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幻月のセレナ -世界と記憶と転生のお話-  作者: 佐倉しもうさ
幕間 したひ山 下行く水の 上に出でず
78/116

十一 いにしへの


   ☾玉日女命☽



 ……私は鮫さんの実家へと向かうために乗車した、如月駅の電車内にて……

 横に座る鮫さんを、彼に気づかれないように横目で見つめながら、遥か昔の記憶を回顧します。


 私が人との恋愛を厭うようになった理由。

 あのような悲しい思いをするくらいなら、一生独りでもよいとまで思わせた過去。


 その時、私は生まれたばかりだった――……


 ――――――。


 ――――。

 

 ――。


 往古。

 私が生まれた時代。神の代から人の代へと移り変わってから、わずか数百年。

 まだ地上にわずかに神々が残り、魔術や妖の存在がヤマト中に知れ渡っていた頃。


 私のお父さん、大荒田命(おおあらたのみこと)尾張国(おわりのくに)――現在の愛知県西部――の北部を治める主でした。

 しかしそれよりも少し前、葦原の東へと急激に勢力を広げていた一族がありました。高天原より降りて、葦原を治めようとする神々の子孫、天孫族(てんそんぞく)です。その一人、彦坐王(ひこいますのみこ)の軍勢が美濃国まで進軍し、その後裔がついに尾張へと勢力を拡大させたんです。私たち一族は彼らに従い、朝廷の支配下となった尾張北部を治めました。その役職は稲置(いなぎ)と呼ばれ、その上には尾張国全域を治める、尾張国造(くにのみやつこ)が置かれました。


 初代尾張国造となった乎止与命(おとよのみこと)は、大和葛城(かづらき)の地方を故地とする一族の長で、尾張平野部の在地豪族尾張大印岐(おわりおおいみき)(むすめ)を妻とし、その血縁によって尾張を支配下に置きました。

 

 そうして私に物心がつき始めた頃のことです。

 乎止与命(おとよのみこと)の嫡子、健稲種命(たけいなだねのみこと)が二代目尾張国造を継ぐと、彼は尾張北部に置かれた稲置・大荒田命の長女たる玉姫命(たまひめのみこと)を妻とすることで、更なる勢力拡大を図ろうとしていました。 


 分かりやすく言うと――私のお姉ちゃんが、尾張国の一番偉い方と結婚しようとしていたんです。


(超簡略図)

挿絵(By みてみん)



 お姉ちゃんを妻に取ろうという二代目尾張国造のタケイナダさんは、武勇に優れると音に聞く益荒男で、この十年後に行われる倭建命(やまとたけるのみこと)による東征において、副将軍を任されるほどでした。


 そしてある日――そのタケイナダさんが、近く、お姉ちゃんを訪ねてくるという噂がにわかに広がりました。


 当時まだ十と少しの子供だった私でも、それが大事だという事は理解できました。


「お姉ちゃんは……どうするの?」


「どうする、とはなんですか、タマちゃん」


 私のことです。何度その呼び名はやめてほしいと言っても、最後まで聞いてくれませんでした。


「タケイナダさんと、結婚するの?」


「そうですね……どうしましょう?」


 お姉ちゃんは飄々とした神でした。上辺だけ見るととても適当で、捉えどころがないような印象を受けます。ですがそれはあくまで外面の話であって、心はしっかりとした芯のある、意思の強い女神だったように覚えています。


「先方次第だと思いますよ」


「どういうこと?」


「その時になれば、きっと分かりますよ」


 当時の婚姻形態は妻問婚(つまどいこん)、夫が妻のもとに通う形式でした。もっとも国造・稲置間の婚姻という今回においてはこの限りではありません。おそらく顔合わせのようなものとしての来訪だったのでしょう。


 ともかく当日。

 お姉ちゃんは綺麗に着飾って、お父さんや私もいる居館の母屋にて、タケイナダさんを待っていました。

 

 ――コンコン。


 戸口が叩かれ、横に控えていた下女の一人がそれを開けました。


「――……ほう」


 そこに立っていたのは――

 白の衣に太刀を佩いた、堂々とした出で立ちの男性でした。


 自信に溢れた爽やかな笑みを湛え、お姉ちゃんを見つめています。


「――玉姫命だな」


 ゆっくりとして落ち着いた歩みで、タケイナダさんがお姉ちゃんに近づきます。


「はい。私が尾張国丹羽郡(にわぐん)を治める邇波県君(にわのあがたのきみ)嫡女・タマヒメです」


 お姉ちゃんも同じくらい落ち着いた様子で、タケイナダさんを見つめ返しました。


「私は二代目尾張国造・健稲種宿禰(すくね)だ」


 お姉ちゃんの傍まで近づいたタケイナダさんが、鷹揚な態度で名乗ります。


「……が、このような肩書きになど大した意味はないだろう」


 ――にわかに、場の流れが変わったのを感じました。


「……僅かな迷いもない流れの、ぬばたまの黒髪。婚姻という大層な儀式を前にしてさえ崩れることなき、泰然自若とした佇まい――。率直に言おう、タマヒメ。一目惚れだ。今すぐ私と婚姻を結んでほしい」


「……え……?」


 タケイナダさんは流れるような動きでお姉ちゃんの手を取って、そう言った。


「え……ええと…………ちょ、ちょっと待ってくださいっ」


 私はその様子を見て……


(あ……珍しい。お姉ちゃんが押されてる……)


 などと、暢気なことを考えていました。


「待つとは? 何を待つことがあろうか。この直心(ひたごころ)を止めることは神ですら敵わないだろう。実はこの度の婚姻、私はあまり乗り気ではなかったのだが……タマヒメを見て気が変わった。もはや玉響(たまゆら)の時でさえ過ぎゆくのが惜しい。タマヒメよ、私と結婚してくれ給え」


「いえ、その……そういうのはもう少し、手順を踏んでからというかっ。――心の赴くままに行動するのは、(けもの)のすることです。あなたは一国の雄として、それに相応しい振る舞いをするべきではないでしょうか?」


 お姉ちゃんの余裕は、いともたやすく崩されてしまいました。すぐにすまし顔で取り繕っていますが、妹の私には今も内心では強く動揺しているのが伝わってきました。


 でもそれも、仕方のないことかもしれません。


「ふ――ははは、ふははははははははっ!!」


 このように、予想のつかない行動ばかりされては、さしものお姉ちゃんであっても冷静でいるのは難しいと思いますから。


「嗚呼、実に……実に汝は気高く、それでいて敬服に値する女性だ。こういった場合、大抵の女子(おなご)は私の雰囲気に呑まれ、物も言えなくなってしまう。然るにタマヒメ、汝は私の言葉に阿諛追従しようともせぬばかりか、私の言動を律せんとして進むべき道を示してみせた。――やはり私には、タマヒメ。汝しか考えられぬ」


