そのどちらも弱々しいものだった。わたしは思い切って上着まで取り払ってから、ヴァレンをベッドに押しやった。
「はい!いいから寝てて?絶対に、その方がいいから!」
わたしがきっぱりと言い切ると、もはや抵抗することなく、ヴァレンは布団の中に入り込んだ。
「フルン達の手入れが終わったら戻ってくるから!お布団から出ちゃ駄目だよ?わかった?」
わたしが早口で言うと、その半ば以上が吐息のような、か細い返事が聞こえた。内容は分からない。わたしはそれ以上の確認はせずに部屋を出た。そうしてからすぐに、せめて頭だけでも冷やさなければと思い直して井戸へと走った。
水桶と布巾を手に部屋へと帰ってきたときには、ヴァレンは荒い寝息を燃やしていた。額の汗を拭き取っても、ヴァレンは起きることもない。濡れ布巾をおでこに乗せると、じゅっと音がしそうなぐらいだった。
「ごめんね。待っててね」
わたしは今度こそ、厩舎に向かった。フルン達の手入れを欠かすことは許されない。特に蹄の手入れを怠れば、馬は歩けなくなるどころか、その命にも関わってくると聞かされていた。
わたしが厩舎へ戻ってくると、知らない馬達がたくさん増えていた。フルンとケルンは、わたしの出現を敏感に察知していた。
「お待たせ!途中で行っちゃってごめんね」
ケルンの蹄を確認すると、しっかりと掃除された後だと分かる。ヤスリで少しだけ形を整えると、全身にブラシをかけて毛並みを整えた。
お利口に待っていたフルンの頬を撫でると、一心に手を動かした。さっき水洗いをしておいたおかげか、フルンもそれほど汗をかいていなかった。ここで、フルン達まで病気にさせるわけにはいかない。フルンに話しかける言葉は、いつも以上に体調を気にする言葉ばかりになった。
おじさんに二人分のスープを頂いて、ヴァレンの元へと戻ると、部屋の中は真っ暗になっていた。わたしは廊下から差す薄光を頼りに、スープの乗ったお盆を机に置く。燭台に大きめの蝋燭を立てると、廊下の行灯から火を移す。蝋燭の灯りでは、いまいちヴァレンの顔色ははっきりとしない。それでもその苦しそうな寝顔から、おおよその状態は把握できた。
燭台を壁に固定すると、ずれ落ちた濡れ布巾を左手で拾い上げて、ヴァレンの額に右手を当てる。当然ながら、ヴァレンの身体は高熱を帯びている。布巾を再びヴァレンのおでこに乗せると、願いを込めて頭を撫でた。
ヴァレンは恐らく、この数日間、碌に寝ていなかったのだ。だから風邪をひいたに違いなかった。ただの風邪だ。いや、そうでないと困る。お医者さんを呼ぶべきだろうか。思えばわたしは、この世界の病気について何も知らない。何か厄介な病気だったりしないだろうか。
「。。。ルフナか?」
ふいに名前を呼ばれて、はっとして顔を上げた。いつの間にか俯いていたことを、わたしは声をかけられてから知った。
「そうだよ。大丈夫?」
耳に響かないように、声は小さく、ゆっくりと抑える。ヴァレンは薄目を開けて、黒目をゆらゆらさせていた。繰り返される熱い吐息にまぎれて、すまん、と掠れる声が耳に届く。
「そんなこといいから。お水か、お汁だけでも飲もう?すごい汗だよ」
身体を起こすのを手伝うと、背中まで汗でびっしょりなことが分かった。ベッドの脇に置いてあったヴァレンの鞄から、肌着を探り当てる。それは一旦、机の上に置いて、お盆と椅子を手にしてヴァレンの隣へ陣取った。
「はい。ぬるくなってるから、丁度良いよ」
スープからお汁だけをすくうと、ヴァレンの口元にスプーンを運んだ。ヴァレンは、ぼんやりとした顔でそれを口にする。何度か繰り返すと、ヴァレンは小さく手を上げて拒否を示した。スープは諦めて、ヴァレンに水の入ったコップを握らせた。
「ごめんね。もうちょっと座っててね」
ヴァレンがお水を飲んでる間に、敷き布団の背中が当たる辺りに大きめの布を敷く。空のコップはひとまず置いて、掛け声と共にヴァレンの上半身に張り付いた肌着を脱がせた。すぐに汗を拭いて、新しい肌着を着せると、ヴァレンに横になるよう促した。
「ありがとう」
少しばかりはっきりした声で呟くと、ヴァレンは再び目を閉じた。さっきのお礼の言葉が胸に痛くて、わたしは何度もヴァレンの髪を撫でる。村にたどり着くまでの自分の行動を思い出して、恥じた。
最後の休憩を終えてから、ヴァレンとの距離はどんどん遠くなっていった。わたしはそれを良い徴候だと喜ばしく受け取っていたのだ。あの時、既にヴァレンは馬に揺られるのも苦しかったはずだった。そうとも知らず、わたしは先へ先へとフルンを歩ませた。
試験云々じゃない。旅の相棒として失格だ。
「ごめんね」
わたしの謝罪には、寝息しか返ってこない。
しかし、わたしは全身に力を入れて、勇気を奮い立たせる。今は悔やんでも仕方がない。わたしがやるべきは、泣いて詫びることなんかじゃない。
やるべきことを整理してから、布巾をもう一度、冷たく湿らせてヴァレンのおでこに乗せる。そして、洗濯物と水桶を抱えて部屋を出た。部屋の外からヴァレンに頭を下げると、そっと扉を閉じた。