六話 月鏡
思い出すのは、つい一か月前――
流離世界に転移した俺が、大通りを歩いていた時に偶然出会った少女。いや、事態が事態なだけに、それすら偶然だとは言い切れないかもな。
「ここにいる何人かは、もう顔を合わせてることだろう。今は『時の間』にいるその少女――月見里輝夜」
清く流れる黒髪に、月の世界からやってきたような特別な美貌を持つ少女。彼女に魅入られた俺が、かの物語から付けたその名は、月見里輝夜。
山など一つとしてない月のよく見える里の、月明かりで輝く夜の姫として、少女は最初からそこにいた。
「我が息子が異世界からお持ち帰りしてきた、異世界人の少女だ」
誤解招く言い回しやめろ。
「その少女は当初、記憶喪失だった。御魂を損傷し、記憶を失った五歳ほどの少女だった」
父さんは輝夜について、この場の全員に説明していく。
「それをトキが保護し、記憶を取り戻すまで面倒を見ることにした」
その話を聞きながら、俺はその当時のことを思い出していた。
「しかし、異変はすぐに起きた。ある日、トキと少女は夢を見た。世界も時代も異なるはずの――日本の飛鳥時代末期を舞台とした夢だ」
あれはそう、メフィと才能と努力についての話をした夜のことだった。
あの日は色々あってとても疲れていたので、その後すぐ寝てしまったのだが……
「夢の中ではトキは当時の中史当主、中史冬時として、少女は冬時の拾ったかぐや姫として、それぞれの記憶を手にした状態で行動していた」
気が付いたら見知らぬ場所にいて、最初は何が何だか分からず混乱したものだ。
「夢から醒めた少女は『かぐや姫』としての記憶を保持していたため、記憶の量に合わせて御魂が成長し――これをもう一度繰り返した今は、日本の平均的な高校生ほどの容姿にまでなっている」
しかし二度目、夢を見る直前に俺はそれを目の当たりにした。
『――《月夢》』
その頃はまだ『少女』と呼んでいた輝夜が、なんらかの魔法を操っている姿を。
だから俺は暫定的に、あの夢の一件は輝夜が謎の力によって無意識に引き起こしていたものだと理解して、それ以上は考えないようにしていたんだが……
「それが今の輝夜、そうだな? トキ」
とにかくその二度目の夢から醒めた後、少女は『輝夜』となった。それは今の彼女と地続きの存在で、その頃からあまり変わりないだろう。いや、なんか内面の変化は何度か訪れていたっぽいが、俺がそれを把握することはなかった。用意周到な俺の幼馴染によって、輝夜と距離を取らされていたからな。
「ああ。その説明で問題ないはずだ」
だから俺が知っていて、今のこの場で説明すべき月見里輝夜という少女についての情報は、これで問題はない。ないのだが……
ここからは俺も、未知のエリアだ。これ以上のことを、父さんは……四家の当主たちは、知りえているというのか? だとしたらそれは……
と、俺がそれを問うように目線を送ると、それを受けた父さんは『月の間』に揃う中史をぐるりと見回してから、口を開いた。
「今の話を聞いて、疑問に思ったやつはいないか? 召喚士メフィスの時と同じく――他者に夢を見せ、強制的に記憶を植え付けるような強力な魔法が、ただの異世界人に使えるのか……ってな」
それに反応したのは、魔術学に詳しい菖姉さん。
「そもそもあの世界の魔術学は発展途上……セレスティアの宮廷魔導師ですら、扱う術は未だ『魔法』の域を出ないくらいだものね。それというのに『中史』も扱いに難儀している夢を操る魔法だなんて、普通に考えたら不可解だわ」
「鄙見を述べさせていただきますと、ドイツのとある地には他者を夢へと誘う幻惑魔法の使い手がおると耳にしたことがございますが……我が国で夢幻の類を得意とする魔術師というのは、寡聞にして存じ上げませぬ」
姉さんの言を補足するように、勉強熱心な椛がそう説明してくれた。へえ、西洋にはそんな魔術師がいるのか。正直海外の魔術事情についてよく知らない俺からすると、ちゃんと自国以外の魔術もチェックしてる椛は尊敬に値する。俺もうかうかしていられないな。
「ああ、それもそのはず……なんたって、あの術は輝夜自身のものじゃないからな」
納得のいく反応が得られたからか、父さんんは満足気にそう告白した。
「おい……それってまさか、また裏で父さん達が仕掛けてた魔術だとか言うんじゃないだろうな」
一瞬で俺の頭に、イヤな想像が過る。異世界に転移したのも四家の大人の差し金なら、あの夢も父さん達の仕業。そこまで掌の上だと、さすがに嫌気が差してくるってものだぞ。
「おいおい息子よ、なんでも人のせいにするのは良くないことだぞ。責任を人に擦り付けるのが上手くなるのは管理職になってからだ」
