ヴァレンティオン 亀裂 5/9 5:00~
昨晩から私には、どうにも引っ掛かることがあった。 朝、目覚めても、その奇妙な感覚は消えない。アレン司祭を見てからだった。彼が十年以上前からエレスにいることは、ロレアより聞いて承知している。私が過去にエレスへ行ったのは、見習い時代に行軍演習で行った一度きりである。それも都市内部には入っていない。つまり、彼に会うのは初めてのはずたった。
――彼に似た人物を知っているということか――
首都の教会には足繁く通うという程ではないが、月に二度は訪れていた。彼の兄弟が首都の教会にいるということは十分考えられた。ここまで考えて"エレスの教会"という言葉にも何処か引っ掛かりを覚えた。しかし、その先が思い出せない、繋がらない。もやもやしていると、アレンという名前にも何かあったような気がしてくるのでほとほと嫌になった。
「何が何やらさっぱりだ!」
思わず私は、口にしていた。以前は考えなどすぐにまとまり、自らが何をすべきかの判断に、迷うことなど無かった。王命と共に絶望を与えられてから、この自分の頭を叩き割りたいと思ったのは、いったい何度目であろうか。もしや、その絶望により、自分は疑心暗鬼に陥ってしまっているのではあるまいかと恐ろしくなった。
不安定な気持ちを落ち着かせるように、宿で早めの朝食をとってから教会へ急いだ。雨はまだ降っていたが、顔に当たる雨が自分の頭を冷やすようで、むしろ心地良かった。昨日は逃げ出すように出ていった手前、今日こそはまともに話す必要があった。転生者であるルフナには、なんの咎もないのだ。
教会の前に着くと、礼拝堂を覗いた。雨だが明かりはなくとも、礼拝堂はそれほど暗くなかった。中に誰も居ないのに、ほっとして祭壇の前で跪き、祈りを捧げようとした。しかし、祭壇に教典が二冊もあるのが目に止まったので、そのひとつを手に取った。どちらも同じ、簡素な装丁であるようだった。手に取ったものをめくっていくと、最後にルフナの名が記されていた。
転生者は教典にさえも名前を記すものかと、少々可笑しく思えた。それはまるで、子供の悪戯のようで可愛らしくもあった。ただ、その文字が妙に古びたように、掠れて見えるので疑問に思ったが、すぐに元の位置に戻した。
その後、祈りを捧げるような格好をしていたが、ただ心を平静にするべくそうしていただけだった。
気付けば、随分長くそうしていたようだ。頭の中の霧がはれ、久しぶりに元の自分に戻れたようだった。深く息を吸って感覚を研ぎ澄ませると、礼拝堂の中に人の気配を感じた。姿勢は変えずに、私はゆっくりと目を開けた。
「勝手に入ってすまない。少し一人で、こうしたかったのだ」
「ぃ、いえいえ。ここはもちろん、出入り自由ですので。お祈りの邪魔をしてしまい、申し訳ありません」
私が振り返りもせずに、急に話し出したせいか、アレン司祭の声には確かな動揺を感じた。私は立ち上がると、ゆっくりと振り向き、地に落ちよとばかりに頭を下げた。
「昨日は、大変な失礼をした。実を言うと、この任務に乗り気でなかったのだ。騎士でありながら命に背き、感情に走ったこと。ここに謝罪する」
謝罪の言葉がするすると出てきたことに、自分自身で驚いた。我が身から染み出るように、それは自然と口から流れ落ちたのだ。私の正直な言葉に、アレン司祭は応えてくれるだろうかと、少しばかり不安を覚える。
「いえいえ、謝ることはありません。首都に、護衛を頂けないかと文を出したのは私です。秘密にすることもできたのです。そうしなかったのは、過保護であった私の罪です。ここだけの話、ロレアにも随分叱られました」
彼もまた、偽りを述べなかったように思う。その言葉に誠実さを感じとった私は、頭をあげて、彼と初めて目を合わせた。
アレン司祭は笑みを消し、神妙な面持ちで頷いた。私は促されるように話し始めた。
「私は、功績をあげることに夢中になっていた。国王陛下は。。。」
だが、自らの口で国王陛下という言葉を発した途端、いくつかの疑問が解け、その事実に驚いた。アレン司祭の緑色の瞳は、国王陛下のそれと、同じものであった。それでも、その顔立ちは、少しも陛下に似ているとは思わなかった。しかし今、私の懺悔を受けとめ、真摯に受け入れてくれたその顔は、ある人物の葬儀で掲げられた肖像画にそっくりだった。
「王弟殿下。。。?」
雨は静かになり、生温い風だけが礼拝堂に吹き込んできた。
彼は思わず、目を伏せたようだった。だがその反応から、王弟殿下と無関係でないことは明白だった。
さらに私はある噂を思い出していた。王弟殿下の、いや、その嫡男、アレキサンダー殿下の噂だ。
「アレン。。。いや、まさか。。。」
私は思わず、その場で跪いた。
「アレキサンダー殿下、生きておいででしたか」
できる限り、静かな声で言った。殿下は逡巡しているのか、返事はない。
「どうして市井になど下られたのです?」
率直な疑問だったが、その答えは、なんとはなしに分かっていた。
「なに、よくある話です。少年が追いかけるのは、いつだって愛しい少女ですよ。彼女は首都の孤児院育ちでした。王族と孤児、物語りなら結ばれるのでしょうね」
殿下は観念したのか、そう答えた。しかしアレン司祭は未婚のはずたった。
「ですが、アレキサンダー殿下は」
「すみません、とりあえずその呼び方だけは止めて下さい。質問には、答えられるだけ答えますので」
アレン司祭は割り込んでそう言い、礼拝堂の入り口をちらっと見た。その短い間にも、私はさらに、いくつもの解答に達していた。
