十四話 ――私があなたに、手を差し伸べて、
――音羽山・清水寺。法相宗から約六十年前に独立した北法相宗の大本山で、世界遺産にも登録されている国の宝だ。修学旅行で必ずと言っていいほど訪れる定番スポットで、一般人が「京都」と聞いてまず連想する観光名所と言えば、伏見稲荷と金閣寺とここが三つ巴の終末戦争を引き起こすだろう。それくらい有名なお寺だった。
「あ、や、やっぱり、人多いね……」
「ゴールデンウィークだしな……」
さっき国の宝と言ったが、俺たちが今いる本堂は日本の国宝に指定されている。「清水の舞台」といえば大抵この本堂のことを指している。
とはいえ本堂はただ仏像がたくさん安置されてるだけで面白いところもないので、俺たちは人の波に従って先へ進む。その間、本堂に安置されてる二十八部衆像言えるかな? 大会で俺とヒカリは盛り上がっていたのだが、傍から見たらヤベーカップルだったので割愛。ちなみに勝者は中史時。ヒカリは広目天と増長天の別称である毘楼勒叉と毘楼博叉がこんがらがって三回戦敗退。次代の当主としての底力を見せつけた形になった。やったぜ。
「あ……清水の舞台から、写真撮っておけば、よかったかな……」
「ヒカリ、写真苦手じゃなかったのか? だから言わなかったんだが」
「そ……そうだけど……」
「……けど?」
「中史くんとの、思い出、だから……形として、残しておきたかった、から……」
「…………」
列に沿って……というより、そもそも一方通行の境内を進んで行けば――本堂を抜けた先、奥の院の下に、音羽の滝。
境内にあるが手水舎ではなく、霊験あらたかな霊水が涌き出る清泉。清水寺の「清水」はこの滝の清水が由来だ。
三本の筧から流れる滝にはそれぞれご利益――左から「出世」「美容」「健康」、もしくは「学業成就」「縁結び」「健康(長寿)」――の効果があるとされ、柄杓で汲んで一口分飲んだりする。
まず滝の奥に祀られる不動明王にお参りしてから、長い長い柄杓を手にする。
「じゃ、じゃあ私は、真ん中の『美容』……」
「お前はそれ以上かわいくなっても仕方ないだろ」
「……え……!? ……か、かわ、か、か……!」
こいつはどれだけ不養生しても肌荒れひとつしないタイプの美少女だ。《美少女》というのはそういうものなのだ。
「そっちじゃなくて、『健康』の水でも飲んで、さっき産寧坂で転んで縮めた寿命の分取り戻しとけよ。延命水とも呼ばれるくらいだし、効果あるだろ」
「はふ、は、ひ……」
言いながら、俺も(内側から見て)左の「健康」の水を汲む。俺の立場でこれ以上出世するってなんだよという感じだし、美容なんて気にする年でも性別でもないし。
健康の水を一口含んだ俺は、カチコチになったヒカリの手を引いて清水寺を後にしたのだった。
☽
それから、ちょくちょく店に寄ったり細かい食事を取ったりしたのち……
俺たちは、本邸の近くまで戻ってきていた。
少しは散歩でもしようということで、帰りは途中から歩きだった。
八坂神社の辺りで降りて、花見小路には入らず四条大橋へと向かう。
その頃には、時刻は17時を回っていた。
京都市内を南北に流れる鴨川に、一日の終わりを告げる夕日が反射して、ハレーションが目を眩ませる。
西の空に浮かぶ斜陽。人々の様々な思いを溶かすマジックアワー。
このゆったりとした時間が、俺は存外好きだった。
俺とヒカリは、鴨川の岸辺に隣り合って座る。
暖かな夕日に照らされたヒカリの金髪は煌めいていて、その長髪の艶やかなのが女性的な魅力を醸していた。
そんな髪の持ち主であるヒカリは当然、母神のごとき穏やかな表情で微笑んで……
「あ、わ、わぁ……!!」
いなかった。
大きなおめめをぐるぐる回して、頭から湯気を出して、落ち着きがなかった。
うーん……
昨日の失敗のことを忘れてもらおうというので、とりあえず一日ヒカリを連れまわして、緊張をほぐそうと思っていたんだが……
「か、かもかも、かるがも、かも、鴨川……でーと……等間隔……かっぷる……!」
自身のゆるふわウェーブで顔の下半分を隠すようにするヒカリは……
緊張をほぐすどころか、今が緊張の最高潮という可能性まである。
どうしよう。
「ね、ね、中史くん……私たち、今、周りから恋人だと思われてる、かな……」
今更? 今日一日ずっとそうだったよ多分。
「…………」
とか言ったらヒカリは泣きながら鴨川に入水しかねないので、黙っておく。
「……っ、恥ずかしい……」
鴨川ではカップルが等間隔で座るのが云々というのは有名な話だ。図らずも(図ったのだが)同じ状況になっていることに、動揺を隠せないといったところだろうか。
「ね、ねぇ……中史くん」
「なんだ?」
「きょ、今日……私は、すごく、楽しかった……幸せだった……!」
賽ですか。
「……中史くんは?」
「楽しかったよ」
「……本当?」
「ああ」
「…………あの、ね。嬉しいん、だよ。嬉しい、けど……気になるから……」
ヒカリは目を伏せて言う。
「な、なんで……私なんかと、いきなり……デート、してくれたの……?」
「『なんか』とか言うなよ。お前ほどの美少女が『なんか』扱いだったら、世の中の女の大半は……」
「ち、違う、よ……」
「違わないだろ」
「そ、そうじゃなくて……普通の人の、話じゃなくて……中史くんの、話、だよ……。な、中史くん……『中史』の嫡子で、強くて、優しくて、カッコいい……みんなの、理想……」
ちょっと贔屓目で見過ぎじゃないですか。その色眼鏡極彩色じゃない?
