二話 鼎
中史本邸(当主は普段別のところに住んでいるが)の庭園、俗に中史家庭園と呼ばれるこの場所は、室町八代将軍足利義政に近侍した庭師・善阿弥の造園作品だ。中央の広い池の周りをぐるりと一周して鑑賞できる、池泉回遊式庭園とかいう形式の中史家庭園には、ちょうど池を半周したところに東屋がある。俺はヒカリと神島姉妹と共に、そこで雑談しがてら休憩していた。
していたん、だが……
「ここがトキの家なの!? すごい豪邸なのね!」
「葵、棗……こんなところにいたのですか。あまり心配をかけることのなきように」
「光ー、そろそろ集合時間よー」
――突として現れた三人の人物が、それぞれ別の人物に向けて声をかけたから大混乱。とりあえず、人に話しかけるときはまず名を名乗りましょう。
「ねえトキ? 聞いてる? あ、一昨日ぶりね! こんにちは!」
その中で一番自己主張の強い輝夜が、持ち前の明るさでまくしたててくる。
「ああうん。こんにちは。長旅お疲れ。るりは?」
「えっと……ここに来る途中でなんかとってもキレイな人と会って、その人と一緒にどこかへ行っちゃったわ」
「何一つ具体性がないな……まあ分かった。今回の事情は、るりから一通り聞いてるんだよな」
「ええ。トキの家が……中史が、なんだかとっても大事な話し合いをするために集まってるのよね? 何の話?」
「それはまだ俺も知らない。後で話せたら話すよ」
「分かったわ」
……輝夜についてはこんなもんだろう。一昨日までずっと一緒にいたので、特に改まって話すこともない。ここで話を打ち切り、俺はもう二人の方へと目を向ける。
「また中史殿に迷惑をかけていたのでしょう、葵、棗。あまりに不躾が過ぎます」
「えー、だってお兄ちゃんも別に嫌そうじゃないよ?」「迷惑はかけてない」
「それは屁理屈というものにございまする。中史殿の御心の広さにいつまでも甘えていてはなりませぬ」
「うぇー」「……」
厳しい言葉とは裏腹に、優し気な垂れ目の少女。幽暗の夜の根源のような黒髪を持つ、中史の一。
金の紅葉があしらわれた黒縮緬の着物を纏った、容姿端麗な大和撫子。
「まあまあ、椛。そこら辺にしといてやれよ」
中史分家・神島家――神島椛。彼女は前当主・神島紬を母とする三姉妹の長女であり――中学三年生にして母から神島家の当主を任されている、しっかり者だ。
「あ……中史殿。これは、お見苦しいところを……」
妹二人を叱っていた椛は……俺が近くにいることを忘れていたのか、恥ずかしいところを見られたとばかりに顔を赤くして、口元を裾で隠すようにする。
「俺は特になんとも思ってないからさ。今回くらい、許してやってもいいんじゃないか?」
「そう……ですか」
「さすがお兄ちゃん! よく分かってるー」「そこのお姉ちゃんも言ってやって」
俺に味方されて、ぱっと笑顔になった二人とは対照的に……
椛の方は、なんだか気落ちしたように俯いてしまった。
よくよく考えてみれば……
椛は俺を思って、二人を叱ってくれていたんだ。
その椛を俺が諫めては、あまりに彼女が報われない。
「え、私? 私は月見里輝夜よ。二人は、トキの友達?」「輝夜ちゃん! 葵とお兄ちゃんは大親友だよー」「家族ぐるみの、特別な付き合い」
「……椛」
「……? はい」
なので俺は……二人が見知らぬ輝夜に興味を持ってそっちへ行った隙に、椛にこっそりと小声で、伝えるべきことを伝えておく。
「……正直、俺にはあの二人をどう制御していいか分からないから、椛にはいつも助けられてるよ。ありがとな」
「い、いえ……! わたくしはただ、二人の姉として言っているのみで……っ、そんな、そんな……」