 滔々と語るタケイナダさんは、その間もずっとお姉ちゃんの目を見つめていました。意志の強そうな黒の瞳が光っています。


「…………えっと、その、ですね……?」


(あ……どうしよう……。まっすぐな好意をぶつけられて困り果ててるお姉ちゃん、かわいい……)


 この時の私は大概楽観的でした。

 縁談というのはもっと重苦しく真面目な場を想像していたので、いい意味でその想像を裏切られ、少し油断していたんです。


「……こほん」


 しかしお姉ちゃんはわざとらしく咳をして、なんとか平静を取り戻し。


「……そうですか。あなたが私に好意を持ってくれたというのは、たいへん嬉しく思います。ですが、タケイナダ様。――私は、女神なのです」 


 決定的な一言を、口にしてしまいました。


 私ははたと気づきました。先方次第――その言葉は、このことを指していたんだと。

 私たちは神です。神を祖先に持つという意味ではなく、純粋な女神なんです。


 その事実は、人に対して尊敬と畏怖の念を抱かせるとともに……私たちとの、心の距離を取らせる。


「なるほど汝は、天女のごとき麗しさを持っているが」


「そうではありません。私は――玉姫命は、正真正銘、生まれた時から一柱の女神なのです。それでもなお、あなた様は変わらず私を求めてくれますか?」


 私たちの正体が人間ではなく神なのだと知ったら、大抵の人間は畏れ多いこととして、結婚する気なんてなくなってしまう。

 お姉ちゃんが神だと明かすことによって、相手の方から婚姻の話を取りやめにするだろう――お姉ちゃんの言っていた『先方次第』というのは、そういうことを言っていたんです。


 けど。


「求めるかだと? 当然だ。汝が人であれ神であれ、タマヒメであることに変わりはないだろう? 私はなにも、汝が人の子であるから求婚しているわけではない。そのようなことは、些末事である」


「そっ……、――強く求婚した手前、今更引けず見栄を張っているのなら、気にせず――」


「本当にそう思っているか? タマヒメよ、目を逸らす必要はない。その深き海のごとき眼で以て、しかとこの御魂を見つめたまえ」


 タケイナダさんは、そんなことまるで気にしていませんでした。

 今までに見たこともない、不思議な雰囲気の人。


 聡明なお姉ちゃんをしてさえ、持て余してしまうほどの強い意志。


「とはいえ、返事を出すには相応の刻を要するだろう。今すぐと言ったが、あれは取り消そう。今宵また、この場所を訪ねるとする。言うまでもなく、貴女が断るというなら今日のところはそれでも構わぬが」


「その………………」


「その?」


「…………待ってます」

 

「では、そのように」


 ――それがお姉ちゃんと、タケイナダさんの出会いでした。

 それから一週間も経たないうちにお姉ちゃんは落ちました。公式に婚姻を結んでしまいました。我が姉ながら、心配になる純粋さです。もしかしたら、お姉ちゃんの方も一目惚れだったのかもしれません。


 それからは早かったです。タケイナダさんと婚姻を結んだお姉ちゃんは、私を連れて知多半島の師崎(もろざき)にある居館に移りました。

 そこにはタケイナダさんの他に、一人の幼い女の子がいました。

 タケイナダさんの妹で、名を宮簀媛(みやずひめ)と言います。お姉ちゃんがミヤちゃんと呼ぶので、私もそうしていました。お姉ちゃんは名付け親にはならない方がよいと思います。


 ともかく、二人が結婚してから八年後。


 知多半島南端の師崎は、少し小山に登れば西には伊勢湾、東には三河湾を眺望できる港町でした。最南端の羽豆岬(はずみさき)からは、尾張国造家が率いる水軍さんたちの舟がよく見えます。お姉ちゃんとタケイナダさんは、よく二人で風光明媚な羽豆岬を散歩していました。



 挿絵(By みてみん)



 そんな二人の間には……二男二女の、四人の子供ができていました。

 なので師崎の居館には、タケイナダさん、ミヤちゃん、お姉ちゃん、私、二人の子供が四人という、八人で暮らしていました。


「お姉ちゃん、タケイナダさんが呼んでるよ」


「はい、今行きますね」


 私がそう言うと、お姉ちゃんは比較的歩きやすい服装でタケイナダさんの許に向かっていきました。その歩みはどこか急ぎ足で、内心では浮かれているのが分かります。


 お姉ちゃんとタケイナダさんは仲睦まじく、周囲の村々でもとても慕われている偕老同穴の夫婦でした。最初の出会いから八年経った今も二人の間にある想いは全く変わることなく、まるで新婚夫婦のような日々を送っていました。


「ふふ。お姉ちゃん、毎日幸せそうだね、ミヤちゃん」


「ええ……ほんとうに、円満夫婦にございますね」


 横にいたミヤちゃんが答えます。

 この時のミヤちゃんは十三歳、綺麗な黒髪の、美人さんでした。


「あら……? タマちゃん、あの方は」


 いつの間にかミヤちゃんまで私をそう呼ぶようになっていました。タケイナダさんもです。ひどいです。


「その呼び方、やめてくれると嬉しいんだけど……」


「いえ、それよりも、あそこに……中史様が」


 ミヤちゃんが指差した方をみると……たしかに、そこには一人の男性が立っていました。


「ん? タマヒメにミヤズヒメか」


 こちらに気が付いたその方が、歩み寄ってきます。

 

 その方は、建速波限彦(たけはやなぎさひこ)。三河国西部を治める、タケイナダさんの戦友でした。ナギサヒコさんは人ですが、かの月神、月読命(つくよみのみこと)の血を引く中史一族の長で、武勇、魔術ともに優れる益荒男です。


「タケイナダのやつを狩りに誘いに来たんだが……もしかしなくても、またタマヒメと一緒なんだな」


「はい。二人で岬の方に、歩いていきましたよ」


「そうか……タマヒメはイラツメと仲良くしてくれてるから、感謝はしてるんだがな……」


 イラツメというのは、ナギサヒコさんの妻のことです。お姉ちゃんの親友でもありました。


「じゃあそこら辺で鍛錬でもしてるか……二人とも、教えてくれてありがとうな」


「頑張ってくださいね」


「いかなる時も修練を欠かさぬその姿勢……見習いたくございます」


 ナギサヒコさんは体格に優れ、独特な鋭い目――形がというよりは、光が――をしているので、一見すると怖い印象を受け、事実下部にはそのように振舞っているようですが、実は意外と話しやすい方です。私たちが神だと知っても態度を変えないことも、私たちに好感を持たせました。


