二 秋風に
――平日の芦校、体育の時間。
2のAの男子は、両チームに分かれてサッカーをしていた。
「こっちだッ、アズマ!」
「ああっ」
青と緑のゼッケンで、敵味方を判別する。
青のゼッケンを着たトキとアズマは味方だ。
「させるか――くっ!」
「どうしたっ!? 三人がかりで俺一人止められないのか、ノロマ共が――!」
トキがアズマからのパスを受けて、中央のディフェンスを突破する。
並外れたボールコントロール能力から繰り出されるプレイは、まるで足にボールが吸い付いているように錯覚する。
魔術を使っているわけではない。これは彼の純然たる身体能力の発露に過ぎない。
トキが天才と呼ばれているのは、なにも魔術に関してだけではないのだ。
ただ魔力が高いだけの輩は、世界を見渡せば幾らでも存在する。
しかし中史時という男は力だけでなく、それを正しく使うだけの身体の素養や心の強さをも持ち合わせているのだ。
だからこそ、尊敬に値する。
僕は落ち着いてコート全体を見渡し、右サイドが空いていることに気づく。それと同時に走り出す。
「トキ、パスだ」
「っ!」
敵チームの注目はトキが集めている。
僕のいる右サイドは、完全なるフリー。
――トキはアプローチを掛ける相手を華麗に躱し、僕への力強いパスを通して見せた。
タッチライン付近まで上がっていた僕は、それを受け取り――
「止めれるものなら止めて見よ、守護神長野」
敵のゴールキーパーは、長野業隆。やつの守りは鉄壁と名高い。
だからこそ、僕は奮起する。
それが強敵であればあるほど、僕は燃え上がる。
落下するサッカーボールを、完璧な角度で蹴ってみせる。
「あっ――クソッ!」
――バシュッ!
寸分違わぬタイミングでのシュート。
光束波のように飛翔したボールは、慌ててこちらに駆けるディフェンダーを抜け、長野の護りを抜けて、ゴールネットを荒ぶらせた。
ピーッ!
審判役の体育教師が笛を吹き、こちらの得点を知らせる。
「まずは先制点だな」
その喜びを、仲間たちと分かち合う。
「ミズお前、今日は一段と動きが冴えてるな」「隠れて練習でもしてたのか?」
「ふむ。特に思い当たる節はないな。単に、地力を完璧に発揮できたというだけだろう」
と言ってやると、我が同胞たちは眉根を寄せて僕を見る。
「なあ中史、こいつ一体どうしたんだ?」「まるで去年の初め頃みたいに……」
「一言で言うと、心境の変化だ」
呆れ顔でトキは言う。
「放っておくのが吉だよ」
同じような顔で、アズマも言った。
なにやら、僕の噂をしているようだ。大方、僕のプレーに驚いているのだろう。さすがは僕だ。
☽
昼休みのことだ。
昼食を済ませた僕は廊下を歩いていた。
ちょうど階段に差し掛かったところ、その最上段で歓談している二人の女生徒を見かける。
茶髪のポニーテールをした、健康的なうなじを覗かせているのが日下部日向。
同年代より一回り小柄な体躯で、八重歯を覗かせて愛らしい笑みを浮かべている方は、葛城奏。
二人はたいへん仲が良く、二学年の間では「ひなかなペア」と呼ばれているほどだ。
「へぇ、この間逮捕された暴力団、中史が検挙したのか」
「そうそう、そーらしいんだよ! それでさ――ひゃっ!?」
すると、楽し気に話していた二人の片翼――葛城が突如、足を滑らせた。
「奏っ!」
日下部が手を伸ばすが、間一髪届かない。
このままでは、階段の最上段より、頭から転げ落ちてしまう。
背中から自由落下する、葛城の体。
床に激突するまで、もう一秒もない。
「――お転婆なのは、君の数ある美点の一つだが」
それを――ちょうどその下にいた僕は、抱きとめる。
落下する際の体勢上、横抱き――俗に言うお姫様抱っこのような形になった。
「それは行き過ぎると、自らの身を滅ぼすことになる。今のようにな」