と、どうやら機嫌は直してくれたらしい。ただなぜか俯いたままで、顔を合わせてはくれなかったけど。
「あれ、お母さん? 西日川は、もう時間なの?」
「そうなのよ。今回の事情を聞いた鴇田の人たちが、また怒り出しちゃって……。あなたはもう少し、トキと一緒にいたかったかしら?」
「お、お母さん!? それってどういう意味……!?」
なので後は、あそこでヒカリと話している人に挨拶して終わりだ。
ヒカリは「中史くんは今の話聞いてなかったよね?」的な感じでおろおろとこっちを見てくるが……なんのこっちゃという話なので、俺は二人に近づいて声を掛ける。
「緋花里さん。久しぶりです」
俺はその人に向けて、ぺこりとお辞儀をする。
西日川緋花里。西日川家現当主で、名前の音からも分かるように、ヒカリの母親だ。
中史家が「とき」を通字ならぬ通音としているのと同じように、西日川家は生まれてきた娘に代々「ひかり」と読む名を付けるのが鎌倉時代後期辺りからの慣習となっている。先代は「陽華梨」、先々代は「ひかり」とひらがな表記でその音を襲名していたはずだ。
「久しぶりね、トキ。というか……もう。そんな畏まらなくていいのよ」
そんな緋花里さんは……俺に敬語を使われるのが気に食わないらしく、口癖のようにいつもそう言っている。うちの母さんに負けず劣らずのロリ体型で、よくヒカリの妹と間違われるほど。もう四十近い人とは思えないほど若く、俺が小さかった頃からその日本人形のような姿がまったく変わっていない不思議な人だ。
「いや……なんていうか、緋花里さんはうちの父さんよりよっぽど尊敬できる大人だと思ってるんで……うちの両親との落差がすごくて、自然に敬っちゃうんですよね……」
「あ、あれでも一応すごい人なのよ、あなたのお父さん……」
それは分かってる。腐っても中史の頂点だ。政教分離の原則があるとはいえ、内閣を凌ぐ権威のある『中史』を束ねる父さんが、凡人であるはずはない。それは父さんと母さんの幼馴染である緋花里さんが一番よく知っていることだろう。
まあ、そのことと普段から尊敬はできないというのは必ずしも矛盾しないのだ。
父さんの話をこのまま続けても俺には微塵の得もないので、別の話題を振ることにする。
「なんか、すみません。今回の会議、どうやら俺が持ち込んだ厄介事が原因らしいじゃないですか。詳しくは知らないんですけど」
当事者意識の欠片もない言い草だが、実際そんなもんなんだから仕方ない。今回は中史の大人たちがなにやら動いていたらしかったが、生憎と俺は何も知らされていないのだ。
「あら、そうなの? 刻のやつ、まだ自分の息子に何にも教えてないのね、輝夜のこと……らしいといえば、そうなんだろうけど……」
それは緋花里さんも想定外だったらしく、しかしどこか納得した様子で……おそらく、父さんが「その方が面白いから」とかいうふざけた理由で俺に何も教えていないだろうことを、想像したのだろう。
しかし、分かってはいたことだが……出たな、今。緋花里さんの口からも、輝夜という名前が。
やっぱり、今回の月詠会議ではあいつが議題に上がってくるということなんだろう。気の進まない話だがな。
「ど、どういうこと? お母さん。輝夜が、何か関係あるの……? ううん、違う……自然すぎて疑問にも思わなかったけど、そもそもなんでこの場に、輝夜がいるの……?」
あれ。ヒカリ、輝夜のこと呼び捨てするようになったんだな。俺が去った後、二人の間になんかあったのかな。どこぞの幼馴染のせいで、そういうところにも気づくタイミングを失っていた俺である。
「輝夜が、何かしたの……?」