 サグメちゃんと出会ったのも、この頃です。


 私は散歩の途中に出会ったサグメちゃんを連れて、師崎の居館に戻りました。

 空腹状態だったサグメちゃんとご飯を食べるため、そして彼女がしばらくの間、私と一緒に暮らすことを許してもらうために。

 

「あ……天探女だ」


 私たちの居館にて、サグメちゃんがみんなの前で名乗ります。

 どこか弱弱しい、無理して強がっているような声でした。


「ほう」


 サグメちゃんを見たタケイナダさんが、一歩進み出ます。


「伝説の大罪人が、まさかこのような稚児であったとは」


「……あ?」


 タケイナダさんの遠慮ない発言に、サグメちゃんがぴくりと眉を動かしました。


「お前今、なんて言った?」


「お前がほんの童女だったので、驚いていると言った」


 容姿が幼いことをあげつらわれ、サグメちゃんは憤慨します。


「取り消せ! あたしはこんなでもこの場の誰より年上だ!」


「そう喚くな。お前は容貌だけでなく、心まで幼いようだな」


「死ねッ!」


 サグメちゃんは態勢を低くして飛び上がり、魔力にて作り出した金棒でタケイナダさんに襲い掛かります。


「タマちゃんよ。友人は選んだ方がよい」


 それをタケイナダさんは、一顧だにもせず片手で受け止めました。

 掌に棘が刺さり、鮮血が流れますがまるで気にしていません。


「はっ……? お、お前、避けろよ馬鹿っ」


 サグメちゃんの方も、あくまで脅しのつもりで、本気で攻撃する気はなかったようです。だから人間でも避けられるような速度で攻撃した。だというのにタケイナダさんは避けることなく、サグメちゃんの攻撃を受け止めてしまった。

 

 サグメちゃんは、やってしまったとばかりに青い顔をします。


「……ふむ」


 その様子を見たタケイナダさんは、しばしの間顎に手を当てなにか考え込み……


「まあよい。ちょうど、住居が一つ空いている。そこを使うといい」


「そんなことよりお前ッ、血が!」


「こんなもの放っておけば治る」


 と言って、タケイナダさんは立ち去ってしまいました。


「あ、待ってくださいっ」


 私はタケイナダさんを追いかけて、サグメちゃんに住まいを与えたその理由を訊ねます。


「ほんの気の迷いにすぎぬ。……それよりも、タマちゃんよ。汝は、サグメの傍にいてやってくれたまえ。先程友人は選べと言ったが、訂正しよう。タマちゃんは素晴らしい神眼を持っているようだな」


 タケイナダさんは、不適な笑みを浮かべて言います。


「かの女神には、待ち人がおるようだ」


「……待ち人?」


「いかにも。いつ訪れるとも分からぬ者のようだがな」


 この時、タケイナダさんが言っていることを、私は理解することができませんでした。


「……残念なことに、私がその者になってやるのは、到底あたわぬことのようだ。私の両の手は既に、妻と子供たちと強く繋がっている。その上かの神にまで無理に手を伸ばすような真似をすれば、その果ては望ましいものにはならぬだろう」


 でもなにか、とても大切なことである気がしたので、私はタケイナダさんの言葉を何度も頭の中で反芻していました。


「だからタマちゃんは、サグメのよい友になってくれるとありがたい」


「はいっ。それだけは、言われずとも!」


 この時ばかりは、私の日常は幸福に満ちていました。


 しかし……

 そのような幸せな日々が、いつまでも続くわけがありません。それから更に二年が経ち、九州のまつろわぬ民を平定したミコト――倭建命(やまとたけるのみこと)――が、天子の命の下、遂に東征を開始するために動き始めました。

 タケイナダさんは水軍を率いる幡頭(はたがしら)として、ナギサヒコさんは中史の長として、ミコトの東征の副将軍に任命されました。


 これにより、お姉ちゃんとタケイナダさんは、長い間の別れを余儀なくされてしまいます。

 それでもお姉ちゃんは、顔色一つ変えることなく。

 またタケイナダさんも、何一つ変わらない調子で、まるで散歩にでも出かけるように。


 当日になっても、それは変わらず。


「では、往ってくる」


「はい、行ってらっしゃいませ。御武運を」

 

 互いに抱き合うこともせず、涙を流すようなこともなく……

 それはなんとも、あっさりとした別れでした。


 ……主を失ったその居館にて。

 私はつい聞いてしまいました。

 普段あれほど愛し合っていた二人が、どうしてそんな関係でいられるのか、気になったんです。


「お姉ちゃんは……好きな人と離ればなれになって、寂しくないの?」


「そうですね。ちょっと、寂しいですね」


 なんでもないことのように、お姉ちゃんは肯定します。

 その姿があまりに綺麗で、私はそれが実の姉であることも忘れて見入ってしまった。


「でも……元より私とあの人は、そういう予言(かねごと)を交わしているのですよ」


「予言……約束を?」


「はい。最初にも言いましたけど……私は神で、あの人は人間。どんなに互いの想いの重なり合いを確かめ、どれほど睦言を交わそうと、それだけは決して覆せない事実。いつかあの人は先に年老いて、私だけが一柱残されてしまう」


 それは……

 人と神が結ばれ、共に同じ生を歩もうとする上での、最大の障害。

 圧倒的な寿命の差。


「でも、あの人は言ってくれたんですよ。それでもいいのだと。共に生きる時間をなにより大切にしようと。別れはどの道訪れるものだから、その分多くの時間を共に生きようと」


 タケイナダさんらしい言葉でした。


「……別れは、惜しむものではないんです」


「お姉ちゃん……?」


 お姉ちゃんの目は遠く、タケイナダさんの去っていった海の先へと向けられていました。

 

 ――このようにして、ミコトの東征が行われました。


 大和を出たミコトは、伊勢を通ってこの尾張へと移動していきました。

 その道中、ミコトは副将軍のタケイナダさんの勧めで、タケイナダさんの居館のある氷上邑(ひかみむら)へと泊まりました。

 その日そこにはちょうど、ミヤちゃんが泊まっていました。

 ミコトはミヤちゃん――宮簀媛(みやずひめ)を一目見て心を奪われ、契りを結び、「この東征が終わったら結婚しよう」と約束しました。


 その間も、お姉ちゃんは毎日タケイナダさんの帰りを待って、羽豆岬に立っていました。

 タケイナダさんは、サグメちゃんには待ち人がいると言っていましたが、お姉ちゃんに限っては、それは間違いなくタケイナダさんのことでした。

 その姿を見た村の人々は、いつしかそこを「待合浦(まちあいうら)」と呼ぶようになりました。


 ――ですが。


 どれだけ待てど、タケイナダさんが帰ってくることはありませんでした。

 どこか不安になる曇り空の下。

 荒れる海を眺めていた私たちの許に入った一報。



「タケイナダが駿河沖で水死した」


 