「そんな中史くんが、なんで、私なんか、と……」
「ちゃんとした理由は確かにある。でも、ヒカリがかわいいから誘ったっていうのも本当だよ」
「……それ、は……」
ヒカリは、なにか、言いたげだった。
口を開きかけて、しかし閉じてしまう。
視線を落として、鴨川を眺める。
――それでよかったのは、かつての話だ。
今は違う。
ヒカリは成長していたから。
その成長を、俺は見落としていたから。
だから、話がこれで終わらなかったのだ。
「……嘘、だよ……中史くん」
悲しげに、か細い声が漏れていた。
「え、いや……割と本心のつもりだったぞ、今の……」
今の言葉は嘘――ヒカリにそう言われた俺は少し心外で、少しびっくりしていて、すぐに抗弁する。
「…………」
だが、ヒカリは視線を落としたまま何も言わない。
「……」
本当に、嘘のつもりなんかなかった。
ヒカリのことをかわいいと思って誘ったのは本心だし、ヒカリに嘘なんかついているつもりもなかった。第一、こんな場面で人を騙せるほど俺は『中史』に対して適当じゃないつもりだったから。
だから、本当にそれは不思議だったのだ。そしてだから、どうしていいか分からなくて、困っているのだ。
「うん……本当だよね」
そんな俺の様子を見かねたのか、ヒカリが口を開く。
「分かってくれたか?」
「中史くんは、本心だと思ってる……けど、嘘、だよ……」
「――!」
すると、ヒカリが真っ直ぐ俺を見ていた。
――目が違う、と思った。
なにか意を決したように。
中史としての、強い意志を宿す黒の瞳を俺に向けていた。
「大丈夫、だよ」
先程までのおろおろよちよちヒカリちゃんはどこへやら。
一人の……立派な中史の女性が、ここにいる。
「昨日突然言われた時は、驚いたけど……冷静になって考えれば、ああいう時の中史くんが、私をデートに誘ったってことは……それは、中史の使命のため。《月鏡》に関する事、なんだよね?」
「ああ、そうだけど」
「話っていうのも……それに関する事だよね」
「……それ以外に何かあったか?」
俺がそう言うと、ヒカリは少し眉を下げて、困ったような笑みを浮かべた。
それからゆっくりと首を横に振って、
「ううん。なんでもない。……でも、なおさら平気だよ、中史くん。中史くんは、きっと……私が情けなくて、頼りないから、その話をするべきかどうか、迷ってくれてるんだろうけど」
こういう時のヒカリは本当に強い。
俺なんかよりもよっぽど、人のことをよく見て、人の心に寄り添うことを分かっている。
「結局、今日も中史くんに、頼りきりだったけど……それでも私も、頑張りたいよ。中史くんが、頑張ってるんだから。中史くんばっかりは、だめ、だよ……」
ああ、それならば。
「迷惑なら、突き放してほしいよ。でも、そうはしないって、信じてる……私がずっとずっと見てきた中史くんは、私のこと、ずっとずっと見ててくれてるって」
こんなヒカリならば。
「だから、話して……。もう、逃げたりしないから」
こんなにも強くなった彼女にならば、この提案をすることは、何ら問題ではないのかもしれない。
……本当に?
どうしても俺の心は、そこでブレーキをかけてしまう。
いいのか。
ヒカリは、いいのか。
そうしてしまったら、もう後には戻れないのではないのか。
その勇気が俺にあるのか?
