ハゼット 虫 5/5 午前~
赤い髪がひらひらと舞うようで、私はそれをしばらく、いや、永遠に眺めていようと思う。この天使の美しさを、私は語らない。語る術を持たない。いくら言葉を重ねようと、言葉の隙間からするすると流れ落ち、その美しさを表現できないだろう。
ルフナは今、無骨な農夫に囲まれている。
もしも、彼等だけであったなら、私はその視界をただ美しいとしか言わない。手に、額に汗しながら、泥にまみれても勤勉に土を耕す。あの男どもを見よ。見れぬなら聞け。懸命に働く彼等は、人としての美しさに満ちている。
だが、それまでだ。残念ながら私は、彼等に愛を語りたいとは思わない。非常に残念だ。
だが今は、私の眼前に広がる光景は、そうではない。そこには一人の天使が降り立っている。
するとどうだろう。彼等は風雨に侵されながらも屹立する、古代遺跡の彫像のようではないか。泥にまみれても美麗だ。それは芸術だろう。
だが残念なことに、その美麗な彼等にも、私は愛を囁こうとは思わない。それは何故か。芸術は愛でるものであるからだ。
私は彫像ではなく、天使に愛を捧げたかった。
天使は今、鍬を振るっている。彼女は男どもに混じって、畑を耕していた。もちろん私も同じだ。犂耕のための牛馬もいるが、彼女は自ら進んで、自分の手で耕したいと言い出したのだ。ルフナの作業する姿を眺めていても、彼女のステータスに深刻な問題があるとは思えない。だからこそ私個人としては、こういった隠れた監視業務は非常に心苦しくなりつつあった。役得だ、などとは微塵も思っていない。
「ハゼットさん、少しいいですかー?」
と、手を振り振り彼女に呼ばれて、私の足は春風のように軽やかに動いた。そうして駆け寄った私に、彼女は手を差し出してみせたのだ。
どきりとした私の胸中を理解してもらえるだろうか。しかし、現実とは思い通りにはならないものだ。私の淡い期待をよそに、その可愛らしい手のひらの上には、なんと小さな黒い芋虫が乗っかっていた。予想もしていない事態に、膨らみきった私の胸は小さくすぼんでしまった。これを前向きに語るなら、平静になれたと言うしかない。私の想いは、今は仕舞い込んでおくのがよろしかろう。
「これって害虫ですか?」
乙女の柔らかな手の平の上に、醜い芋虫がいるというのは場違いも甚だしく思えた。
「。。。あぁ、こいつは野菜の根元を食い散らかすやつだな」
私は司祭様ほど過保護ではないものの、彼女が平気な顔で芋虫を持っていることは意外に思った。数日前の彼女であれば、芋虫など見ただけで悲鳴を上げたのではなかろうか。
「そっか。ごめんね」
ルフナは小さく呟くと、更に驚くべきことに、指先で挟むようにして、ぷちっと虫を潰してみせたのだ。それには私の方が思わず、妙な声を発してしまった。
「。。。君は存外、剛胆なんだな。女性というのは、虫なんぞ、触るのも嫌なものだと思うんだがねぇ」
「ん~?そうですね。結構平気みたいです。野菜が枯れる方が困っちゃいますから」
ルフナは照れくさそうな顔を見せた後、再び鍬を振るいだした。
その姿と表情に、私は感心していた。この数日の間、彼女はこちらの世界に戸惑いを見せているのか、どこか暗い表情をしていることが多かった。ところが、どうだ。この農園で力一杯に鍬を振るう彼女は、明るく、とても自然な空気を纏っているではないか。
司祭様は何故か、彼女を守ることに、必死なような気がしてならない。今日も私は、司祭様の言いつけ通りにルフナを見守っていたが、自らの意思で動く、今の彼女に暗さは感じない。
彼女を守るならば、酒場や花街に入り浸るような男共からだけで良いのではないか。私は彼女のためならば、人類の半分程度なら敵に回しても構わない。残りの半分とならば、是非ともお近づきになりたい。それが博愛というものだ。
