三十一話 遠き日の記憶・急(後編)【下】
「……ルリ」
目の前の光景が、嫌に曖昧だ。
視界がチカチカと明滅して、正常な認識ができない。
「……ルリ」
彼女は応えない。僕が呼んでも動かない。
「――」
それなのに、沈黙を守る彼女の姿だけは、ひどく現実味を帯びて、僕の記憶に刻み込まれていく。
――ルリが死んだ。
「……あ、あ」
思考が、うまくまとまらない。
いきがつまる。くるしくて、はきそうになる。
……もう、終わりだ。
先程までの、闘争心も何もかも――灰となってしまった。
消えてしまった。なくなってしまった。
「ああ――」
こうして、意味の分からないことでも、何か考えていなければ――訳が分からなくなりそうだ。
すべてがうっとおしい。息をするのも億劫で、生きている意味が曖昧模糊として失われていく。
無。まったくの無だ。今の僕は中史時という名を与えられたただの抜け殻に過ぎない。
眼前で、アリストテレスに腕を引き抜かれ、肢体を血だまりとなった固い地面に打ち付けられる彼女の姿が、僕にそうあることを強制する。
彼女のいないこの世とは、全く無味乾燥なもので――――
「今は現実に向き合うことも覚束まい。弁舌巧みに言葉を操ろうと、今の君には届かぬだろう」
――そうしてすべてが無に帰してしまった心の中で、それでも、否、それによって胸に一つの強い意志が宿った。
全部が全部一巡して、そうして最後に残った熱くてどろどろとした強い意志。
「ゆえに君とはまた、いずれまた会うことに――」
「………………黙れ」
黙れ。黙れ。口を開くな、喧しい。
(……殺してやる)
それは、僕が生まれて初めて抱いた――明確な殺意だ。
「ふむ。やはりまたいずれ――、――っ⁉」
「《月降》」
――広大な距離を一歩で詰めて、刀を振るう。
「ぬぅッ――⁉」
突然目の前に現れた僕の斬撃を、奴は目を見開きながらもなんとか回避した。
ダメだ。奴には、考える隙さえ与えない。ただちに死ぬべき人間だ。
「《海神眼》――《月痕》――《月降》」
御魂の底から引っ張り上げたありったけの魔力で、瞬時に複数の魔術を構築する、
神の血を流す。この夜空に月を降ろして、月光の刃を振るう。
「っ――一体なんだ? 最愛の人を殺され、自棄になった――のだろうが……っ」
状況を分析する奴の態度に、もはや先程までのような余裕は見られない。
僕の攻撃を躱すので、精一杯といった様子だ。
――あれだ。あの減らず口を叩き斬れ。
――この身は一口の刀。目の前の存在を殺すためだけに打たれた妖刀である。
――思い出せ。もっと深く、思い出せ。この力は、どこから来たものだ?
「――《月降》」
正確な軌道を描く切っ先は――あと一歩。
まだ足りない……奴の首を刈るには、まだ足りない。
「その魔力量は一体どこから涌き出ているのか――実に興味深いが……どうやらそう悠長にしている時間は――ッく」
大きく跳躍し、僕から距離を取ったアリストテレスは魔術を行使する。
「《道具》・殲滅魔術――!」
言霊を読み取り、使役者の意のままに動く如意の魔術。
形を変え、流動する魔力の塊が、黒き粒子を飛ばしながらこちらに向かってくる。
「――――《随》」
それを危なげなく片手で鷲掴みにし、そのまま握りつぶす。
「ほう…………?」
目の前で起きた現象に理解が及ばぬとばかりに、奴が首を傾げる。
だが――お前は何も理解する必要はない。
僕は奴に肉薄し、再び暴力的な魔術の嵐を発生させる。
「《蛍火》――《青海波》――《水月》――《月降》」
火の玉が奴の退路を断ち、荒波に映る月が奴の存在を曖昧にする。抜き身の刀を一閃する。
「極めつけは、その尋常ならざる魔術式の構築速度ッ――好奇心は、強まるばかりだが……ッ!」
あと少し、もう少し――
更に深くまで、思い出せ――中史の力の、根源を――
(――そうだ――俺は……)
真理に、到達する。
その瞬間、俺の辿ってきた軌跡の総てが魔力に変換される。
それは悠久の刻を巡り、ついぞ叶うことのなかった悲劇的な願望――それを成就させるための力だ。
(――《魔力召喚》――)
俺の御魂を満たすのは、世界の底から込み上げる紺碧の魔力。
魔術式を構築すれば、奴の頭上には巨大な月の輪が出現する。
――届いた――
――思い出した――
「――《月輪墜》――」
終の世界の望月よ、あまねくこの夜の闇を照らせ。
「まずいッ……⁉」
奴は本能的にこの魔術の異様さを感じとったらしいが――無駄だ。
「ここは撤退を――ッ……ぐぅっ……⁉」
終の望月は墜落する。
奴の右腕が宙を舞う。彼女を殺めた忌まわしき右腕が、今は自らの血で染められていく。
「――ッ」
生命の危機を感じ取ったアリストテレスは、俊敏な動きで後退する。
「……まさか……この私が不覚をとるとはな……っ」
右腕を失ったアリストテレスが……俺から距離を取り、片膝をつきながら笑顔を作る。
無理をして笑って見せたところで、それは滑稽なだけなのだが。
――というか奴は、何をもう危機は去ったような素振りを見せているんだ?
