ヴァレンティオン 門出 5/5 10:00~
ヴァレンティオンの母 ミネア 5/5 10:02
私は信じられない思いで息子の背中を眺めていました。昨晩遅くに帰宅した夫から、私が聞くことができたのは明るい話題でした。それは、聡明な我が子ヴァレンティオンは今日、大変名誉な任務を与えられ、首都を離れるだろうというものでした。母として涙することはあっても、悲嘆すべき人事ではなかったと記憶しております。
今、改めて思い返してみましても、夫の話しぶりに偽りの影はなく、むしろ我が子の活躍を期待している口振りでした。夫自身が謀られている可能性も、有り得ないことと切り捨ては致しませんが、やはり考え難いことでしょう。
しかし今、眼前にあるあの子の後ろ姿は、到底、アルスダム姓の名誉を背負っている者のそれではありません。そうこう考える内に、あの子の後ろ姿は小さく、関所の雑踏にかき消されてしまいました。私は、愛するヴァレンの道行きを、ただその幸福を、神に祈るしかありませんでした。
―――――――
全てを呪うような心持ちで、私は首都の関所を見上げていた。数時間前、玉座の前で跪いたその時までは、意気揚々としていた。しかし、国王陛下自らが命ずるその言葉は、雷鳴の如く轟き、私の心を引き裂いた。
幼い頃より国に、陛下に仕えるべくして努力してきたのだ。私にはその自負と、確かな実績があるはずだった。念願の近衛騎士として、陛下に誓いを立てた時など、心臓を差し出しても構わないと思っていた。
それを一体、自分の何が陛下の不興を買ったのだろうか。
自問すれども答えは出ない。父上に頂いた指輪を置いていくべきか、最後まで迷った。結局、私は何ら答えを出せぬまま、さして大きくない鞄二つきりの荷造りを済ませると、飛び出すように家を出た。
関所の雑踏の中、私の名を呼ぶ声に気付いた。まさかと思い、後ろを振り返ると、そこには確かに母上の姿があった。
「ヴァレンティオン、どうしたのです?父上に旅立ちの挨拶もなく行ってしまうのですか?」
「母上。。。私は国王陛下の不興を買ったようです。見送りも、せぬ方がよろしいかと」
即座に背中を向けると、淡々と語るように心掛けた。今の私の顔は、とてもではないが母上に見せられるものではなかった。
「エレスはそう遠くはないですが、おいそれと帰ってくることもできません。どうか、お身体に気をつけられますよう、父上にも。。。」
消え入る声で、それだけ言うのが精一杯だった。走り出したいのをなんとか堪えて、心を押さえつけるように足を踏み出した。
関所を抜けると、兵士が二頭の馬を従えているの確認できた。と、その馬の脇にいるのが女性であると気付いて、私は思わず舌打ちをした。
兵士でもない女が馬になど乗って、エレスまでの距離を駆けられるとは思えなかった。どうせすぐにでも、馬車に乗りたいと言いだすに決まっている。
もうたくさんだ、と慟哭したいのを必死で堪えた。いっそのこと馬の体力のもつ限り、一人で駆けて行きたい程だったのだ。私が兵士に歩み寄り、行って良い、と伝えると、彼は敬礼をして去っていった。
「ロレアと申します。私はルフナ嬢の友人となるべく遣わされました。近衛騎士であるヴァレンティオン様は、護衛を命ぜられたと伺っております。共に使命ある身、私も精一杯務めさせて頂きますので、どうぞよろしくお願いいたします」
「よろしく頼む。なにぶん急ぐ旅だ。もう昼も近い。まずは進もう」
頭を下げるロレアに、それだけ言うのが精一杯だった。すぐに馬に跨がり、歩ませることで、それからしばらく会話すらしなかった。
私の心には、近衛騎士、という言葉が深く突き刺さっていた。自分はもう、近衛騎士ではない。そんな惨めな言葉を言わせるつもりかと、勝手に腹を立てていた。もちろん、彼女の言葉に悪意がないことなど、分かっているつもりだった。
だが今の私は、その様な些細な言葉にさえ耐えられないのだ。私の名誉も、心も、既にこれ以上ない程に傷つき、泥にまみれていた。
馬の蹄の音と気配だけで後ろを確認していたが、日が暮れるまでひたすら馬を歩かせたというのに、ロレアの馬が遅れることは、ついに無かった。
それどころか野営を始めると、こちらが馬の手入れをしている内に、焚き火の用意どころか、鍋を火にかけて調理まで始めていたので目を見張った。彼女は干し野菜や茸をいれたスープを作っているようだった。どうやら随分と旅慣れているらしい。
出来上がったスープを、硬いパンと共に流しこむように平らげる。空腹であったはずだが、重い苦しみを腹に抱えているせいか、味の一つも感じなかった。