自分に何が起きたのか分からないとばかりに、ぽかんと口を開ける葛城だが……
「あ……」
状況の理解が及んだのだろう、顔を真っ赤にして固まってしまった。
「立てるか、葛城奏」
「う、うん。…………あっ、ありがとう、水遥くん」
自分の足で立った葛城は、恥ずかし気に感謝の言葉を口にした。
「大丈夫かっ、奏!」
日下部が慌ててこちらに駆け寄ってくる。
「……大丈夫だよ、水遥くんが助けてくれたから」
「そうか、よかった……。あたしからも礼を言わせてくれ、……鮫。奏を助けてくれてありがとう」
ホッと胸をなでおろした日下部は、こちらに向けて礼をする。
「――大切なものは、絶対に手放してはいけない。そうならないよう、君達は常に互いの手を握っているべきだ、ひなかなペアよ」
僕は魔力を固めて、女性用のペアネックレスを創造する。
小さな三日月が象られた、落ち着いたデザインのネックレスが、それぞれ彼女たちの首にかかる。
二人はそれを手に取ると、どちらからともなく笑顔になった。
「もし気に入らなくとも、それは放っておけば五分程度で元の魔力に戻る代物だ」
「いや、気に入った。これはそのままにしておこう」
「うんっ、ほんとにありがとう、水遥くん!」
「うむ。今後は気を付けたまえ」
二人のようなうら若き乙女が傷つくのは、世界の損失だ。
男がその美しさのために身を挺するのは、当然のことと言えるだろう。
☽
放課後――
季節は春から夏へと移り変わる六月下旬。梅雨の時期の今、外では梅雨が降っている。
「おいミズ、今日は部活の日だぞ」
無意識に帰る素振りを見せていたのだろう、トキが忠言をする。
「すまない。今日は用があるので休むことにする」
「用事?」
「タマヒメに、会いに行くのだ」
「ああ……」
それだけ言うと、トキは苦虫を噛み潰したような顔で僕から興味を失い、いつものように月見里の姿を探し始めていた。
「それでは頼む、中史の月神よ」
「うん」
トキの言う通り、僕が呼ぶと虚空から何者かが現れる。
鋤のように平らな胸をした童女――月読命だ。
まだ僕は一人で高天原へ赴く手段を持たない。彼女に案内してもらう必要がある。
「《月渡》」
月神が神術を行使すると、辺りに金碧色の粒子が吹き荒れる。
高天原は現世にはない。転移の魔術が必須だ。
それにしても、幾度目にしても隙のない、素晴らしい魔術式だ。
これが、神の扱う魔術――神術か。
「ちょっ、ちょっと――鮫くん! 教室での魔術の使用は禁止されてるんですよ! あなたも知ってますよねっ?」
突如発生した神の魔術に、我がクラスを受け持っている女教諭である七海先生が驚きつつも注意の言葉をかける。
「ふむ。恐れ多くも、七海先生――貴女は恋をしたことがあるだろうか」
「え……は、はい?」
「恋とは、人間のみに許された神聖にして侵されざる感情だ。心の内より沸き上がるそれは、性欲と一線を画す無限の原動力。人はそのためにならば、自らの頭に科せられた『常識』なる罪さえも簡単に打ち破ることができる」
「そ、そうね……?」
「故に僕はこれより、その恋風に吹かれにゆくのだ。止めないでくれるとありがたい、七海先生」
頭を押さえた七海先生から「はい……好きにしてください」との許しが出た。それと同時に、僕の視界が霞始める。転移の時間だ。
さて、玉の乙女に会いに行こう。
☽
総ての時が一度に巡る桃源郷――高天原。
新緑に輝く山々が連なっている。その稜線の向こうに見える蒼穹には、靉靆とたなびく白雲が描かれている。
緑豊かな山々の中を、嘘のように透明な水が流れている。
水面に反射する陽光が眩いその川の浅瀬に……タマヒメはいた。
日光浴でもしているのだろうか。巫女服のような着物の裾をからげて素足を晒し、下腿までを水に浸からせながら、ひだまりの暖かさに目を閉じている。彼女のまつ毛の長いのがよくわかる。