などと私は、司祭様を如何にして説得しようかと、至極真面目に思案しながら仕事に励んでいた。すると遠くから、農園長が喚き立てながらこちらへ駆けてくるのが見えた。
「オオマダラハムシが出た!キュウリの区画の方だ。夜中に成体が飛び込んで来やがったようで、既に孵化してるヤツもいる!」
異変を察知したのか、ルフナは既に、私の傍らに立っていた。さっと目を合わせると、二人してそちらへ駆け出した。
「オオマダラハムシって、虫なんですか?」
ルフナは走りながら、息も切らさずに問いかけてきた。
「そうだな、成体は立派な魔獣のはずだ。しかし今、問題なのはその幼体だ。。。あそこか!」
周りの区画から駆り出された農夫達が、武器を手にしてそれぞれに振るっているのが確認できた。その手にする物のほとんどは農具だ。有事には農具も立派な武器となる。しかし、私の得物は農具ではいない。こんな時のために、私物のバスタードソードがあるのだ。私がそれを抜き放つと、それを見たルフナは唖然とした表情を浮かべた。
「ど、どうして害虫駆除に、そんな武器がいるんですか?」
「んん?害虫なのは同じだが、相手は幼体とは言え、一応は魔獣だ。デカさが違う」
そう言ったところで、視界の端に写ったモノを、私は見逃さなかった。キュウリの葉裏に隠れるようにぶらさがった、濃い緑色の物体をすかさず斬りつける。
「こいつだ!触れると飛びかかってくるから、一撃で仕留めるんだ!」
隣にいるルフナに注意したはずだが、全く返事が無い。姿さえも隣にはない。私が振り向くと、彼女は目を白黒させて、鎌を握った手を震わせていた。
「こんなに大きいなんて聞いてません!なんですかこれぇ。。。」
オオマダラハムシの幼体は、産まれた段階で体長にして1メートル近くある。半日も放っておけば作物を食い倒し、脱皮をして更に倍ほどの大きさになる。そうなってしまうと、農夫が一撃で仕留めるのは難しい。おまけに雑食だというのだから、恐ろしいことこの上無い。
「手を出せないなら下がっているんだ!この区画以外には、いないはずだ」
ルフナの様子は心配だが、今は害虫駆除で精一杯だった。彼女は早々に諦めたようで、区画の外に逃げ出した。
その後、私が幼体と卵を20ばかりやっつけたところで騒ぎは収まりを見せた。
私が区画の外に出て一息ついていると、ルフナが水筒と、濡らした手拭いを携えてやってきた。
「逃げ出してしまって、ごめんなさい。。。」
彼女はそう言って、私にそれらを手渡した。その手が小さく震えていたのは、私が粘液に塗れていたからだろうか。
その日の夕食は、教会でご馳走になることとなった。会話は自然と、昼間の騒動のことになる。
「虫だと思ったら、あんなに大きかったから。。。見なければ良かったと後悔しています」
ルフナは心底、堪えたようだった。そう言いながら、恨めしそうにこちらを見るので、私もまた、心底、参りに参った。
「そういえば、魔獣ってなんなんですか?」
ルフナが少し話の向きを変えたので、ほっとするも、魔獣について、私はそこまで詳しく知らなかった。司祭様はもちろん詳しいようで、いつものように軽く咳払いをしてから話し始めた。
「形態的な分類で言えば、人間よりも大きい獣のことですね。あとは、食用に適さないことと、人間社会や、人間そのものへの害意があること。この3つに当てはまるものの総称ですよ。ですが、他にも共通する特徴が色々ありましてねぇ、それぞれ固有の生態を持つようなのですが、個体数が少ないことや、相似体との交配が出来ないといった興味深い性質を持っています。あぁ、相似体というのは、魔獣をそっくりそのまま小さくしたような生き物のことで」
と、司祭様の長講釈が始まったので、私は夕げを楽しむこととした。