ルフナ きます 5/32 踏みとどまって~
停滞する時間の中で、わたしの右手の中から、ハゼットの右手が滑り出る。まだやるべきことがあると、わたしが行動を決心した瞬間のことだった。
ハゼットは全てお見通しとばかりに、くいっとアゴをしゃくる。そうしてハゼットが2歩下がると、わたしの前にはアレンさんだけが残された。アレンさんはぎこちない笑顔を浮かべたまま、口をぴたりと閉じていた。わたしは最後の最後でようやく確信を得た。
「アレンさん、これを」
わたしは、内ポケットからカレンさんの教典を取り出した。この教典の居場所は、やっぱりここではなかった。みるみるうちに相貌は崩れて、アレンさんは溶けるようなため息を漏らした。
「ありがとう。。。いや、本当にありがとう」
アレンさんは教典に伸ばしかけた手をすっと引いて、小さく頭を下げ続けた。
「その教典を炎から守って頂いて、本当に感謝しています」
そのままの姿勢でお礼を重ねられると、恐縮ではあった。けれども照れ臭さよりも、あの日の自分を誇らしく思う気持ちが勝っていた。
「あの時は、直感で動いただけですから」
それを最後にもう一度だけ抱き締めると、あるべき場所へと差し出した。アレンさんは、ようやくそこで顔を上げた。
「もう燃やすなんて言わないで下さいね?」
「言いませんとも。終生まで共にする覚悟です」
教典がアレンさんの手に帰ると、懐が軽く、虚ろになったような寂しさを感じる。長らくそこにあったおかげで、それは感覚的にも身体の一部になっていた。
「代わりにと言ってはなんですが」
アレンさんが右手を懐に差し入れると、その手にあった教典は金色に光る何かに変じた。
「これを持って行きなさい。こうしていつも持っていた物ですが、あなたに差し上げます」
アレンさんはわたしの手を取って、つるつるしたそれを握らせた。
「あ、これって懐中時計ですか?」
わたしの手の平の中にあっては、小さなはずのそれは、少しばかり大きく見える。ちょんと突き出た留め具を押し込むと、美しい盤面が現れた。
「そうです。私の父が。。。好んで集めていたものだそうです」
アレンさんは、とても痛そうに顔をしかめた。やっぱりこの時計も大事な品物なんじゃないかと、蓋を閉じて、両手をさ迷わせた。
「貴重なものなんですよね?それに、これも大切な形見なのでは?」
わたしの問いに、アレンさんは大きく首を振って、清々しい笑い声を立てる。
「ははは。その通りですが、他にも何点かあるんですよ。時計はひとつあれば、十分ですからね」
アレンさんはもう一度、しっかりとわたしに時計を握らせた。
「荷物になるようなら、売ってしまいなさい」
いたずらっぽく笑いながら、アレンさんはとんでもないことを宣った。
「いえ!大切に持っています!」
わたしは、懐中時計をさっと内ポケットにしまい込んだ。時計は心臓と一緒になって、静かに鼓動を刻み始める。わたしが服の上から手を当てると、アレンさんは満足そうに頷いて一歩後ろに下がった。
「この時計も一緒に、エレスに帰ってきますからね」
わたしも一歩下がってフルンに並ぶと、しっかりとお辞儀をした。
「それじゃあ、いってきます!」
「お気をつけて!良い旅を」「身体に気をつけるんだぞー!」
ヴァレンに視線を向けてから、決心が鈍らないようにと勢いよくフルンに飛び乗った。わたしが手綱を手に取ると、フルンは小さく足踏みを始める。二人にとびっきりの笑顔を向けてから右手を引く。景色はぐるんと回って、手を振る二人は流されていった。
そのまま前を向いて進もうと思った。けれどもフルンが歩き出すと、サドルバッグの中で瓶同士が当たる高い音がする。わたしは目一杯、振り返って左手を振った。
「教会に置いてきちゃった腸詰めは、皆で美味しく食べてあげて下さいねー!」
後ろを向いても、二人の姿はよく見えない。だけど、笑っているのは確かだった。アレンさんとハゼットの輪郭が生け垣に隠される前に、今度こそ、わたしは自分の意志で前を向いた。瞬きを繰り返すと、ぐにゃぐにゃに曲がった通りは真っ直ぐに伸びた。