「中史当主と全国の魔術師の繋ぎやってる今の俺は実質管理職みたいなもんだし、そうじゃない。……違うっていうなら、なんなんだよ、あの術は」
父さんのペースに付き合っていたらいつまで経っても話が進まないので、強引に押し通す。
すると父さんは、あっけないほどにあっけなくその答えを口にした。
「輝夜は――月鏡保持者だ。それが昨日、覚醒状態に入った」
「……っ? それは……」
なんだそれ――そう言いそうになって、すぐに脳裏を過ったのはある男の姿。
そうだ。……月鏡。その言葉を聞くのは初めてではない。以前にも俺は、その言葉を耳にしていた。
――『ここへは、月鏡を回収しにきた』――
それを口にしていたのは……
「……アリストテレスだ」
俺がその名前を出すと、左隣に座っていたヒカリが、制服のスカートの裾を強く握りしめた。奴にあと一歩及ばなかった敗北の記憶が蘇り、悔しがっているのだろう。……本当に、ヒカリは強くなった。
「ああ、そうだな。うちの学校に来たアリストテレスも、とある事情から《月鏡》を欲していた」
「九年母で観測したところ、あの哲学者もまた異世界……こことは異なる歴史を歩んだ世界からやってきた人間のようね。その世界では、プラトンの下で学問を追究していた彼は魔術と出会い、実学としての魔術によって自己の目的を遂げようと画策し始めたようだわ」
姉さんの話によって、今まで不可解だった部分がなんとなく見えてくる。
要するに、別の世界線でアリストテレスは魔術師として生きており、そこから更に別の異世界――おそらく俺が流離世界と呼ぶあの世界へ飛んだんだ。だから芦校であいつは俺を、『勇者』と呼べた。
「名前からして、魔道具かなにかだろ、《月鏡》ってのは。そんなにすごいもんなのかよ」
行方往人が、ぶっきらぼうな口調で問う。
『――これが、顕現状態の《月鏡》』
しかし、その質問に答えたのは父さんではなかった。
それまで、宙に浮いて傍観していたツクヨミが……突如口を開き、俺たちの前に降り立ったのだ。
「ツクヨミ……? いいのか、お前が話に入っても……」
本来の月読会議では、始祖月読命は介入しない決まりになっていた。それは神である彼女が、人間の政に必要以上に影響を与えないため。特にツクヨミは見た目はロリでも中身は大人な気遣い屋さんなので、そういうところに関してはかなりしっかりしていたはずだ。
そのツクヨミが、会議中に口を開いた。
……やっぱり、今回の会議はどこかいつもと違う。
『特別だから』
そう言って、ツクヨミは――
自身の神性の根源たる御魂へと、周囲の魔力を集めていく。
凝縮した膨大な魔力は一点……ツクヨミの右眼に吸収される。
魔力を溜めたその瞳が、黄金色から赤銅色へと変化した。
『《月鏡》』
赤銅色の眼で虚を見つめるツクヨミの……その神体から、ドッと魔力が溢れ出す。眩いばかりの光と共に胸部から現れた魔力の塊は、やがて精巧な鏡を象り――
――輝きが収まったころには、ツクヨミの手元に白銀色に反射する大きな円鏡が置かれていた。
「お、おい……なんだよこれ……」「ここまでのものを目にしたのは、さすがに初めてですね……」「こりゃあ、魔道具なんてチンケなもんじゃねぇなぁ……」
ここにいるのは皆、世界でも一級の魔術師達だから……やはり分かるのだろう。
この《月鏡》から、途方もない神の力が発せられていることが。
「おいツクヨミ……これは、神器――この国のレガリアである三種の神器にも匹敵する、最上級の宝具なんじゃないか?」
俺が訊ねると、
『うん。当然。――だってこれは、此方』
地面に着地すると、素足のままとてとてとこちらにやってくるツクヨミが……
『此方が此方たる所以。此方の――神格だから』
どうぞ、とその自身の神格を、俺に差し出してくる。
『トキ、持って』
「いやいや、その説明聞いた後だと安易に受け取れないんだが?」
御魂とはまた別に、神様にのみ存在する『神格』……神の性質を写し、その神を神たらしめる根源だ。
例えば、農耕神。例えば、太陽神、水分神、山の神。その神の司る神格。
御魂が存在の器なら、神格は存在そのもの。
『おねえちゃんは《日像鏡》、スサは《潮鏡》、そして此方が、《月鏡》』
ツクヨミの統べる『月』の神格を具現化した、これは……
《月鏡》は、ツクヨミそのものなのだ。
「こんな大事なもの、いくら子孫だからって簡単に人に渡そうとするな」
『トキならいい』
「そういう問題じゃな…………ああ分かったよ、受け取るからそんな悲しそうな顔するな」