ふと、タマヒメの後方に羽をたたんで休憩中の白鳥がゆるりと歩いていることに気づく。僕は西洋美術において『白鳥』が、最高の美を備えた女神を表す持物とされることを思い出した。
「…………」
思わず、感嘆の息が漏れる。
――美しい。
今この時、明るく降り注ぐ日光にいとけなき顔を露わにしたタマヒメの姿が、美のイデアとの完全なる融合を見せていた。僕は今すぐにでも叫びたい気持ちを必死に押しとどめる。
「あ……み、鮫さん」
しかしその完全なる美は、僕の登場に気づいたタマヒメの恥じらいによって霧散してしまった。
彼女は岸に上がると、素足のままこちらへ向かってきた。
「――っ!」
その姿に、僕は雷に撃たれたような衝撃を受ける。
草木の茂る地面を、水で濡れた裸足で移動したことによって――タマヒメの細やかな生足に、わずかに土が付着してしまったのだ。
美しきものが汚される光景。
エロスとタナトスの完全なる融合。
三島由紀夫『憂国』にて描かれる美にも伍する、なんともリビドーを高める御姿だった。
「こんにちは……え、えっと、鮫さん? ……どうしたんですか?」
「なに、タマヒメの生足に性的興奮を覚えていたにすぎない」
「えっ!? あ、足ですかっ!?」
「気にすることではない。それより、一日ぶりだな、タマヒメ」
「そ、それより? えぇ? あ……は、はい……こちらこそ……?」
僕を見るタマヒメは、混乱しながらも挨拶を返してくれた。
「その……何しに来たんですか――って言うと意味合いが変わっちゃいますね、えと、嫌味ではなくて、純粋に……」
「分かっているとも。――今日は、君と親交を深めに来た」
僕の言葉を聞いたタマヒメはきょとんとした。
「親交ですか?」
「そうだ。そもそも初対面の相手に告白して了承を得ようなどというのは、土台不可能な話だ。まずはお友達から、というやつだな」
「そ、そうですよね……!」
突然昨日の話を掘り返されたからか、タマヒメは引きつった笑みを浮かべた。「昨日のアレがおかしいことの自覚はあったのか」とでも言いた気である。なんとも愛らしいことだ。
「だからまずは謝ろう。昨日はいきなり混乱させるようなことを言ってすまなかった、タマヒメ」
「あっ……」
僕は頭を下げる。
心の火種が燃え尽きたわけでも、夢から醒めてしまったわけでもない。
しかし筋というものはあるだろう。人と人の関係というのは、一方的であってはいけないものだ。
他者に迷惑をかけてでも自分の意志を押し通すならば、そこに矜持や誇りなどは残らない。
そうはありたくはないものだ。
「い、いえっ……私の方こそ、よく考えずに断ってしまってすみませんでした……」
タマヒメが謝る必要は万に一つもないはずだが、それでも彼女は僕と同じように頭を下げる。
少々ネガティブすぎるキライはあるが、性格なのだろう。
「しかしだからといって、昨日の出来事をなかったことにしようとは考えていないため、そこは誤解しないでくれ給え。あれは僕が僕であり、玉日女命という少女に恋をしたということを確かに示すために必要な、通過儀礼のようなものだったのだ」
僕は宣言する。これだけは言葉にしておかなければならないことだ。
第二の鮫水遥があの瞬間始まったと言ってもなんら大袈裟ではない。
「は、はい……。……その、こんなことを訊くのは卑怯だとは思うんですけど……鮫さんは、私のことが、好き、なんですよね……?」
「ああ。間違えようもなく、誤魔化しようもなく、僕は君に恋している」
「そ、その……こ、恋って……さっきも言ってましたけど、私たち、初対面ですよね……? それでも、好きになれるものなんでしょうか……」
タマヒメは赤くなりながら、なにか確認するような様子で訊ねる。
わりにストレートな質問を投げかけてきたな。