まさか、これで終わりだなどと考えているのではあるまいな。
ぬるい、ぬるすぎる――この程度の人間に苦戦していたのかと思うと、先程までの自分が情けなくて笑えて来る。
この攻撃は、止まらない。そう――
「まだだ……俺は、お前を……っ」
――殺すまで、と言いかけて。
「……えっ――」
バタンッ。
なにかが倒れる音がした。
(あ、あれ……?)
いきなり世界が反転して、暗い闇に包まれ――何も見えなくなってしまった。
その後すぐに、自分が転んだのだと気づいた。
なにも見えないのは、至近距離に地面があるからだ。
「うっ……なんでだ……?」
……起き上がろうとしても、体に力が入らない。どころか、どんどん力が抜けていく。先程まで御魂を覆っていた底知れない力が消えて行って――それにつられるようにして、奴に対する殺意も薄れていく。
「……うっ……はぁっ……」
すると自分がどれだけ愚かな行為に走っていたのか、客観視する余裕が生まれてくる。
大きく深呼吸をする。それは日本の仏教では座禅、インドではヨーガの呼吸といったように、世界各地に伝わる精神統一のためのプロセス――瞑想だ。
正しい呼吸法により澄み切った頭で、状況を整理する。現実を直視する。
……そうだ。落ち着け。
怒ったって、何も始まらない。
僕は地面に伏臥したまま、なんとか顔だけは動かして、アリストテレスの方を見る。
あいつは、僕の――と断言するには不可解な力だったけど――魔術によって欠損した右腕の止血を終えて、何らかの魔術式を編んでいたところだ。
「よもや……この私が知的好奇心よりも、自らの命を優先するとは思わなんだ。君は、それほど驚愕に値する人間だ、まったくな」
「あっ、ま、待て……」
僕はつい焦って、声を上げてしまう。
周囲に浮かび上がった魔法陣――恐らく意図して見せているのだろう――から読み取ると、それは転移の――他にも使い道はありそうだけど――魔術だ。あいつは、逃げる気なんだ。
「互いに体の損傷が激しい。ここは出直すとしよう――再び会う日が怖くもあり、楽しみでもあるな。さらばだ、ナカシ・トキ」
「待て……! 僕はまだ、なにも……!!」
「――《形相》」
僕が必死に呼び止めるも、奴は止まらず……
自らが作り出した漆黒に包まれたアリストテレスは、跡形もなくこの場から姿を消してしまった。
「…………」
「――」
静寂が場を支配する。
「なにも、できていないのに……」
そこに残されたのは――絶対の約束を守れなかった無力な少年と、先程までヒトだったものの亡骸のみだ。
「…………」
辺りに、冷たい風が吹く。
「――」
覚束ない足取りで、鮮血で塗れたそれに近づく。
「…………」
風に吹かれた瑠璃色の魔力が、周囲に散らばっていく。
「――」
それは、つい数分前まで、確かに彼女だったはずのもの。
今はもう、ただの魔力でしかないものだ。
「ああ――」
空を、見上げる。最愛の女性一人すら満足に守れない僕の頭上では、闇色に染められた大宇宙が、僕をあざ笑うかのようにどこまでも広がっている。
人間、本当に悲しい時には涙すら流れないらしい。
僕はただ乾いた心で、その場に座り込んでしまう。
もう、終わりなのか。
『……ねえ、トキ』
これが、思い上がったつけなのか。
『今度来たら、次は何頼もっか?』
僕ならば、中史ならば――すべてを守れることができると、すべてを救うことができると、思い上がった愚か者の結末なのか。
『ほら、トキ! 早く!』
中史としての夢の大きさの前に敗れ、戦いには負け、最愛の人を失い、生きる意味も失い――そうしてできあがったこの空蝉の体で、僕はこれから生き続けなければならないのか。
本当に、もう、ルリとは――
『ねえ――トキ、でいいんだよね』
――ルリ――
『君は?』