「その話を、今からするのよ。そのためにあなたを呼びに来たの。あとは……噂のお姫様の確認、かしらね。椛ちゃん、あなたもそうよね?」
そう言って、緋花里さんが視線を向けた先には……
「……まったく、緋花里殿には敵いませぬ」
いつの間にか近くまで来ていた、口許を袖の紅葉で隠し、ハノ字の困り眉で苦笑いを浮かべる椛。
「お姉ちゃん、何の話してんのー」「もっと分かりやすく」
そんな姉の姿に、妹二人が文句を垂れているが……そうか。
同じタイミングに三人も現れて、どうにも間が悪いと思っていたが……それは偶然ではなく、故意だったんだ。椛と緋花里さんの二人が、輝夜が俺のところに来るタイミングに、合わせた。「俺を見つけて話しかけている輝夜」という、最も自然な素振りをしている輝夜――つまりは素の輝夜を、観察するために。
「じゃあ、そういうことだから私たちはもう行くわ。トキと神島姉妹、また後でね。……ヒカリ、行くわよ」「あ、うん」
「葵、棗。わたくしたちも、母様に呼ばれておりますよって」「はーい」「……ちょっとの間だけバイバイ、トキおにーちゃん」
俺がちょうどそのことに気づいたあたりで……西日川家と神島家は、雲散霧消。それぞれ別の方向に、去っていった。
「よし、輝夜。俺たちも行くぞ。ルリを回収する」
そうと決まれば、会いに行く人がいる。
行くべき場所が明確になったので、俺は輝夜の腕を掴んで庭園の池を半周していく。
「わっ、わっ……トキ、なんか強引よ……! ちょっと待って!」
そう言えば、あの人にもルリのことについて訊きたかったんだ。絶対問い詰めてやるぞ……!
☽
中史本邸の中は……あまりに広く、あまりに部屋数が多すぎて、若干方向音痴の俺はときどき迷う。本家の嫡子なのに。
「ねえ、ちょっとトキ! 無視はダメよ!」
しかし今向かっている、その場所へは……一切迷う事なく、直行することができる。
昔から、その部屋へは行き慣れているから。
そこへ行くまでの道筋を、体が覚えているから。
――『菖蒲の間』
久慈家のとある人が使っている部屋の前で、俺と輝夜は立ち止まる。
「ここに用があるの? ねえ、トキ……返事して……お願いだから、無視はしないで……」
そこで一つ深呼吸をしてから……俺はその部屋の襖に、手を掛けた。
その時――
「……くすくす」
鈴の転がるような、笑い声が響く。
「くすくす。女の子を困らしたらめーよ、光時」
気が付くと、彼女は背後に立っていた。
京友禅の中振袖に身を包んだ、どこか幻想的な雰囲気を纏った深窓の令嬢。
黒髪のボブカットを揺らし、嫣然とした笑みをこちらへ向ける彼女は、そう言って……
さわ、さわ、と……
俺の頭を、優しく撫で始める。
「ね、光時」
少し恥ずかしい気もあるが……
俺は、どうしてもその手からは逃れられない。
彼女の声にはどこか……敵愾心をなくしてしまうような、穏やかな波のようなものがある。
1/F揺らぎというやつだろうか。
とにかく俺は昔から、彼女の言う事にはどうしても逆らえなかった――否、逆らおうと思うことがなかった。
「……そうだな、姉さん」
「お姉ちゃん、って呼んで? ……普段からそう言ってるのに」
まあ、これだけはいつも拒否させてもらうんだが。
実の姉でもないのに姉さんと呼んでいるんだから、それで許してほしい。
「ダメよ、光時。恥ずかしがって」
「恥ずかしいというか……男子高校生が『お姉ちゃん』とか、呼ばれる側からしても気持ち悪いだろ」
「そんなこと、ないのに。くすくす」
眉根を寄せて、不満を露わにする自称・お姉ちゃん。……いや、不満そうか? なんだか喜んでるようにもみえる。
……相変わらず、感情の読めない人だ。
「るりはどこだ? 姉さんだろ、あいつを連れ出したの」
