ルフナ 回顧 5/29 二の足を踏んでいる時~
「馬車から外を見てたらね、わたしが知らない世界が広がってたんだよ。エレスの周りは森が広がってるけど、北にあんな高原があるなんて知らなかったの。その西側に、ずーっと続いてる山脈があるでしょ?ヴァレンは見た?」
「オース山脈だな。あれだけ続いていれば、嫌でも目につく」
泳ぐ山には、立派な名前が付けられていた。これも古語だとすれば、半分ぐらいはその意味が分かりそうだ。
でも、わたしが知りたいのはそういった知識じゃない。わたしは、ヴァレンがそれを見て、どう感じたのかを知りたかった。
「わたしが見たときはね、山のてっぺん辺りを、ずーっと雲が覆ってたの。1日中だよ?見る度に形が変わって見えるし、わたしは、長くて大きい魚みたいに見えたんだけど、ヴァレンは、どう思ったの?」
「どうと言われても、山は山だろう?あの辺りは、視界にほとんど変化がないからな。馬は本当に歩いているのかと、疑ってしまうほどだったぞ」
わたしが見た時のような不思議な雲に覆われていなければ、案外、寂しい景色なのかもしれない。あの時の刻一刻と変わる、あたかも生きているかのような山々を、ヴァレンと一緒に見れなかったことが悔しく感じられた。
「え~?じゃあ高原の周りで羊の群れは見た?わたし達が通った時は、街道の真横で草を食んでたの。地面が半分隠れちゃうぐらいに、たくさんいたんだよ」
「ああ、羊なら見たぞ。ただ、俺があそこを通った時は、ずいぶん遠くの丘にいたんだ。初めは何が群れているのか、全く分からなかったぐらいだ」
ヴァレンは再び無感動に、その時に見た景色を語ってくれた。しかし、この景色もまた、わたしが見た時の方が面白みがあるように思った。今のわたしには、その違いがもどかしかった。
「う~ん。。。わたしが見た時はね、目の前にいる羊と、空に浮かんでた雲の大きさがね、ほとんど同じぐらいに見えたんだよ?それで、目が変になるみたいな感じがして。それでね、その羊達が作る斑模様から、どうしても目を離せなくて。。。それで気付いたら、変なことを言っちゃったんだよねぇ」
いくらわたしが食いしん坊でも、あの言葉はあんまりだった。せめて、チーズを作るためだとか、そういう言葉を選べば良かったと反省している。
「どうせ、羊が美味そうだとか、おまえはそんなことを言ったんじゃないのか?」
ほとんど正解だったけど、それを認めるわけにはいかない。そんな印象は、今だけは忘れていてほしかった。
「さ、さあね?じゃあ、首都の手前に広がってた、あの小麦畑は!?」
わたしは祈りを込めて、その言葉を口にした。これが駄目なら、わたしはもう、全てを諦めて、エレスへと泣き帰るしかないような気がした。
「あぁ、あれは美しい景色だったな」
だがしかし、今度こそはヴァレンも、その表情を明るくさせた。
「俺がエレスに向かった時は、まだ淡い緑色をしていたんだ。それが一月もしないうちに、あれほど色を変えるとは、正直なところ知らなかった。まさにあれが、小麦色というやつだな。黄金色と評されるのもわかるぐらいに、輝いているようだったぞ」
「そう!そうなんだよ!」
それは、わたしが見た風景と全く同じだと、十分に信じることができた。
「わたしも、あの色が小麦色なんだって思ったの!ヴァレンも同じことを考えてたんだねぇ!」
「はは。昔から小麦畑には近寄るなと、厳しく言われていてな。恥ずかしながら、俺も収穫前の小麦を見るのは初めてだったんだ」
時間は違っても、ふたりで同じものを見て、同じことを感じられた。その事実が、わたしの勇気に火を灯す。わたしの大事な気持ちをヴァレンに伝えるには、その種火はとても大事なものだった。
それが炎になるように、わたしは大きく息を吸った。
「旅の間ね、色んな素敵なものを見つける度にね、ヴァレンに話したいなぁって思ったの。星空だって、魚がいっぱい釣れた時だって。火打石もね、上手くなったのを見せたいなって。鶏を捌いた時だって、本当はヴァレンに応援してほしかった」
わたしが顔から火を吹きながら言葉を重ねると、反対に、ヴァレンはきゅっと口を閉じた。けれどもその目は、わたしをしっかりと見つめている。わたしは、その瞳に宿る感情を探りながら、必死に言葉を探した。
「わ、わたしはね!ヴァレンと一緒に綺麗な景色を見たり、美味しいものを食べたり。。。同じことを感じられなくてもいいから、一緒に色んなことを、もっともっとしたいの。護衛が終わりでも、わたしは!離れたく、ないんだよ」
気持ちが昂ると、椅子に座ってなんていられなかった。黙ったまま、じっとしているヴァレンをよそに、わたしは立ち上がってヴァレンを見下ろした。
好きだという非常に簡潔な言葉は、発することは極めて困難だった。結局、それを言えないまま、願いを口にしてしまった。わたしの勇気が足りなかったのか、それとも、ヴァレンにかけられた嫌疑が、わたしの頭の片隅で邪魔をしていたのかもしれない。
「ヴァレンが旅に出るんだったら、わたしも、ヴァレンの旅に連れて行って!」
そんな迷いが見えなくなるように、わたしは掴みかかるみたいな勢いで、頭を下げてお願いした。
ヴァレンの足だけが、ちらっと覗いた。それが全く動かないのを見て、わたしは瞳を揺らした。
しばらく後、わたしは通りを1人で歩いていた。頭をよぎるのは、ヴァレンとの思い出ばかりだった。知らぬ間にたどり着いた大きな水路を眺めながら、ぼうっとする頭を冷やした。
しっかりと整備された水路には、両岸にベンチまで置いてあるのに、誰の姿もそこにはなかった。ところがそのベンチに座って、ふと視線を上に移すと、橋の上を一組の男女が歩いて行く。
そしてわたしは、水面に視線を落として、知らない町の、知らない川と見つめ合った。
わたしは流れる水をただ見ながら、ヴァレンを思うこの気持ちが、失恋へと変わったことを知った。