その後も丸二日、彼女は文句の一つも言わずに馬を歩かせた。文句を寄越さない代わりに、彼女の方から話し掛けてくることも少なくなった。途中、幾度か警ら中の街道警備隊に声をかけられた。今や、彼女の声を聞けるのは、この時ぐらいのものだ。警備隊員には、エレスに行く修道女と、その護衛だという説明をした。その言葉に嘘はない。
ロレアの噂を聞いたことがあるという隊員に出くわしもしたが、噂通りに馬を駆る修道女を見られたと、彼等は声を弾ませていた。その他は、馬を休めるための少しの休憩と、野営をこなすだけの単調な道行きだった。
そうして四日目の朝、ようやく私の頭も少しばかり冷えた。今は灰の中に残った熾のような、暗い、されども確かな怒りが燻っているだけだった。これまでそれを、八つ当たり同然にロレアにぶつけてきたことを、私は今更ながらに悔いた。と同時に、今までの配慮のかけらも無い行動を、詫びたい気持ちが顔を出した。
出発前の準備は完了している。私はこの時、初めてロレアをまじまじと眺めた。彼女は女性にしては背が高く、溌剌とした印象だった。歳は恐らく、私よりも少し上だろう。修道服を身に纏っているが、その短いもののよく目立つ金色の髪を、遠慮なく風に晒している。美しく泳ぐ金色の髪は、彼女の性格を表しているのかもしれない。そして、馬を器用に操るその姿だけは、私の姉上を思わせた。
私が遅まきながら決意し、思い切って謝罪をすると、ロレアはそれを受け入れてくれたようだった。
エレスの遠見櫓が見えて少ししたころ、風の向きが変わり、そこに湿り気を帯び始めた。彼女もそれを察したらしく、馬を速歩で駆らせた。
馬達が駆けろ、の合図を待っていたように軽やかに走り出す。跳ねる蹄の音は、どこまでも自由で、喜びに溢れていた。
しかしどうやっても、これから始まる、いつ終わるともしれない任務を思うと暗澹たる気持ちになってしまうのだ。私は、自分がほとほと嫌になった。
大門には行商人であろう者達が列をなしていた。少し先を行っていたロレアは、行儀よく、その最後尾についている。
「玉印を預かってるのは聞いてるけれど、列を飛ばすような真似は避けましょう。あれは、とても目立つのよ」
小さな声で喋るロレアに、首肯だけをして、私も列に加わった。
国家の命を受けたものは種々の玉印を預かり、その等級に応じた融通を受けられる。私もあの兵士から手渡されたが、任務の性質上、使う機会はあまり無いだろうと考えていた。出来うる限り、市井 に溶け込む必要があった。
あと5組ほどでようやく大門をくぐれるという頃になって、ぽつぽつと雨が降りだした。先程までの空を見る限り、すぐに止むことはなさそうだった。
「ついてねぇなぁ」「幌をきっちり閉じておけ」
商人たちは口々にぼやきながら、雨具を被りだした。私達も雨具を取り出し、手早く身につける。
「馬とはここでお別れだ。利口なやつらだったな」
私が首を撫でてやると、馬も別れを惜しむように鼻を擦り付けてきた。隣を見ると、ロレアも相当、馬が好きと見えて、雨に濡れる馬の首に抱きつくようにして別れを告げていた。
ロレアの迷いの無い、素直な仕草が羨ましかった。
その後、大門で教会の場所を確認し、私達が大通りに出たときには、雨は本降りになっていた。最後の森を抜ける手前、湯まで沸かして身体を清めていたというのに、これではなんの意味もなくなってしまった。
「旅の垢を落とすには丁度いいわね」
ロレアが雨音に負けじと大声を上げた。長旅の終いにこの大雨を浴びて、まだ軽口を叩けるというのには心底、恐れ入った。苦難にあって尚、いっそ清々しいと言ってのける彼女を、私は旅の始まりでは見くびっていたのだ。私はやはり、救いようのない愚か者であった。
「まったく、気の利くことだな!」
私は半ば、捨て鉢にそう言って返した。
夕方のまだ早い時間であったが、両脇の露店では、早くも今夜の商売を諦める者達もいた。そうした風景を見ながら歩いていると、ようやく右手に教会らしき屋根が見えた。
「身支度を整えさせたいところだが、容赦願いたい」
「いいわ。私も早く会いたいのよ」
急に私が配慮を見せたので、ロレアは驚いたようだったが、茶化されることはなかった。私は、いっそ濡れ鼠を口実に、早々に話を切り上げてしまおうか、などと考えていた。
この王命を受けて、自身の中にこれほど様々な、不真面目で、愚かな側面が隠れていたことに落胆していた。この無能な頭を叩き割れば、陛下は赦して下さるだろうか。そんな無意味な問い掛けばかりが、脳内を木霊する。
私はこの役目を、果たして全うできるのか。
空は暗さを増し、雨は止む気配もない。