「ふむ。恋に理屈を求めるのは野暮というものだ。現に僕は一目惚れといったが、今のこの感情をそのような言葉一つで表せるかと言ったらそうではない。もっと神聖で貴きものなのだ」
「……そういうものですか」
僕の返答を聞いたタマヒメは、どこか沈んだ態度で俯いてしまう。
「タマヒメは、恋をしたことがないのだろうか」
「そうですね……私は、ないです」
彼女は顔を上げない。
僕は少し考えてから、口を開く。
「不躾ながら、尋ねよう。君は過去、なにか色恋沙汰で失敗したことがあるのだろうか」
出会って二日目の人間にする質問ではない。
通常ならば、嫌悪感でも覚えてはぐらかすような問いだ。
「ど……どうして、そう思ったんでしょうか」
しかし、タマヒメはそれをしない。彼女は動揺した様子で質問を返すばかり。
数回の受け答えから、彼女の押しに弱い性格は把握している。ゆえに現状の関係値でも、この質問が通ると踏んだ。その読みは正しかったようだ。
「君はどうやら、あまり恋の話には乗り気ではないようだったからな。後学のためにも、是非知っておきたいことだ」
タマヒメは僕の言い分を数秒かけて咀嚼すると、僕から何気なく目を逸らして答えた。
「昔……ある和邇――今でいう、鮫ですね。その方に、求婚されたことがあるんです。当時の私は、いろいろと余裕がありませんでしたから……よく考えずに、断ってしまったんです。だから……そうですね。それで無意識に、恋愛を避けていたのかもしれないです」
それはタマヒメの紛れもない本心だろう。だが同時に、僕にはその言葉がどこか上滑りして聞こえた。些細なことだから、気にとめる必要はないのかもしれないが。
「『恋山説話』だな。あれは脚色のない実話だったのか」
「今は、そう呼ばれているんですね」
その話は僕も知っている、出雲神話では有名な説話の一つだった。というのも、そもそも玉日女命について確かな記述があるのはその話のみなのだ。神社伝承や口伝伝承にまでその調査範囲を広げればもう少し情報は増えるのだろうが、それらは各地の風俗の影響を強く受けており、目の前の「本物」とのコミュニケーションの道具とするには、少々心もとない。
――恋山説話。
『出雲国風土記』に見られる神話だ。
とある山の中に、一柱の女神がいた。名前を玉日女命という。
あるとき、一匹の和邇――サメが玉日女命を恋い慕い、下流から上流へと川を遡り、山中の彼女に会いに行った。サメはタマヒメに求婚したが、タマヒメはその求婚を断り、二度とサメが自分の元まで来れないように、大岩にて川を堰き止めてしまった。
それでもタマヒメへを想い続けたサメは、彼女への想いを舌を震わせて伝え続けた。
故にその山を恋山、サメのいた渓谷を『鬼の舌震』という。
島根県は奥出雲町に位置するその渓谷は、現在でも探勝地として有名だ。
恋山説話とは、言ってしまえばそれだけの、ありふれた話だ。神とサメという不思議な組み合わせに首を傾げる者もいるだろうが、世界には異類婚姻譚と呼ばれる、異形との結婚をテーマとする説話が数多くみられる。恋山説話に関しては結婚にまで至っていないのでこれには微妙に当てはまらないが、説話の類型としては似たものだろう。性別こそ逆だが、神とサメが子をなした話は記紀――古事記・日本書紀にもみられる。
「君はたしか、月読命によって出雲から連れてこられたと言っていたな。それはこの説話の後に、恋山で暮らしていたところをかの幼神に連れてこられたと言う事か?」
「はい、その通りです。まあ、実はこっちに来たのはつい数か月前のことなんですけどね」
苦笑しつつ、タマヒメは言った。
なんと、とても直近の出来事だったようだ。
僕にはその一見偶然に思えるタイミングが、どこか引っかかった。