 それを告げたのはナギサヒコさん。

 東征を終えた彼は早馬に乗り、真っ先に師崎にやってきて、開口一番そう言い放った。


「…………っ」

 

 ナギサヒコさんの現実感のない抑揚のない声が、しんと静まり返った居館に響き渡る。


「なにがあったんですか!?」


 お姉ちゃんが黙っていたので、その声は私のもの。

 お姉ちゃんは何も言わずに、俯いている。ナギサヒコさんの顔を直視できないから。そうしてしまったら、夫の死を真っ向から受け止めなくてはならないから。

 

「駿河の海で、タケイナダの舟が難破した。あいつは泳げない部下を何人も抱えて岸辺まで移動した。部下は全員助かったが、それで体力を消耗したあいつは波に呑まれて…………」


 淡々と語っていたナギサヒコさんの言葉が、途切れます。

 彼の握る拳が、わずかに震えているのが分かりました。

 普段は鋭いその眼差しには、どす黒い闇が広がっています。

 ナギサヒコさんは、誰よりも不幸に対して敏感でした。ことに人の病や死について、彼は看過できない人でした。だから《桃花(とうか)》など優れた治癒魔術を多く作り、一人でも不幸せな人を減らす努力を惜しまない人でした。


 そんな彼が、友人の死に際に、何もしてやることができなかった。その場に居合わせてやることも叶わなかった。

 当然ナギサヒコさんが責任を感じる理由などどこにもありません。ですが彼は堪えきれない思いでいっぱいなんでしょう、そういう人です。


 だけどどれだけ悔しかろうと、それを表に出そうとしない。彼は淡々と死の事実だけを語っていました。


 それは他でもないお姉ちゃんが、目の前にいるから。

 一番悲しい思いをしている神が、目の前にいるから。

 

 だからお姉ちゃんを差し置いて、自分が身勝手に悔しがることをナギサヒコさんは良しとしていなかったのです。

 どれだけ心が強ければそのように振る舞えるのか、私には到底想像もつきませんでした。


「あなたの子供たちにも、俺から伝えておく。……タマヒメ、それでいいな」


 タマヒメと言いましたが、私のことです。彼は私の方を見て確認してきました。今のお姉ちゃんにその判断をさせるのは酷だと考えてのことでしょう。

 

 このような心配りのできる方がいたことが、私たちにとっての唯一の幸運でした。


 それからお姉ちゃんは三日三晩妻屋(つまや)から出てくることはありませんでした。

 中からは物音一つしませんでしたが、きっと音もなく泣いていたのです。

 慟哭は潮騒にかき消されてしまうから、心をこの場にとどめるためにも、音もなく泣いていたのです。


 四日経ち、朝を迎えると、お姉ちゃんが姿を現しました。

 悲嘆に暮れるお姉ちゃんの光の薄い瞳が、私を映します。


「……お姉ちゃん……」


 お姉ちゃんは脱力した様子で壁に寄りかかって座り込んでいました。

 栲衾(たくぶすま)にできた染みは、お姉ちゃんから零れ落ちた涙。

 朝が来るまでお姉ちゃんは泣いていたのです。そうしてようやく涙が枯れて、瞳には強い憂いだけが残されていました。


「ね、タマちゃん…………」

 

 帳のように伸びた前髪の隙間から、お姉ちゃんが私を捉えます。


「……分かっていた、ことです」


 言い聞かせるようでした。

 もしくは最初からずっと、そうだったのかもしれません。


「あの人は、人だから……私とは違うから……いつかはいなくなるんだって、分かってた、つもりだったんです…………」


 聡明で、気高く、美しい玉姫命は――

 愛するタケイナダと交わし合った言葉を抱いて、その綻びを埋めてきた。

 しかし今、言葉を交わす相手が去って、この世に神が一柱。もはや待つことすら叶わない。


「それでも――――やっぱり少し……寂しい、ね……」


 もう枯れたのだと思っていた、一条の悲しい光が、落ちて消えた。


 ――……。

 その後、東征を終えたミコトは山の神の怒りに触れて身罷る。

 強靭な心で、少なくとも表面上は立ち直ったお姉ちゃんは、子供たちを連れて知多の師崎から丹羽地方――つまり実家へと戻り、お父さんの統治を助け、郷土開発に尽力しました。タケイナダさんに従軍していた丹羽地方の人々も、お姉ちゃんと共に尾張の統治に力を入れていました。

 同じく夫を亡くしたミヤちゃんは、生前にミコトより預けられた、三種の神器の一つ、草薙剣(くさなぎのつるぎ)を我が身よりも大事に神床(かむどこ)にて奉っていました。この約七十年後、ミヤちゃんが寿命を迎える直前、ミヤちゃんに変わって草薙剣を奉るために創建されたのが、今なお尾張国三宮として残り続けている、熱田神宮(あつたじんぐう)です。


 タケイナダさんが亡くなられてから、数十年の時が経ち。

 子供たちも立派に成長し、四人それぞれが天子の下で功績を上げるようになった頃。


 良き妻としての役目、賢しき母としての務め、この両方を立派に果たしてみせたお姉ちゃんは、ある日、私と共にミヤちゃんの元を訪ねました。


 お姉ちゃんは数時間必死に頼み込んで、神剣・草薙剣をミヤちゃんから借りました。


 お姉ちゃんは死ぬ気でいたのです。

 草薙剣は八岐大蛇の持っていた神剣。剣身に纏っている神の魔力はこの世のあらゆるものとも桁違いで、神々しい輝きを放っている。お姉ちゃんはこの神剣に、タケイナダさんの許に連れて行ってもらおうと考えたのかもしれません。 


「……ねえ、タマちゃん。あなたには、謝らないといけませんね。このような出来の悪い姉で、あなたには随分と苦労をかけました。ごめんなさい」


 お姉ちゃんは剣の切っ先を自らの喉元にあてがい、最後の言葉を残します。


「私は私としてすべきことをやりきったという思いの元、この命を絶つことに決めました」


「…………」


「でも、憐れまないでください。同情などしないでください。私は幸せだったんです。村の人々に感謝されて、サグメちゃんやミヤちゃんとも仲良くなれて。かわいくて素直なタマちゃんの姉として、あの人と出会い、たくさんの子供たちと共に、妻として、母として、私として生きることができて……私は、この上なく幸せ者だったんです」