また同じ過ちを繰り返すだけなのではないか。
そんなのは、俺は、俺は……
「……中史、くん……!」
しかし俺のそんな迷いは、ヒカリの強い黒の眼に吸い込まれて消えた。
「……分かったよ」
俺は自分の見る目のなさに嘆息一つ、西日川光に真正面から向き合う。
「話っていうのは、一つの提案だ」
空から光が消えていく。
夕日と宵闇がないまぜになった地平線の存在感が希薄になっていく。
黄昏時が終わり、夕闇が空に吸い込まれ、闇が世界を呑んでいく。
瞬く間にして、この空は異世界の様相を呈する。それを人は、夜と呼んだ。
「《月鏡》の話を聞いてから、どうするべきかずっと考えてた。宿存派に決めたはいいものの、現状解決のための方針は定まっていない。だから俺は中史時として、舵取りをしないといけない」
互いの声だけが聞こえる鴨川の岸辺。周りはカップルだらけで、みなが特別な熱を持った眼差しでパートナーを見つめている。
「――俺はこの後、もう一度異世界に向かう」
しかしその中でも、いっとう熱の籠った瞳が俺を優しく見つめている。
「《月鏡》は元はと言えば、セレスティアの女神のものだ。それがどういうわけか、『少女』時代の輝夜の御魂に宿っていた。……まあ父さん辺りはその理由も知ってるんだろうが、意地悪で教えてくれないからそれは別にいい。とにかく、この世界の《月鏡》のことはツクヨミが全部知ってるはずで、そのツクヨミが分からないというなら……残るは異世界だ。あっちの月神か、セレスティアの学者か……なにか手掛かりを知ってるかもしれない。そうでなくとも行く価値はあると踏んでいる」
互いのぼんやりとした輪郭が暗闇の中で陽炎のように揺れる。
二人の境界線が分からなくて、放っておくと溶けてなくなってしまいそうだから、どちらからともなく手を伸ばす。
「それに、ヒカリも来てほしい。俺と一緒に異世界に来てほしい」
その存在を確かめるように、指と指を絡めて手を握る。
俺は暗闇の中でも仄かに朱の差しているのが分かるヒカリの顔を見る。
「それが、提案? たしかに、思ってもなかったし、驚いたけど、それなら、別に全然……」
ヒカリはきっと、いくらか拍子抜けしていた。散々躊躇われていた話が、異世界転移。一般人なら格別、中史であるヒカリが異世界に怯える理由はないだろう。どうして俺が渋っていたのか分からず、困っているかもしれない。
「これは言葉から受ける印象ほどには、安全な提案じゃないんだ」
菖姉さんに異世界の正体を聞かされてから、ずっと気になっていたことだ。
「異世界転移は、世界の理の外にあるツクヨミの神術によって行われる、世界間渡航だって言われたろ」
結局それは、なろうのテンプレ――女神による異世界召喚、だったわけだ。
しかし、それが神の力によるものならば――当然その「限界」があってしかるべきで。
「常に姿を変える並行世界を渡るんだ。独自の道を進んで行けば、それだけ二つの世界の距離は遠くなっていく」
その限界が、望まぬ瞬間に訪れたら。
「最悪の場合、異世界から帰ってこられなくなる可能性がある」
ツクヨミの力で繋げられぬほど、世界の距離が離れてしまったら……転移者は、その世界に置いてけぼりだ。
「そのリスクを、よく考えてくれ。俺はその上で、誘ってるんだ。俺が中史として先陣切って舵を取った結果、その船が異世界への片道切符である可能性を、俺はゼロにはできない」
「それでも、行く」
「…………」
ノータイムだった。二つ返事だった。
なんとあっけない。今度は俺が拍子抜けする番だった。
「行くよ。だって……」
人と人を繋ぐ手に力を込めて、ヒカリはふわりと笑う。
「私のため、でもあるんだよね?」
はにかんで、金髪が闇を追い返して、西日川光がここにいる。
「私が、昨日、あんなこと言ったから……輝夜のために何かしたいって、そう言ったから中史くん、そのための機会を用意してくれたんだよね? 異世界で何か手掛かりが見つけられれば、それは輝夜のためになるから……」
今のヒカリに、隠し事などできないのだ。
「それなら、断る理由なんてないよ。輝夜のために何かをしたいのは、本当だし、中史くんの心配りを、無碍にしたくないとも思う。それに――私はどこにいても、頑張るあなたを支えていたい。あの時からずっと、その気持ちは変わらないから」
闇の中で確かな光を持つ彼女は、その熱を心に灯している。
生半可な忠言や、上辺だけの謙遜は失礼だ。
「あとね。……もしこの世界に帰れなくても、私は後悔しないよ。そこが知らない世界でも、大切な人が一緒なら、怖くない。だから、私も行く。行かせて、中史くん」
その懸命な姿が、一瞬だけ、ある少女と重なる。それは月のお姫様。かつて俺に願い、そして今は願うことをやめた、誰よりも強い意志を持つ輝く姫。
しかし彼女は彼女ではない。目の前にいるのはヒカリで、彼女は彼女だけの強さを今その目に秘めているのだ。だから俺の返事まで重なることはなかった。
「ああ、ヒカリ。俺と一緒に、異世界に来てくれ」