何百年も出雲で暮らしていた彼女を、最近になって突然ここに招いたのは、単なる神の気まぐれか? たまに学校に顔を見せるあの月神の性格を考えれば、おかしなことではないが……。
数か月前といえば、彼女がこちらの世界に転移してきたのが、ちょうどその時期だったか。
「タマヒメよ。一つ聞きたいのだが、君は月読命の使用人としてこの天上世界に足を踏み入れたのだったな」
「はい」
「それは具体的には、どういった仕事をしているんだ?」
「どう、と言われても……ツクヨミ様の居館のお掃除や、来客の対応などですね。最近になって、ツクヨミ様は家を空けることが多くなったようですから」
「……ふむ」
彼女の突然の来訪に、中史一門が動きを見せているのは僕も感知している。中史が動いているのなら、その祖神たる彼女もなんらかの行動を取っているはずだ。その間、人のいなくなる家を守らせるため、留守番役としてタマヒメを雇った。これは間違いないことだろう。
ならば、神さえも行動を起こさなければならないほどの厄介事を抱えた彼女は、一体何者なのか。
彼女の出身や、その彼女を追うようにやってきた二人目の転校生のことを踏まえれば……
「……いや」
……そこまで考えて、思考を中止する。
中史が何をして、彼女が何を起こそうと、僕には関係のないことだ。それは僕ではなく、一連の渦中にいる彼が考えるべきことだろう。そして彼ならば、僕の助けなど必要とすることもなく困難を乗り越えてくるはずだ。
僕はただ、タマヒメのことだけを考えていればいいのだ。
「ええと……鮫さん? そんなことを聞いて、どうしたんですか?」
「なに、恋い慕う人のことならば全て知りたいと思うのは、当然のことだろう?」
「そっ、そういうものですか……」
僕から好意を向けられて赤くなるタマヒメへと意識を戻し、彼女との会話を再開する。
「そういうものだ。……ともかくタマヒメは、そのサメの想いに真摯に応えてやることができなかったために、恋そのものを忌避している。この認識で構わないか?」
「そういうこと、なんでしょうね……自分でも、意識していたことではないので、よく分かりませんけど……」
なんとも玉虫色の返答だ。僕としてはもう少し真偽のほどを問いたいところだが、これ以上彼女を困らせるのは忍びない。
「……鮫さんは」
意を決したように、タマヒメが僕の名を呼んだ。
彼女から会話の働きかけがあるとは思っていなかったので、少々驚いた。
「鮫さんは、以前にも恋をしたことがあったんですか? あ、その……とても堂々としているので、経験があるのでしょうか、と……」
その僕の驚きを、質問に対する訝しみだと捉えたのか、タマヒメがそう補足する。
会話の流れとしてはさほど不自然な質問ではない。タマヒメの性格を考えると、少し意外に思ったのも本当ではあるが。
「いや、これが初恋だ。堂々としているというのはよく分からないが、僕はいつでも自然体であろうと心掛けている。その影響だろう」
「そう、ですか……」
僕の正直な回答に、彼女はなぜか落胆したような反応を見せた。落胆……というよりは、当てが外れたと残念がっている、の方がより適切だろうか。なんにせよ、気にかかる反応だ。
「ああ。我が愛すべき妹にも、『お兄ちゃんは一生独身なんだろうなぁ』と、なんとも心外な評価を貰っていたほどだ」
そう言ってみせると、彼女は目をぱちくりとさせた。
「妹がいるんですか?」
その問いに……僕は、すぐには答えられない。
ただ頷いてやればいいだけなのだが、自分の身体だというのに、どうにも勝手が利かなくて困る。
妹のことを話そうとすれば、否が応でも思い出してしまう。
しかし、人と知り合い以上の関係になる上では、隠し通せぬことだ。
「水陽という。……僕の原動力といってもいい、忘れることのできない存在だ」
努めて明るく振舞ったつもりだが、どうしても声に力が籠ってしまう。