「…………」


「ですから、そんな顔をしないでください。困ってしまいます」


「…………っ」


 私は何も言うことができなかった。ただお姉ちゃんたちを見守って、もしくは見守られて生きてきただけの私では、この場で言うべき言葉を持ち合わせていなかった。

 ただただ姉の死という現実が怖くて、悲しかったから、泣いてしまいそうになった。溢れそうになる涙を必死に押しとどめて、引き止めたい気持ちを必死に我慢して、私は――


「さようなら、タマちゃん。……あなた()、幸せになってくださいね」


 ――この生を幸せだと言い切れる姉の気高さには最後まで敵わなかったなと思いながら、お姉ちゃんを見届けた。

 

 その後、姉もその夫も友人もみんな亡くなり、私だけが尾張に残ったことに気づいた私は、各地を放浪した末、出雲の奥山――恋山の渓谷にて死んだように生きていたのです。


 自分の侍女にならないかと、ツクヨミ様に誘われる、あの日まで。

 


   ☾鮫 水遥☽



 怪異である如月駅の列車が、駅に着く。

 目的地に着いたのだ。


 僕とタマヒメは立ち上がり、駅のホームを歩いていく。


「あ……あの……鮫さん」


 背後から声がかかる。俯き、頬を赤く染めたタマヒメが言う。


「その…………て、手……」


 彼女の視線の先は、僕に掴まれたままの自分の手。

 高天原からタマヒメを連れ、ここに至るまでの間、僕はずっと彼女の手を握ったままだったのだ。

 察するに、恥ずかしいからいい加減手を離せということだろう。


「ダメだ。離さない」


「そっ……そう、ですか……」


 タマヒメは更に顔を真っ赤に染め、更に深く顔を俯かせた。

 

 ……などと楽しく雑談しているうちに、駅の改札を出、辺りには現世の風景が広がる僕の実家の前まで着いていた。

 

 タマヒメの姉の、玉姫命(たまひめのみこと)という名前。彼女がかつて尾張に住んでいたという話。人との恋愛を異様に嫌うタマヒメ。

 これらの情報を踏まえて考えれば、タマヒメが僕に隠しているらしい過去というのは、ヤマトタケル東征の時代に存在した玉姫命が、その夫健稲種命(たけいなだねのみこと)と死別した有名な話のことを指しているのだろう。


 ならば彼女を、この場所に連れてこないわけにはいかない。


「……顔を上げたまえ、タマヒメ」


 ずっと俯いたままのタマヒメに、僕は言う。

 しかし彼女はすぐには顔を上げずに、言葉のみで返事をする。


「鮫さん……もう、いいんです。あなたはとても素敵で優しい人です。だから私みたいな面倒な女に構ってないで、もっと別の――」


「いいからまずは、目の前の景色を見ることだ」


 自分の言葉を遮ってまで僕が催促するので、タマヒメは少しムッとした態度で……顔を上げた。


「なんですか、鮫さん…………。…………あれ? ここ……」


 最初は憮然としていたタマヒメが、徐々に元の調子を取り戻していく。 

 彼女はその風景を、なんども確認するように見渡す。


「ここが、鮫さんの実家……?」


 ここは、愛知県は知多郡南知多町の、師崎(もろざき)。三河湾と伊勢湾に接し、伊良湖水道に繋がる港町。

 かつてタマヒメの姉、玉姫と、その夫タケイナダの館があったとされる場所で……僕の実家の所在地。


「――僕は、鮫水遥(みずちみずはる)尾張宿禰(おわりすくね)鮫水遥だ」


「え……」


 アマテラスには言っていたことなので、知っていて触れていないのかとも考えたが……どうやらそうではないらしい。


「君の姉である玉姫の婚姻相手、健稲種命は僕の直系先祖だ」


「――っ!?」


 タマヒメは心から驚いた様子を隠そうともしない。思わぬ繋がりに、我を忘れているようだ。


「我が一族、尾張氏には、君の姉やタケイナダのことも詳細に伝わっている。君やサグメの記録が残っていなかったのは、君たちが神であったためだろう」


「そんな……鮫さんが、タケイナダさんの、子孫……?」


「ああ。似ていないか? たしかにサグメ曰く、あんまり似てない、とのことだったが」


「いえ、言われてみれば確かに、告白のときとか……でも、そんな可能性、考えもしませんでした……」


 タマヒメからしてみれば、何のつながりも見えていなかっただろうからな。それも仕方がない。まさか二千年近く前に姉が婚姻を結んだ相手の子孫が僕であるなどと、考える方がどうかしている。


「つまり君は、僕にとって大叔母となるわけだ。『大』の数は考えるのも馬鹿らしいがな」


「あんまりそう呼んでほしくはないです……」


 さもありなんだ。


「でも…………はい。たしかに、分かりました。二千年の月日が流れ、大分様変わりしていますが、ここは私たちが住んでいた師崎です。そして私たちの居館があった場所に建っているこの家を実家と言うあなたが、タケイナダさんの子孫だということも、伝わりました」


「信じてくれて、なによりだ」


「ですが――それで、なんですか?」


 言葉ほどには感情の見えない表情で、タマヒメが訊ねる。


「私とあなたの間に、数奇な繋がりがあったことは理解しました。それはたしかに気づけば気分が明るくなる、おめでたい縁だったのかもしれません」


 だけど――そうタマヒメは続けて、静かな悲痛の笑みを浮かべた。


()()()()です。それ以上には広がりません。……まさか、こんな繋がりがあったから僕たちは運命で導かれているんだ、やはり付き合おうタマヒメ、とでも言うつもりですか? だとしたら、見当違いです」


 タマヒメの抱く過去の重みは想像以上だ。

 その程度のことで前を向かせることは、できないらしい。


「そんな繋がりになんて、何の意味もない。結局私とあなたは、神と人。いずれは死に別れてしまう。そうなったら、もう約束も繋がりも、なにもありません。――大切だったものも、絶対に手放すべきではなかった幸せも、全部全部消えてなくなってしまう! この場所だってそうです! 二千年経って、お姉ちゃんとタケイナダさんが暮らしていた頃の面影は全くなくなってしまった! 二人の生きたしるしも、私やミヤちゃんが、サグメちゃんが住んでいた館も、全部全部全部全部!」


 タマヒメのものとは思えぬ乱れた語気で、一気に捲し立てる。


「あれだけ仲睦まじく、愛し合っていた二人も! ミコトから授かった草薙剣を死ぬまで大事に抱えていたミヤちゃんも! 大勢いた村の人々も! みんなみんな死んでしまった! もうどこを探しても、彼らの痕跡なんて見つからないくらいに、さっぱりと!!」