「くすくす。ばれちゃった。彼女なら、菊の間で寛いでいるわ」
姉さんは椛や緋花里さんとも仲が良い。だから多分、るりを輝夜から引き離したんだ。俺と会った時の輝夜が、一人でいるように。
「じゃあ、また後で、ね」
「ああ。会議の場でな」
それだけ言うと、彼女は襖をあけて奥の部屋へと去っていった。
何も変わりないな、菖姉さんは。
「今のは誰?」
俺の隣でずっと黙っていた輝夜が、口を開く。
「ん、ああ……輝夜か。姉さんは……菖だよ。久慈菖。……中史分家久慈家の次期当主で、俺の3つ上だから……今は大学2年か」
「や、やっと返事してくれた……。仲、良いのね」
ほほえましい、と輝夜は笑う。
「そう見えたか?」
「違うの? 姉さん、って呼んでるぐらいなんだから」
「あれは、昔からの癖でな……」
「昔?」
「俺が小学生だった頃、諸事情で久慈家に住んでたんだ。そこで姉さんには世話になってな」
「そうなんだ。じゃあ、トキのことを『光時』って言ってたのも、その時のあだ名みたいなもの?」
菖は、俺のことを『光時』と呼ぶ。
それは確かに俺の本名ではないから、あだ名といえばそうなんだが……
「『光時』は、中史の御先祖様の名前だ」
「ご先祖様?」
「ああ……武家政権が広まりだした鎌倉時代、血気盛んな鎌倉武士をまとめ上げ、鎌倉殿……源氏にも恐れられた、伝説の魔術師。それが中史本家93代当主・中史光時だ」
「本家ってことは……トキの、直接の先祖ってこと?」
「そうだ。光時は魔術の天才だと言われててな。現代の中史が使う魔術の大半は、その光時の代に開発・改良されたものをそのまま使ってる。それほどの大天才だ」
「そのまま? 鎌倉時代ってことは、800年くらい前の人なのよね? それだけの時間が経ってるのに、そのままなの?」
「その通りだ。だがそれはなにも、その後の中史が魔術の研究をサボってたわけじゃないぞ。ただ光時の残した魔術式が完璧すぎて、平成の御代になった現代ですら、光時の魔術に敵うものを作れてないんだよ」
俺が使う魔術もほぼすべて、光時が開発したものだ。《月降》も《呪々反射鏡》も《青海波》も光時の時代に開発された中史の基本術式。
俺の已術式なんて、るりと力を半分に分け合って形が変化した、《月痕》<金碧の盈月>とあと数個くらいしかない。
「そんなにすごい人がいたんだ……」
輝夜は感嘆の声を上げてから……あれ、と首を傾げる。
「じゃあ、菖さんがトキをその光時の名前で呼んでるのは……トキが、光時と同じくらい強いから? トキ、そんな天才なの?」
「んなわけあるか。……姉さんは小さい頃から、魔術の研究に人一倍熱心でな。姉さんがまだ中学生だった時、俺がその研究の手伝いをしてたことがあるんだ」
そこまで聞いて、感のいい輝夜はピンときたようだ。
「分かったわ! その時にトキが、菖さんでも考えつかなかったような大発明とか、大発見をしたのね」
「表現が大げさだが……大体そんな感じだ。それで、俺のことを買い被った姉さんは、過去の偉人と俺を重ねて『光時』と呼ぶようになったんだよ。困ったもんだ」
とはいえ、輝夜の今の表現は本当に大仰なもので……現実は、ただちょっと寝不足でパフォーマンスの落ちていた菖姉さんが組んだ魔術式の誤りを指摘しただけ。魔術式の詳しい内容までは覚えてないが……あれくらいなら、万全の姉さんならすぐに気づいていた瑕疵だっただろう。みんな過大評価なんだよ。
……あ。そういえば、ルリのことについて問い詰めるの忘れてたな。当時のことどこまで知ってるのかとか、色々聞きたかったんだけど。姉さんの雰囲気にすっかり呑まれて、そんな余裕なかったよ。