妹のことを話すときは、今でも口が重くなってしまう。
恐らくこれは、一生治ることはないのだろう。
それほどまでに、この傷は深いのだ。
「あ……っ」
タマヒメはハッとしたように僕を見る。僕の態度から、大方察しがついたと言わんばかりだ。
そして、おずおずと尋ねる。
「その……聞いても、いいでしょうか」
妹のことについて、ということだろう。
彼女がこういったことについて、自分から聞いてくるのには驚いた。
彼女は意志が弱いように見えて、芯の部分は大胆な性格のようだ。
ならば、その思いに応えないわけにはいかないだろう。
僕は何というべきか少し迷ってから、口を開く。
「原動力、と言ったのは……水陽が、今の僕を形作ったようなものだからだ。……僕は、妹を救うことができなかった。あいつが一番困っているときに、最も救いを求めていた時に、助けてやることができなかった。そのすべては、僕の力不足に起因する。あの時、僕がもっと強くあれば。僕がもっと賢くあれば。あんな悲劇が起こることはなかったのだろう」
話していると、当時のことを嫌でも思い出す。全身が強張ってしまう。
ああ、やはりあの頃の気持ちは、今でも全く消えていない。
「だから僕は、誰よりも強くあろうと誓った。僕の眼前で、あのようなことが二度と起こらぬように。いかなる事態にも対応できるような力を求めた。その思いが、鮫水遥を鮫水遥たらしめている。それは今でも変わりない。目の前に立ち塞がる理不尽を打ち崩す。向かい来る不条理を滅ぼし尽くす。ゆえに僕は止まらない。それが、僕が僕であるということだからだ」
「…………」
僕の独白を、タマヒメは神妙な面持ちで聞いていた。
聞いていて気持ちのいい話ではないだろう。興味のない他人の矜持ほどつまらぬものもない。
それでも彼女は、その表情に影を落とす。人の想いに寄り添うことのできる優しい女神は、感傷的な気分になっているようだった。
「やはり、忘れてくれ。過ぎたことだ。君が必要以上に気に病むことは――」
「……強いんですね、鮫さんは」
話題を変えようとした僕の言葉は、他でもないタマヒメによって遮られた。
彼女は着物の裾を握り締めて、ぽつりと零す。
「……私は、そんな風には思えませんでした」
「タマヒメが?」
「私にも、いたんです。私の場合は、姉ですけどね」
タマヒメには、姉がいた。それも過去形で語られる。
それはつまり、姉はもうこの世にはいない存在ということだ。
タマヒメの姉ならば、神のはずだが……日本の神は不死ではないと聞くため、亡くなっているのはおかしなことではないのかもしれない。
「名前は私と同じで、玉姫っていいました。そのお姉ちゃんがいなくなってから……私は塞ぎ込んでしまって。何をする気力も湧かなくなって、住まいのあった尾張から、当時は神の多く住んでいた出雲の山奥に逃げたんです。そんな折です。和邇から求婚を受けたのは……」
タマヒメは、とても遠い眼をしていた。
それはもはや、神の眼ですら捉えられない遥か彼方。
死者の行きつく先とされる黄泉国か、輪廻に従って転生した姿か……はたまた天国か、僕に知る術はない。
姉妹であるタマヒメにしか分からぬ、強い縁だ。
「先程言っていた、余裕がなかったというのはそのことか」
「はい……」
僕の話を聞き、似た過去を持つ自分と比較してしまったのだろう。
深く考えることではないと思うが、それはあくまで僕ならばそう思うというだけだ。彼女はすべてを正面から受け止めて、悲しんでしまう。この差をこそ、彼女は気にしたということだ。
「ごめんなさい。せっかくしんみりとした話を終わらせようとしてくれていたのに、無理やり続けてしまって……」