「いつもの仏頂面じゃねえか?」「中史殿は始祖の表情を読み取るのに長けておるよって」「ツクヨミと一番仲いいもんね、お兄ちゃん」「名前似てるのに夜見とはあんまり仲良くしてくれないの、なんでだろ、なんでだろ、悲しいな」
外野がうるさいが無視し、俺はツクヨミからその神格《月鏡》を受け取る。
『……、……』
その様子を見て……なんかちょっと緊張してないか? ツクヨミのやつ。だったら渡さなきゃいいのに。
「……まあ、見た目は普通の鏡だな。ちゃんと見える」
そこそこ重く、冷たい。恐らく器そのものは一般的な銅鏡と変わりないだろう。
ぴかぴかに磨かれた鏡面に、俺の顔が映っている。面白いものでもないので、手早く裏返すと……
「……ん?」
『分かぬか』
ツクヨミの言う通り、ちょっと気になるところがあった。
銅鏡は大抵の場合、表面に鏡、裏面に文様が施されている。歴史の教科書などで見るのは、この裏面の模様なのだ。
《月鏡》の場合も同じく、鏡背面に文様が鋳られていたのだが……
――これ、見たことあるぞ。
目にしたのは一瞬だったが、状況が特殊だったので、はっきりと覚えている。
「……輝夜の、額の紋様だ……」
円の周りを、いくつもの星々が煌めいているこのマークは。
かつて輝夜が《月夢》を行使した際、その額に浮かび上がっていた紋様に類似している。
それが《月鏡》の紋様であることを踏まえると……この円は、月を表していたのか。
『も、もういい?』
そのことに気づいたあたりで、ツクヨミが《月鏡》を返すよう催促してくる。やっぱりなんか緊張というか、居心地が悪そうにしている。いつも淡々と言いたいことだけ言うツクヨミが噛むなんて、初めて聞いたぞ。
「ああ悪い、返すよ。……もう俺以外にこんな大事なもの渡すなよ」
できれば「俺以外に」なんて限定せず「誰にも」と言い切りたいところなんだが、もしかしたら今後中史として動く中で《月鏡》に触れなければいけない機会が訪れるかもしれないからな。無責任な発言はできない。
『……っ』
すると、なぜか目を見開いて動揺したらしいツクヨミが、俺から自身の神格を取り戻すとサッと元の位置に戻ってしまった。ツクヨミが情緒不安定だなんて、珍しいこともあるもんだな。
「トキ、ボクが真横にいるのによくあんなこと言えるよね」
「お前まで意味分かんないこと言わな……あれ? みんな……?」
遅れて気づいたが……どういうわけかルリどころか、中史全員から白い目で見られている気がする。なにお前ら、俺とルリがくっついてんの、まだ慣れてないの?
「話を戻すぞ、バカ息子」
呆れ顔の父さんに罵倒された。理不尽だよ。
『《月鏡》は、月神たる此方の神格』
その間に落ち着きを取り戻していたツクヨミは、普段の調子で滔々と語る。
『其の力は、月を操り、世を平ぐる神の力なり』
「さっき……輝夜が月鏡保持者だって言ったよな」
『然りや。……輝夜の御魂にも、また《月鏡》がある』
変わらぬ無表情で……しかしどこか神妙な面持ちで、ツクヨミは言った。
「それは、どういうことだ? 《月鏡》は神だけが持つ神格なんだろ? まさかあいつが神だなんて言わないよな」
『輝夜は人間』
断言してくれたので、安堵する。
「じゃあ……」
『輝夜の《月鏡》は、メアの……セレスティアの月神のもの。此方のものとは少々異なる《月鏡》なれば、すなわちそれと分かることぞかし』
流離世界の、月神。先程陽花里さんが口にしていた神で、俺もセレスティア王国で月の神が信仰されているというのは、勇者をやっている間に聞いたことがあった。
『輝夜の《月夢》は、《月鏡》の力。月神の力』
輝夜の体内に、セレスティアの月神の《月鏡》が存在した。だから輝夜はあの時、神術レベルに難しい《月夢》が使えた。そういうことだった。
「…………それが、なんなんだ」
ここまでで話が終わっていれば、よかった。
不可解だったことが多少解決し、気持ちよく終わることができた。
しかし今は、『月詠会議』――
日本の趨勢を定める中史の最重要会議の、真っ最中。
だから問題は、ここからで。
『……此は実に危うく、急を要する事ぞかし』
これがために中史一族は、全国から集まったのだと。
つまり――
『普通の日々に、一つの世界に二つの《月鏡》が在ることはなし』
一つはこの世界のもの。月読命のもの。
一つは異なる世界のもの。月見里輝夜の持ち込んだもの。
『世界に《月鏡》はただ一つあるべし』
同じ世界に二つあることの許されない《月鏡》が。
『もしこの均衡崩れること久しく、さながら時の流るれば』
このまま二つとも、この世界にあり続けるならば。
『月を失い、世は滅ぶ』
世界は滅亡するだろう、と――