 神と人、その間には決して目を逸らすことのできない溝が存在する。

 それは単純にして明快、寿命である。

 神の寿命に対して、人の一生はあまりにも短い。

 どれだけの人と知り合い、どれだけの人と仲良くなり、愛し合うことになろうと――最後は自分よりも先に、常世国へと旅立ってしまう。

 しっかりと生を全うして、それだ。それこそタケイナダのように、途中で事故に遭い、早逝してしまうかもしれない。不治の病にかかり、失意のうちに亡くなってしまうかもしれない。


 玉姫と健稲種の死別から、タマヒメはそれを学んだ。

 自分の身近な存在、とても幸せそうだった存在が、離ればなれになってしまう。

 離別の悲しみ。死別の辛さ。


 タマヒメは――人との別れを恐れていたのだ。


 サグメが言っていた、人間との恋愛を嫌っていると言うのは、愛し合うことで、深い関係を持つことで、別れの悲しみが増してしまう事を知っていたから。意志が強く、弱みなど見せてこなかった姉が愛していた夫を失った時、いともあっけなく涙を流したのを、見ていたから。

 それでタマヒメは、神が人と愛し合うこと、それによってもたらされる必然の別れを、なにより怖がっていたのだ。


「人と神が出会ったところで、何も残らないんですよ!」


 ――、

 

「本当にそう思っているか?」


「……っ?」


 今までずっと隠していた心中をすべて披瀝し、それでもなお折れない僕を、タマヒメは動揺と恐怖の感情で以て見つめる。


「――生きるためには、公平に物事を見る目が必要だ。聡明な君はそれをすでに持っているはずだが、どうにも姉のこととなると、視野が狭まってしまうらしいな」


「……なにを」


「あまり()()()は、得意ではないのだが――」


 そう言って、僕は――御魂の中心部に、意識を集中させる。

 魔術を行使する際にも、同様の手順を踏む必要があるが――今回はそちらではない。


 御魂の周囲に、徐々に集まってくるのは――魔力ではなく、霊力。

 

 御魂に集った霊力にて妖術式を構築し、そこに霊力を流し込む。


 青白い光を発し、正確に発動したそれは――妖術だ。


「見たまえ、タマヒメ。これが――君の言う『尾張』なのだろう?」


 発動した妖術が、僕から同心円状に広がっていく。


 その土地に付着する霊力が、僕の妖術と共鳴し、憑依現象を起こす。


 すると――ゆっくりと、周囲の風景が書き換えられていく。


 近代的な建物――車、電信柱、アスファルトにて舗装された道路――これらすべてが消え去り、代わりに置かれるのは、青白い、スケルトンの田園風景。


 生い茂る木々に、木造の建築物――竪穴住居や掘立柱建築、物見櫓などが点在する知多半島。

 

「……!」


 それはきっと、タマヒメが暮らしていた――二千年前の師崎。

 先ほどまで僕の実家のあった場所に建つ居館は、かつて彼女らが住んでいたものだろう。


「これ、は……でも、どうやって……?」


 口許を抑え、くぐもった声で訊ねるタマヒメ。


「この地の残留思念を読み取り、具象化したものだ」


 原理としては、如月駅と同一のもの。


 如月駅はそれ自体で一つの怪異として成立しているはずのものだ。

 にもかかわらず、あれはしばしば、わざわざ現実世界の駅に憑依する。


 その理由は明らかにはなっていないが、僕やトキは霊力には残留思念のような目に見えぬものが存在しており、如月駅はそれに引き寄せられているのではないかと考えている。


 だから僕は、尾張にあると思われる残留思念を片っ端から探していった。

 南は南知多町から、北は犬山市まで。

 ありとあらゆる残留思念としての霊力を、露わにしていった。


 そうして発見した残留思念を、一斉にその地に憑依させる妖術を開発した。

 駅の怪異である如月駅が、駅の残留思念に反応するというのなら――その土地の残留思念が、土地そのものに反応したところで、なにもおかしいところはない。


 その作業に、一週間もの時間を要してしまった。

 タマヒメとのデートを終えたあの日の夜、月科の自宅に戻った僕はこの妖術が必要だと考え、この実家に寝泊まりしながら、尾張に残る思念を探していたのだ。幸いにして、月科にある学校との移動時間は如月駅のおかげでなんとかなったのだが、それでもこの身一つで尾張全域を回るには、相応の時間を要した。地図で線を引き、目印をつけ、そこに赴いて霊力を探知する――探知した霊力を術式にて土地に憑依させるための、術式の編纂を行う――その作業を一週間ほど続け、ようやく昨日、妖術が完成した。


 今タマヒメが見ているのは、霊力にて再現された、二千年前の尾張。


「どれだけ時が経ち、人が入れ替わり、その姿が変わろうと――それでも残るものはある。先人の生きた息吹というのは、こうしてその地に受け継がれていく。僕たちはその上を歩んでいるのだ」


「お姉ちゃんたちが残したものの、上を……?」


「そうだ。……それにタマヒメ、君は少々、悪いところにばかり目を向け過ぎだ。君の姉はそもそも、自分が不幸だなどとは思っていなかったと、我が家には伝わっているが」


「そう思えるのは……お姉ちゃんが強い人だったから……」


 玉姫が、心の強い神であったから。姉はそう思えたのかもしれないが、自分には無理だ、と。

 あのようなことを自分が体験したとしたら、幸福だなどとはとても言えない、無理だ、と。

 そう決めるタマヒメを、僕は一蹴する。


「違うな。彼女は強がりで不幸を否定したわけではないはずだ。彼女はタケイナダの妻として、四人の子らの母として、在地豪族の娘として――玉姫命として、為すべきことを為し、その生を全うしてみせた。だというのに、夫との死別という一点にばかり目を向け、それによって彼女の生のすべてを不幸だったと決めつけてかかるのは、些か早計ではないか?」


 彼女のことは、タマヒメの子供達や、同じ時代を生きた中史の先祖によって詳しく伝えられている。僕はトキに頼んでその資料に目を通し、玉姫という神についての理解を深めていった。今の僕はタマヒメとサグメ次に、玉姫について詳しい自信がある。

 だからこれは、それほど的外れな推測ではないだろう。


「そ、れは…………」


「なにも、タケイナダとの別れを悲しむなと言っているわけではない。あれは間違いようもなく悲劇で、起こらなくてよいことだった。それはそうだ。彼が無事に帰ってきて、寿命により息を引き取るまでタマヒメと共に生きるのが最も幸福な形だったのは、言うまでもない」