「構わない。先程も言っただろう、僕はタマヒメの全てが知りたいのだ。それがたとえ、耐えがたき苦しみの記憶であったとしてもだ。君が自分から話してくれたことを、僕は否定しない」
タマヒメは、驚いたように目を見開いて僕を見た。
「ほんとうに……強い人です」
「それにだ。タマヒメ姉妹のことを全く知らない僕が言うべきことではないのかもしれないが……君が姉との別離を受け止めきれなかったのは、君の心が弱かったからではないと僕は思う」
「……え?」
僕とタマヒメでは、その衝撃の度合いが違うだろう。
仕方のないことだ。
「君がそれだけ姉のことを大切に思っていたからではないか? 君がそれだけ優しい心を持っていたから、直ちに立ち直ることができず、相応の時間を必要としたのではないだろうか。無責任にも、僕はそう思った」
ああ、本当に無責任だ。
何も知らぬ関係にずけずけと、鮫水遥はこんなにも無神経な男だったのだ。
「念のため言っておくが、気を遣った世辞ではないぞ」
しかし、どうしても言ってやりたくなった。僕は自分に嘘はつかない。
今のも、僕が僕であるために必要な言葉の一つだったのだ。
「……物は言い様ですよ」
果たしてタマヒメは、どこか不貞腐れたように言った。
「そうかもしれない」
というよりも、その通りだろう。
この件に限らず、物事というのは概して捉える角度によって変化するものだ。
「でも……今度からは、私もそう考えるようにします。その方が、自分に自信が持てる気がします」
「なら良かった。君が自分自身を知ろうとしてくれたことが、僕は嬉しい」
「いい加減、私も変わらなくちゃいけないとは思っていたんです。鮫さんが、そのきっかけを与えてくれましたね」
そう言って……タマヒメは、昨日見せたような惚れ惚れする笑みを浮かべた。
「……っ」
これだ。この笑顔だ。
この一輪の百合に、僕は捕まってしまったのだ。
そう思って、胸の奥の炎がいっそう熱く燃え上がった。
「まったく……私の方が、何百年も生きてる大先輩なのに。鮫さんには、教えられてばかりです。強いだけじゃない……不思議な人です」
「それは……そうだな。君は長い間渓谷に引き籠っていて、碌な人生経験を積んでいなかったからではないか?」
「あっ、ひどいです。――ふふっ」
はにかむように微笑み続けるタマヒメを、僕は陶酔にも似た心地で見つめていた。
やはり、美しい。
僕はタマヒメのことが好きだ。
なんとしてでも、振り向かせたい。
そういう意味では、今日は彼女のことをよく知れた。十分に実りのある時間だったと言えるだろう。
「…………」
それにしても、玉日女の姉の事が少々気になる。とある可能性が脳裏にちらつく。
尾張の玉姫、か。偶然かもしれないが、調べてみるとするか。
【用語解説】知らなくてもいい予備知識です。
『鋤のように平らな胸をした童女』
『出雲国風土記』意宇郡総記に見える、「童女の胸鉏取らして(少女の胸のように平らな鋤を使って)」という表現が元ネタ。地誌とはいえ公式の書にこんな表現を用いてしまうほど、日本人は昔からドスケベだったのです。
関係は定かではありませんが、出雲地方の伝説に「胸鉏比売」という女神が登場することは知っておきたいところです。この女神はスサノオの娘の「多紀理毘売」と同一神とも言われており、記紀神話において出雲に国を作った大国主の妻に当たる神なのです。その関係を知った上で、それが国引き神話の場面だということを踏まえて先の表現を見ると、ただの下ネタではないと思えるから面白いですね。
『和邇』
日本神話において、魚類のサメのことを和邇と呼んだ。爬虫類のワニとは別物。現在でも出雲の方言では『サメ』のことを『ワニ』と呼び、中国地方の山間部の一部では『ワニ料理』として『サメ』が食べられているという。
諸説あるが、一般的にこのサメとはシュモクザメのことを指すと言われている。




