三十話 遠き日の記憶・急(後編)【中】
「《金波青海沫》ッッ!!」
そこへ、間一髪ルリの魔法が間に合った。
ルリによって放たれた黄金の荒波は、漆黒の魔術とぶつかり合い――
相殺し切ることのできなかった分を僕が刀でかき消し、素早く態勢を整える。
「――講義をしよう、ナカシ・トキ」
そして時流を持ち直すと、バッと地面を蹴ってアリストテレスの間合いへと詰め寄る。
「私はあくまで傭兵に過ぎぬ。金を積まれればいくらでも態度を変える意志弱き立場にある」
「――このっ!」
僕は振りかぶった時流に魔力を集わせ、奴の口を塞ぎにいく。
「しかし君は私と剣を交えることをやめないだろう。現にこうして、君は鬼の形相で私に向かってきている」
しかしそれを奴はコピスで受け止めると、空いている手でまたしても魔術を構築し始める。
「《道具》・魔術」
「――《青海波》ッ!」「《金波青海沫》――ッッ!!」
再び僕の前に現れた巨大な漆黒に対して――僕は水流の宿った刀を構える。《月降》同様、刀身に魔術を纏わせたのだ。
――でも、これじゃまだ力不足だ。
「――っふ」
だからルリの放った荒波は、金色の飛沫を上げながら僕へと迫りくる。
僕はタイミングを合わせて、その場で飛び上がり――《青海波》の更に上からルリの魔術をも纏わせる。
「うおおッ――」
僕とルリ、二人の魔術を纏った時流を振るい――
なんとか、奴の攻撃を相殺することに成功した。
(いける……かなりギリギリだけど、少なくとも圧倒的な差があるわけじゃない……)
時流の切っ先を奴に向けながら、彼我の戦力差をそう分析する。
二人なら――僕が僕であって、ルリがルリでいる限り――何者にも負ける気はしない。
時流を顕現させたせいで、魔力は大分減ってるし……身体的な疲労も隠せはしないけど。それに見合う敵の情報は掴んだはずだ。――僕もルリも、奴の戦法についてこれる。
「ルリッ!」「うんっ」
タンッ――と地面を蹴って、二人同時にアリストテレスに攻撃を仕掛ける。
「――よって、君との講義は今日では終わらぬ。私が君へ語るべき言葉は、今ここには存在しないだろうゆえに。今はただ……ここでの仕事を遂行する」
言い終えたアリストテレスが、口を閉じると同時――
――大気が震撼した。
驚愕し、思わず歩みを止めてしまった僕たちが、奴の手元を見ると――僕たちが襲ってきているのを歯牙にもかけないとばかりに無防備な状態で、左手に魔力を集めていた。
その量が――尋常じゃない。普通の魔術を使うのに、あんな量の魔力はいらない。
何をしようとしているんだ、あいつは――!
「さらばだ、シルク殿下」
奴が、膨大な魔力を用いた魔術を構築し終えると――
「――《大いなる魔》」
――ドクン、と御魂が脈打った。
強大な魔力の局地集中に、僕の御魂が反応したんだ。
落ちていた日も完全に沈み、気づけば夜のとばりが落ちていた世界の中心で――
深淵から覗くのは、渦巻く混沌が更なる魔を呼び寄せる黒の絶海。
巨大な悪魔の如く立ち上る闇が、僕らを頭上を覆い隠した時――
「ッ――」
まずい、と思った。
行動が思考を追い越すというのを、初めて経験した。
「ルリッ!!」
気づいた時には、動いていた。
「トキ⁉」
僕はルリの前に立って、持ちうる限りの魔力で防御壁を構築する。
「《呪々屈折鏡》ッ!」
僕とアリストテレスの間に展開された無数の神鏡は――しかし、大いなる闇と衝突した瞬間、音もなく消え去ってしまった。
だが不幸中の幸いか、それで少しだけ攻撃の軌道がズレた。
「くっ……!」
大いなる混沌の闇は、その時既に接触していた僕のみを引き連れて高速で移動していく。
月の光を発する時流で、その衝撃を受け止めながらも――アリストテレスとルリが、僕の視界から遠ざかっていく。
…………。
……え?
(……っ⁉)
背中に冷や汗が流れる。
眼前で猛威を振るう闇のことすら忘れて、呆然とする。
自分の犯した大きな……大きすぎる過ちに気づいて、頭が真っ白になる。
僕は今、なんて言った……?
(まんまと、してやられた――)
目の前の攻撃に対処するのだけに意識を向けて――本当に大事なことから、意識を逸らしてしまった。いや――
(それすら、あいつの計算内か……!!)
あいつが執拗に、僕ばかり狙っていたのは……僕の攻撃に、いちいち付き合っていたのは全部このためだ――!
あいつの目的を少しでも考えれば……それじゃなくても、平時なら考えるまでもなく気づけていたことなのに。
あいつが僕との剣戟に、素直に応じてくれていたから。
――意識を、意図的に逸らされていた。
それに気づいた時、己の愚かさを心から呪った。
――『君を暗殺するようにと命じられているのだ、空波るり君』
奴の言葉がリフレインする。
そう。そうだ。あいつの目的は、最初からルリの殺害。標的はルリただ一人。僕はただの邪魔ものでしかない。
――今の僕たちは、二人で一人前。
――一人では、大人の魔術師には敵わない。
分かっていたのに。分かっていたことなのに。
奴の魔術により、刀ごと後方へ吹き飛ばされてしまった僕は――
――ルリと、一人では絶対に敵わない大人の魔術師を、二人だけにしてしまった――
まずい。
なにか、嫌な予想が脳内にはびこって離れない。
助けたくても、手が届かない。
二人の様子を確認しようにも、大きな闇が邪魔をして、二人の様子が分からない。
僕が、守り通すと約束したんだ。それは、絶対だと言ったんだ。
この闇を、なんとかしなくては――
「うおおおおおおッッッ――!」
自分でも驚くくらいの魔力量で、奴の魔術を無理やりにかき消して。
「ルリッ!」
闇が消え、開けた視界で、最愛の人の名前を呼んで――――
「――」
…………。
……。
……ああ。
「――ふむ。君は実に驚愕に値する子だな。想いの力で、私の全力の《到達せし大魔》を打ち破ったか」
ぼやけて定まらない視界に映るのは――深紅の鮮血。
ぽた、ぽた、ぽた。
靴の先から、血が垂れる。
目に入るのは、自らの血に塗れた衣服。
その肢体から力は抜けきっていて、すでに四肢は重力に従ってだらんと垂れている。
もう目を閉じて動かない彼女の顔は、ここからでは見えず。
彼女の胸部を貫く奴の右腕が――鮮やかな赤に染まっていた。