「そうです。そして、そうならなかったからこそ、お姉ちゃんも、私も悲しんだ……それも、いけないことなんですか? 教えてください、鮫さん」


 もはやタマヒメに、激しい感情の揺れは見られなかった。

 今はむしろぎゅっと僕の手を握り、たしかな拠り所を探すように、僕にしがみつくようにしている。


「いいや。……いけないのは、悲しむばかりで、前に進もうとしないことだ。君の姉はそれに気づき、不幸から立ち直ったのではないか?」


「……はい。お姉ちゃんは三日三晩泣き続けたけど……その後しっかり立ち直って、土地の開発に尽力しました」


「そうだ。なるほど最初は玉姫も、これからの夫のいない生など意味のないものだと投げやりになっていたかもしれない。だが君の言うように、彼女は強い神だった。自力でそれではいけないのだと立ち直り、悲しみの停滞より抜け出し、自分が自分として、為すべきを行った。玉姫命の生を、全うしたのだ」


「そう、です。その通りです、鮫さん……私のお姉ちゃんは、そういう神でした……。だからこそ今も、丹羽地方には、お姉ちゃんを祀る神社がたくさん残って…………」


 そこまで言って、タマヒメは気づいたのだろう。


「……ああ、本当ですね。あなたの言った通りです。私は……見ていなかっただけなんですね。気づいていなかっただけ……お姉ちゃんを祀る神社や、『待合浦』の名前や、熱田神宮にだって……お姉ちゃんたちの想いが、ちゃんと残っていたのに。意味がない、全部なくなる……そんなことなんて、なかったのに……」


 タマヒメは、僕の胸に頭を預けて、かすかに震えていた。

 こちらからその顔は見えない。無理に確認する気もなかった。


「こんなにも……あっけないものなんですね。二千年、ずっとずっとそれに囚われて、悩んできたのに……。現実はずっと目の前にあって、後は私が“気づく”だけだった……それを、あなたが……」


 サグメにせよ、タマヒメにせよ、抱える問題は同質のものだった。

 彼女達は何らかの理由によって、現実を正しく捉えることができずにいただけなのだ。


 あとは、それがそこにあるということに『気づく』だけでよかった。

 幸せとは、たったそれだけのことで手に入るものだ。

 タマヒメとタケイナダはそれをよく理解していたから、最後まで幸福でいられたのだろう。


「……もし君の姉が強がっていたのだとしたら、それは『別れは惜しむものではない』と、言い切ってしまったことだ。別れは惜しむべきだ。存分に悲しむべきだ。そうしてその思いさえもタケイナダと分かち合い、一つの縁とするべきだったのだ」


 それはきっと、彼女が気高く、精神的に成熟し過ぎていたからこそ取ってしまった、()()()()()。彼女はそこで、間違えるべきだったのだ。間違えることで、その不出来を誰かと――彼女の場合はタケイナダと、共有すべきだった。


「タマヒメ。僕は君に、そのように生きてほしい。後悔し、悲しみ嘆き、それを乗り越え、大切な存在と支え合い、生きていく――そんな、強くて弱い女神であってほしい。……否、君は初めから、そういう神だったはずだ。ただ今は少し、調子が悪いようだ。だから、やはり前にも言ったことだが――僕は君に、君らしくあってほしいのだ」


 僕はタマヒメの頭に手を置いて、端的に告げる。


「それが僕の君への、ただ一つの願いだ」


 ……出し切った、という感覚があった。

 今の僕では、これ以上は望めない。その確信があった。


 中史氏長柄家のように、今すぐこの場でタマヒメとタケイナダを蘇生して、感動の再会をさせてやることもできない。

 ただ僕の矜持に従って、荒れていたタマヒメの心をほんの少しばかり宥めることしかできなかった。


 しかしそれが、僕が僕として、鮫水遥として行動した結果だというなら、それこそ悔いはない。


 僕は、鮫水遥として生きているだろうか? 


 ――生きている。

 何度自問しようと、心の内より返ってくる答えは変わらない。


 ならばこの件において、僕は為すべきを為したと言える。

 タマヒメと心を通わせることこそ叶わなかったが、それもまた一興。

 明日からも、変わらず僕はタマヒメの元へ行き、為すべきを為すのみだ。


「……急なことで、気持ちを整理する時間も必要だろう。今日はゆっくりと休むといい。僕はまた明日(あす)も――」

 


「――()()()()



 顔を上げたタマヒメが僕を呼ぶ。

 心臓の鼓動が高まり、熱き血潮が肌の下を巡る。


「本当ならこの場で、私はあなたの想いに応えるべきなんだと思います。好きです、と。私も愛しています、と返すべき気なんだと思います」

 

 もはや彼女の目に、涙は認められない。


 その銀の双眸は、意志と勇気に満ちている。


「……でも、()()()()()。それがたくさん考えて、やっぱりそこに戻ってきた、私の今の正直な気持ちです。あなたが嫌い? そんなわけない。こんなに私に熱い優しい想いをぶつけてくれるあなたを、嫌いになれるはずがない。……でも今はまだ、私はようやくお姉ちゃんの見ていたものが見えてきたばかりだから。人を好きになるという感情が、どういうものなのか、分からないから。だからあなたが好きだと、胸を張って言うこともできないです」


 タマヒメは僕から一歩離れて、真正面から僕を見据え。


「なら本当は、私はヨドヒメさんや中史さんに言われたように、あなたを振ってしまわなければならないのかもしれませんけど――」


 胸に手を当てて、彼女だけの言霊を、ゆっくりと紡いでいく。


「――それでも私、あなたを諦めたくない。あなたとの恋を、なかったことにしたくない。あなたを好きになりたい。……今はそれだけは確かな、私の気持ちなんです」


 そうして彼女は、止まっていた時を動かし始める。


「けどそれだけじゃ、中史さんの言うように、優しいあなたへの甘えでしかない。自分は何もしないのに、あなたにばかり求めている。本当にその通り。――だから、()()()()


 止まっていた足を動かし始める。

 自信と勇気を振り絞り、確かな意志で以て、その一歩を踏みしめる。


「これが今の私があなたにあげられる、精一杯です、水遥くん。こんなことで対等になろうだなんて、そんなことは言いません。もうそんな臆病な、甘えたことは言いません。だから――」

 