少し前を行くケルンの背中には、ヴァレンがいる。ヴァレンは顔をすっと前に向けて、右手でお腹の辺りをごそごそしだした。
「ほれ」
ケルンが隣に並んだと思うと、ヴァレンは重たい何かを投げて寄越した。
「自分の金ぐらい、自分で管理しろ」
それは、ハゼットから渡されたばかりの討伐報酬が入った袋だった。後で自分から言おうと思っていたのに、先を越されてしまった。
「お金を投げちゃ駄目だってば!。。。んん??」
そのモノの太り具合には違和感があった。というよりも、旅の間に見たままの太り具合だった。
「あ!ハゼットの分も入ったままだよ、これ!」
おろおろと左隣に目を向けると、ヴァレンは平然と手綱を握っている。
「ふん。餞別だろう。さっきは気付いてなかったのか?」
「わたしからは見えにくかったし。ハゼットもそんなこと、言ってなかったじゃない?」
これ以上、借金をしないはずだったのに、1日にして決意を灰にしてしまったみたいで、少々情けなくなった。かと言って、引き返すのも違う気がする。実際のところ、大変ありがたいこと、この上なかった。
「それで当面、路銀の心配はなくなったんだ。有り難くもらっておけ」
ヴァレンはわたしの葛藤など素知らぬ顔で、いともあっさりと言ってのけた。
「まぁ、そうなんだけどね。ヴァレンは大丈夫なの??えっとその。。。ケルンは高かったでしょ?」
おまえが言うなと怒られるのを覚悟の上で尋ねた。例え怒られるとしても、ヴァレンのお財布事情は今後の旅に関わることだから知っておきたかった。
「あぁ。昨日は色々と言ったが、実は全く問題ない」
これまた拍子抜けするほどあっさりと、ヴァレンは暴露した。わたしへの気遣いかとも思ったけれど、それにしては声に怒りのかけらさえも感じられない。わたしが不思議に思っていると、ヴァレンはニヤリと横顔を向けた。
「金貨を山ほど頂いたからな」
金貨といえば、銀貨よりも小さく作られているのに、1枚で10万リンの価値があると聞いていた。
「ええ!?それって、お母さんから??」
わたしが、ろくに考えもせずに呟くと、やんちゃな笑顔は姿を消した。
「愚か者。。。そんなわけがあるか!退職金のようなものだ」
「退職金?」
追放するのに退職金を渡すとは、王様は何をしたいのか、何をお考えなのか。わたしは全く訳が分からなくなった。
「ここではそれ以上言えんな」
秘密はもう、うんざりだった。わたしは普段とは違う、高い視点から見る景色に憤懣を逃がそうとした。ところが、そこには緑の暖簾がたくさん並んでいる。もはや、ため息さえ出ない。
「秘密を知るお前なら、なんとなく察しは付いてるんじゃないのか?」
「うーん。。。」
察するも何も疑問は増えていくばかりで、わたしは早く首都から脱出したくて仕方がなかった。わたしの顔に何を読み取ったのか、ヴァレンはとても大きなため息を披露した。
「おまえは、どうして俺の前では阿呆になってしまうんだ。。。シュマイツ様など、おまえを聡明だと評していたんだがな?」
確かに、あの時のわたしはスゴかった。二度と、あんな振舞いはできまいと思うほどに。次にできるとしたら、それはわたしが大人になった時だろう。
「まさか阿呆の振りをして、俺をからかっているんじゃないだろうな?」
「そんなことないよ!これが普通なの。無理して大人びてみせたって、変だって言うでしょ?」
ヴァレンの前で、偽りの自分を見せるのはもう懲り懲りだった。そんなことをすれば、ヴァレンと出会った頃の自らの過ちを思い出して、何とも言えない気恥ずかしさに頭が爆発しそうになるに決まっていた。
「。。。まぁいい。この数日で、はっきりすることだからな」
「そうそう。ヴァレンがちょっと見ない間にさ、わたしも少しは成長しちゃったんだから」
わたしはフルンの上で、むんと胸を張ってみせた。すると、フルンはすいすいとケルンの前方へと進み出た。意図した動きではなかったけれど、今はそれを悟られないようにしたかった。
「試験は始まってるんでしょ?ちゃんとしっかり、わたしを見ててね?」
振り向いてそれだけ言うと、わたしは手綱をしっかり握って、フルンを真っ直ぐ前に歩ませた。