「そうでしたか。その少女は、既に亡くなっているのですね。それであなたは教会で、一生をかけて弔っていらっしゃるのですね?」
祭壇の方を向いて、私は淡々と言った。アレン司祭の返事はないが、それが答えのように思えた。
「ありがとうございます。疑問が解けました」
私はそう言うと、古びた教典を手に取り、振り向いた。それを見たアレン司祭は、肩を落とした。
「その亡くなった少女は、ルフナという名ですね?」
私は毅然と尋ねた。
「。。。あの孤児の娘は、ルフナという名でした。私はここで弔ってきました」
その答えに、私は最後の確認をしなければならなかった。残酷な確認だった。その答え如何によっては、今後の私の役割が、大きく変わるはずたった。しかし、その答えにある、アレン司祭の葛藤と矛盾だけが気掛かりだった。
「これが最後の確認です。転生者が、自らルフナと名乗ったのですね?そうだと言って下さい」
しかし、私の問いに、アレン司祭は小さく首を振った。
「いいえ、彼女は名を忘れているようでした。私が、彼女の赤い髪を見て、そう名付けたのです」
私は、できればアレン司祭には否定して欲しかった。だがそれは叶わなかった。自分の顔から、表情が消えるのを感じた。
「それは、不健全に過ぎるのではないですか?赤髪の、亡くなった少女と重ねてしまうのは仕方ないのかもしれません。ですが!転生者は、異世界の者ですよ。あなたは、亡くなった少女の変わりを、転生者に求めているのではありませんか!?」
私は声に力がこもるのを抑えられず、一気にまくし立てた。私の言った企てが事実なら、私は今からでもこの男を、国王陛下の元へと引きずり出さねばならなかった。
「それは違います!そんなことは私には不可能なのです!名付けたあの時は、確かに混同してしまったかもしれない。。。ですが!あの転生者が、孤児のルフナと別人であることは理解しています!」
「信じられるものか!!」
私は思わず声を張り上げた。いつのまにか灯されていた、蝋燭の炎が震える。
「私は王命を受けた身として、転生者が何者かに束縛されるのを許す訳にはいかない!あなたの言葉を、その全てを信じることはできない!」
アレン司祭ははただひたすら私の目を、懇願するように見つめている。その瞳の、真摯な訴えが私を迷わせた。
「私はアルスダムの名にかけて、王命を必ず全うする!あなたは」
その時、礼拝堂の入り口にルフナとロレアが現れたことに気がついた。アレン司祭に対して疑惑が生まれたが、その秘密を、徒に余人に聞かせる気は、全く無かった。私は思わず目を逸らした。
「ヴァレン!これはいったいどういうことなの!?」
今度はロレアの声が響く。ほんの一瞬だ。不覚にも、喉が締まるようになり、私の言葉は、腹の底深くに沈んでしまった。その間に、アレン司祭が勢いよく振り向いて声を上げる。
「待って下さい!彼は全く悪くない、完全に私が悪いのです。彼は怒って然るべきなのですから」
アレン司祭の声にはやはり、何らかの葛藤を感じた。
「そうだ、これについて、あなた達が立ち入ることは許されない」
今はまだ、私に向かって詰問される事態は避けたかった。ルフナ達に、事の真実を知らせるならば、せめてアレン司祭の口から発せられるのを待つべきだと考えた。最低限の注意をルフナに告げる。
私もまた葛藤していたが、アレン司祭をどこか信じたい気持ちが生まれていたのを、無視できなかった。
教会から出ると風は無かったが、再び雨が強まる気配がした。雨に打たれながら歩く私の胸中から、王命に対する怒りの炎は、跡形もなく消えさっていた。代わりにあるのは、アレン司祭に対する深い疑念であった。
――やはり得心がいかない。何故あの男は文を出したのだ?転生者を好き勝手にしたければ、そこがそもそも、矛盾するではないか――
あの男がどこまでも秘密にしたければ、誰にも、まして、国王陛下に知らせる文など、出さなければ良かったはずたった。事が露呈する可能性を、極限にまで高める文を出したということは、それ即ち、あの男の罪への反証となり、潔白とも考えられる。しかし、それがきっかけで、やはり彼は窮地に立たされている。
――いや、あの教典に記された名前。その露見だけが、あの男の想定の埒外だったのか!?――
そもそも私がこの疑念を抱いたのは、ルフナという名前からだった。あの男は、亡くなった少女を孤児院育ちだとも語っていた。そして、ここまで考えて、私は新たにもうひとつ気付いた。
――いや、まて。あの男は孤児の娘が亡くなったと、そう言っただろうか?認めただろうか?――
思い返してみると、私がそうした質問を投げ掛けた時、アレン司祭が少し言い淀んでいた気がした。
――アレン司祭は、彼女が死んだとは言わなかったはずだ――
孤児の少女。弔いという言葉で納得していたが、弔うのは何も死者の魂とは限らない。叶わなかった自らの恋もまた、弔うものではあるまいか。
雲間から光が差したような気がしていた。
――赤髪の、孤児であった娘は、生きている?――
この考えは正しいのではないかと、私は思いたかった。一人で大騒ぎをして、場を荒らす道化。そうだ。愚か者はやはり、私だけであれば良いのだ。
目の前に現れた愛しい姿の少女に、死んでしまった愛しい娘の名を与え、その娘との恋をもう一度、と願う狂った男。
叶わなかった恋を弔い、遠く離れた地にいる想い人と、その人を思わせる転生者の幸せをただ願う男。
――あの男はそのどちらなのだ?――
私は立ち止まり、空を仰いだ。