 羽豆岬――待合浦より吹く潮風が、タマヒメの黒髪を靡かせる。神御衣を揺らす。


「私はお姉ちゃんが生きた時代の上に成り立つこの時代を、この生を、私らしく生きますから! 玉日女としてあなたを、好きになりますから! だから水遥くん、どうか……」


 そこまで聞いて、僕は自分が()()()()()()ことに気づき、ハッとする。

 彼女のあまりの真摯な思いに、つい思考を止め、聞き入ってしまっていた。


 僕は彼女の気持ちに応える必要があるだろう。


「――“生”とは過去を()け、未来を紡ぐ言霊だ。生者は生きることによって言霊を紡ぎ、死者の積み上げた過去の上に立つ現在を、未来へと繋いでいく。ゆえに停滞を良しとした時、生者はあらゆる意味で死んでしまう。生者は、いかに辛かろうと、いかに苦しかろうと、その歩みを止めてはならない。……君はその気高き意思で以てこの事実に向き合った。やはり僕のこの想いに、間違いなどはなかったようだ」


 僕は彼女がとった距離を、もう一歩下がることで、更に広げる。

 それによって繋がれていた手がほどけ、両手が自由になる。

 しかしもう、それでタマヒメが悲し気な表情をすることはない。


「僕はタマヒメ、君が好きだよ。しかし僕は、君を『待つ』ことを良しとしない。それは生者の在り方に矛盾した停滞だからだ」


 その手を求めるだけの理由とその手段を、彼女はすでに見つけているのだから。


「ゆえにタマヒメよ。僕はこれからも、君を待つことなく歩き続ける。死が僕の生を覆うその時まで、決して立ち止まらないと断言しよう」


 それでもいいか――そう付け加えるまでもなく、タマヒメは言葉を返してきてくれる。


「はい。なので私は――追いつきます。歩くだけじゃ、ぜんぜんダメだから。走って走って、水遥くんのいるその場所まで、追いついて見せます。その時、本当の意味であなたを好きになることができる気がするから」


 彼女は言った。歩みを止めぬと。

 全く新しい居場所で、右も左も分からず迷ってしまうこともあるかもしれない。

 不安はあるだろう。憂いもあるだろう。

 けど、きっと大丈夫だ。


 正に今、自らの足で僕に歩み寄り、その手を取って――


「だから――水遥くん。その時まではこの手が、私とあなたの(えにし)です。絶対にこの手、離さないでくださいね?」


 僕が大好きな、とびきり美しい花笑みを浮かべる彼女ならば。



   ☽



 さて。


「では一緒に暮らそう、タマヒメ」


 あれから数日後、僕はタマヒメに提案した。


「い、いきなりですね、水遥くん……」


「僕は常に自分に正直であろうと心掛けている」


「ほ、本心から私と一緒に暮らしたいと思ってくれているということですね……っ」


「共に暮らすことで見えてくることもあるだろう。無論、もう少し一柱(ひとり)暮らしを続けたいというのなら、今日のところはそれでも構わないが」


「いえ…………私も、一緒に暮らしたいです。水遥くんと」


「では、そのように」



   ☽



 タマヒメの許可も出たところで、さっそく彼女を僕の家に招待する。実家ではなく、月科にある方だ。サグメが住んでいるのは実家の方だが、あれは流れでそうなったようなものだ。すでに彼女にも声をかけ、こちらに移住するように言ってある。


「お、おお、おじゃましますっ」


「そこは『ただいま』ではないか?」


「そ、そうですね……ここで暮らすって、そういうことですよね……」


 ぎこちない動作で、緊張しているのだろう。僕が玄関のドアを開けると、タマヒメが恐る恐る足を踏み入れる。


「た、ただいま…………。……あれ」


 緊張のあまり、声が限りなく小さくなっていたタマヒメだが……何か気になるものでもあったのか、疑問符を浮かべる。


「どうした?」


「いえ、女物の靴があったので。でも、お母さんのものですよね」


 変なこと聞いてごめんなさい、と言って靴を脱ぎ、上がり框に足を掛けようとするサグメだが――


「いや、両親は名古屋に住んでいる。この靴は僕の妹のものだ。前にも言っただろう、水陽だ」


「え……? で、でも……水遥くんの妹さんって、たしかすでにもう――」


 どこか暗い表情で、タマヒメがそんなことを言う。が――


「……? 何を言っている」


 僕は彼女がとんでもない勘違いをしていることに気が付き、訂正する。


「僕の妹ならば――……今も普通に息災だが」


 サグメの寝巻きなども、妹から借りたものだからな。


「――――……へっ?」


 ここ数日で一番驚いた顔をされた。


「あ、あれ? そんなはず――いや、でもたしかに、明言はされなかった……ような??」


 混乱――否、これはもはや錯乱だ。

 記憶を必死に遡り、事実を確かめているらしい。


 そんなかわいらしいタマヒメを、僕が眺めていると……


「んーお兄ちゃん? なんか私知らない内に殺されたような気がしたんだけど、なにが――……」


 二階の自室から出てきたのだろう、彼女が階段から降りてきた。


「「え?」」


 そうしてタマヒメは、我が愛すべき妹と邂逅を果たす。

はい! 真面目な話、終わりです!

次回は楽しいエピローグです! 二人の物語の一つ目の着地点をどうぞ!



【用語解説】


『――僕は、鮫水遥。尾張宿禰鮫水遥だ』


 宿禰、とは八色の姓の一つです。つまりこの世界では氏姓制度が残っているんですね。トキも公式の書では、『中史朝臣中史時』と記したりします(日本の神々の存続数を把握するのは防衛省の管轄となっておりますが、トキがサグメの件を統合幕僚長〔こいつも中史一族〕に届け出た時などは、この表記を使用していたらしいです)。これには中史の存在が大きくかかわっています。私たちの世界では戦後GHQにより氏姓制度は廃止となりましたが、セレナ世界では中史の影響力を危惧したマッカーサーが当時の中史当主・中史時満(トキの祖父)と三度対談し、密かに氏姓制度を存続させることを決定していたようです。表面上は廃止された、ということになっているようですが。



なお、【幻月のセレナ】シリーズにおける尾張氏の設定は、


・小椋一葉氏『天翔る白鳥ヤマトタケル 伝承が語る古代史2』河出書房新社、1989年


・宝賀寿男氏『尾張氏 后妃輩出の伝承をもつ東海の雄族 (古代氏族の研究 12)』青垣出版、2018年


 こちらの書籍、及び、


・酔石亭主様『水石の美を求めて:尾張氏の謎を解く(1~141)』(http://suisekiteishu.blog41.fc2.com/blog-category-44.html)


・『おとくに』尾張氏考(http://ek1010.sakura.ne.jp/1234-7-8.html)


・Kon様『尾張北部の氏族..丹羽氏』(http://akon.sakura.ne.jp/owari/niwa.html)


 こちらのブログとサイトを主に参考にさせていただきました。

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