――ルリ。
『空波るり、だよ。お話しよう、トキ』
――違う。
「……まだだ」
……本当に、あと一歩だった。あと少しでも思考を進めていたら、僕はきっと、すべてを諦めて死んでいた。崖っぷちでブレーキをかけて、思考を正常な状態に戻す。
ああ。そうだ……許さない。
これで終わりだなんて――僕が許さない。
僕は、中史時。2660年あまりの間、日本を陰から支えてきた一族の末裔だ。
不幸を許さない。
望まぬ死を許さない。
人の死を前にして、立ち止まっていることなんて……中史には許されないんだ。不可能なことなど何もない。方法がないのなら、作り出せばいい。奇跡は待つものでもなければ、願うものでもない。無理やりに、力づくにでも実現させて見せるものだ。
そう、だから……今度こそ絶対に、ルリは死なせない。
「――」
魔術式の構築を試みる。
だけど、アリストテレスとの戦闘で激しく消耗した今の御魂は、ほとんど空っぽと言っていいほどの魔力量しか有していない。
通常の魔術なら、魔術式を構築するだけで精一杯。だけど、大丈夫。
「――――――《覚》」
呟けば、紺碧の魔力が粒子のごとくルリと僕の周囲に渦巻いていく。
《覚》は、日本魔術学の祖ともいわれる天才――混迷の只中にあった鎌倉後期の武士たちを束ねた中史氏・中史家の棟梁、中史光時が開発した術の一つだ。
この魔術は、記憶を魔力として人に譲渡するものだ。現代の中史の間では、記憶を「譲渡」ではなく「交換」するものだと誤解されてるけど、それは術者の練度が足りないからに他ならない。今の僕なら、一方的にルリへ魔力を譲渡できる。
通常、記憶を魔力として他者に譲渡すると、当然御魂を構成する魔力の総量が減るため――体が幼児化してしまうという欠点がある。
しかし《覚》を使えば、この問題は起こらない。そのために中史光時が作った魔術だ。
魔術式の中心にいるルリを見れば、肉体を抜けた瑠璃色の御魂が、きらきらと星屑のような光をこぼしながら弱っているのが分かる。御魂がその一生を終え、黄泉国へと引き寄せられる時に見られる最後の煌めき――死戦期燈火だ。
まだ、御魂は現世にある。心臓が停止していて、肉体として死んでいても、御魂が生きてさえいれば、生物は再び息を吹き返す。
ルリがそうなっていないのは、御魂の傷が、御魂の持つ自然治癒力を上回るほど深い状態にあるからだ。このままでは、御魂もいずれ死んでしまうだろう。御魂の魔力が、圧倒的に不足しているんだ。
だから僕は、僕の記憶を魔力として、ルリに譲渡する。
そうすれば、《覚》によって譲渡された僕の記憶は、ルリの生命力となって再びその生命活動を再開する。
言うのは簡単だが、実際にそれを成功させるには、計り知れないほど莫大な魔力が要される。当然だろう。ちょっと魔力を渡した程度でぽんぽん人が生き返ってたら、人類はとうに死を克服している。
記憶には、密度がある。何もせず家で怠惰に過ごしていた一日と、どこか旅行にでも行って新たな刺激にたくさん触れた日とでは、その一日の記憶が持つ密度は雲泥の差だ。僕はこの、密度の高い記憶をすべて使って、ルリを蘇生させる。
僕にとってもっとも色濃く、鮮明で、刺激的だった記憶。
幾度懐古すれども色褪せぬ、僕の短い人生の根幹を占める思い出。
それはつまり――僕がルリと出会ってから今に至るまでの毎日。ルリに関する記憶の全てだ。
正直言って、怖い。
今の僕があるのは、あの日、ルリと会えたから。
あの出会いがなかったら、僕という人間はもっと無価値で無知蒙昧な人となりをしていたことだろうから。
だけど、それでも、覚悟はできた。
この屍を目にすれば、いやでもできてしまう。
こんな悲劇を見過ごすくらいなら、僕がルリを忘れるくらい、どうってことない。
僕は決めたんだ。この世から、悲劇を失くすのだと。彼女は言ったんだ。その夢の横には、自分がいるのだと。
だから、始めよう。
「――」
体内に存在する僕の御魂が、紺碧色の光を発する。
そこから魔力が流れ出て、瑠璃色の御魂の周囲を覆っていく。
記憶が、魔力へと変わっていく――
少しずつではあるが、大切な何かが消えていくのが分かる。
僕が大事に思っていたもの。僕が離さないと決めていたもの。
……ああ。これは、思ったよりも辛い。
些細なことから、忘れていく。
今まで気にするまでもなく理解していた、ルリの細かな仕草を想像するのが、今は難しい。
楽しかった思い出も、幸せな日々も――
そのすべてが魔力となって、皮肉なまでに幻想的な色合いをした、瑠璃色の記憶として彼女に譲渡されていく。
毎日、彼女と話をしていた。他愛ない世間話。他人に聞かせても詮無い話。
その内容を、忘れていく。
彼女がどこから来たのかを忘れる。
彼女の歩幅を忘れる。
彼女の息遣いを忘れる。
彼女の声を忘れる。
手をつないだ日のこと、抱き合ったときの幸福感、キスをした感触も、すべて忘れる。
――紺碧色の魔力が、御魂から抜けていく。
ルリを殺した敵の名を忘れる。
彼女と初めてデートしたのは、どこだろう。
彼女と付き合い始めたのは、いつだろう。
彼女を意識し始めたのは、いつからだったろう。
ばらばらに、なっていく。
大事なもの、些細なもの、曖昧になっていく。
彼女が僕をどう呼んでいたのか、忘れる。
僕が彼女をどう呼んでいたのか、忘れる。
――そうだ。僕は彼女とあの日……? あの場所で、会って……? それで、たしか、なにか約束をして――違う? 約束をしたのは別の日だ。いつだろう。分からない。そもそも、なんだろう、約束っていうのは。
思い出せない。覚えていない。
忘れるっていうのは、こういうことなんだな。
それを忘れていくにつれて、それに関する様々な意志も、あやふやになって消えていく。
彼女の姿が、思い出せなくても。
それでも――
いったい自分が、なんのためにこうしているのか――その想いすら、曖昧になっていくけれど。
彼女への想いを、忘れても。
それでも、やらなくちゃいけない――
魔術を止めることはしない。
彼女のために、しなくちゃいけない――
記憶の放出をやめることはしない。
もはや名前さえ思い出すことのできなくなった、僕が一番愛していた、彼女のために――――――
「…………あれ」
次の瞬間、僕は自分がよく分からなくなった。
自分がどうしてここにいて、何をしていたのかが何も分からない。
辺りは真っ暗で、目の前では人の死体が転がっている。
助けなければ、と思った。
そのために、魔術を行使しようとするけれど……何も起こらない。
どうやら、魔力が切れているようだ。中史の僕が魔力を切らすなんて、一体何をしていたんだろう。
でも、よく見たら平気そうだ。目の前の何者か――それが死んでいるのは、肉体だけ。御魂の方は、瑠璃色の魔力が強く光り輝いている。次期に回復するだろう。
どうしてこんな状況になっているのか、分からない……分からないけど、ああ。なんだかとても――悲しいな。
なぜだか、涙かこぼれる。僕の意志とは無関係に、数滴の涙が、ほろほろとこぼれていった。
でもそれも、すぐに止まった。目を拭うため、立ち上がるため、体を動かそうとするけれど……動かない。
視界がぼやけていく。暗くなっていく。
そうか。魔力切れ。
本当に理解できないけど、僕は意識を保てないほど御魂の魔力を使ったんだな。
地面に、倒れ伏す。
意識が遠のいていく。
――だから言葉を呟くとき、僕は全くの無意識で。
「…………ばい、ばい」
それを最後に、僕の意識は、ぷつんと切れた――
過去を識ったトキは、なにを思うか――




