二十八話 遠き日の記憶・急(前編)
――世界で一番愛しい人が、僕の隣で微笑んでいる。こんなに幸福なことがあろうか、こんなに恵まれていることがあろうか。人の生の本懐とはつまりこのように愛する者への激情高じて親愛に満ちることではないか。
夕暮れに人の影伸びる八月の終わりに、僕はそんな感慨へと至った。
ルリと出会って早四年。激しく燃えるようだった恋心は、何ものをも暖かく包み込む愛情へと変わった。過去への憧憬も後悔も、将来への期待も不安も、すべては僕らが僕らでいるために必要なものなのだと知った。迷うことはあっても、立ち止まることはない。そうすればきっと、笑っていられる。僕たちはそんな当たり前のことに、ようやく気づいたのだった。
「……ねえ、トキ」
僕に肩を抱かれて、こちらに頭を預けるようにしていたルリが口を開いた。
「ん?」
「結局あのことは、中史の当主には伝えたの?」
「ううん。迷ったけど、これは僕たちの、いわば好奇心の延長でしかないからさ。そのために中史一門を招集するっていうのは、やっぱり後ろ暗いよ」
「じゃあ、ボクたちだけなんだね」
ルリは静かに目を伏せた。
「不安?」
今のルリからは、そんな感情が読み取れた。出会った頃は深い深い底に閉じられていて分からなかった彼女の心の機微も、今では少しは分かるようになったと思う。
「そりゃあ、不安じゃないって言ったら、嘘になるよ」
ルリもそれを分かっているから、こうして不安や迷いを包み隠さず打ち明けてくれる。
「大丈夫だよ。もし何かあっても――」
「『僕が守る』、から?」
いたずらっ子の笑みを浮かべてルリが言った。
やはり彼女には敵わないな、と肩をすくめる。
「……いいや」
それは間違いなく、心からの言葉だ。
「何かあっても――僕たち二人が離れることがなければ、平気だから」
そっとるりに口づけする。
「んっ」
キスを受けたルリは満足したように顔を綻ばせて、僕の腕に抱き着いてきた。
(ああ、僕は幸せ者だ)
……最愛の人と二人。ゆっくりと流れる時間。
人としてはもはや、これ以上を望むことはない。
僕の夢は、いったいどうすれば叶うのかすら分からないほど高く険しいものだけど。
ルリの笑顔を見ていると、そんな未知の不安さえ次の瞬間には氷解している。
心の底から、人を頼れることができる。その相手がルリでよかった。
ルリから感じる信頼と愛情がとても嬉しい。
この最高の時が、永遠のものであることを願った。
――そんな時だった。
僕とルリの御魂が、空気の振動するのを感知した。
「「――っ!」」
判断は一瞬のこと――敵襲だ。
僕たちはバッと跳躍し、それぞれ反対方向に走りながら敵の気配を探っていく。
ここはいつもの水郷公園――四方は緑に囲まれていて不明瞭だ。場所を変える必要があるだろう。
ルリと目くばせして、人気のない市街地へと走る。
(気配――あった。後ろか)
そんな僕らを後方100メートルから同速で追跡する魔力反応がある。
前方に人影はなし。ここなら民間人への被害も出ない。――よし。
僕とルリは以心伝心で足を緩めつつ、背後の気配に意識を集中させようとする。
「――っ⁉ ルリっ!」
「うんっ!」
だけどその時には、すでに気配は背後から消えていた。
どんな方法を使ってかは分からないけど、それは瞬時に移動し、僕らを頭上から見下ろしている。
「――東洋の詩には、こんな一説があるらしいな」
頭上から響くのは、低い男の声だ。
「《月降》っ!」
「《捷魔塊守護壁》!!」
驚いている暇などない。僕たちはすぐさま対象へ意識を向けると、御魂から魔力を放ち攻撃した。
僕が《月降》で先制攻撃を仕掛けているうちに、ルリが前面に防御壁を構築する。何度も中史や空波の命を狙う者との戦闘の末、体に染みついた連携だ。
ルリの扱う魔術は術口を介さない少し変わったものだ。けど、緊急時に即座に魔術を放てるそれは、戦術によっては非常に強力な武器となる。
(この一手で終わってくれるのが、一番なんだけど……)
目で見た限りでは、《月降》はその気配に直撃していた。今は魔力の巻き起こした白煙が上がり、それの姿は隠されている。
……こちらの初手の動きは完璧だった。
だけど。
煙が晴れて、露わになった気配の姿を見ると。
「――浮生は夢の如し、歓を為すこと幾何ぞ、だ」
無傷。
敵はどこかニヒルな笑みを浮かべて、僕とルリを見ている。
敵は僕たちの完璧な連携に対応してみせた。それだけ手慣れているということだ。ならば、相手の戦力を把握するまで迂闊な行動は避けたい。
「…………」
再びルリとアイコンタクトを取る。ひとまず静観、だ。
僕が口を開く。
「――会話する意思はあるか。アリストテレス」
まず僕たちは間違いなく初対面だ。目の前の男のことなど露ほども知らない。
だけど僕はそう表現するしかなかった、姿を現した敵の容姿を。だからそう呼称する。
今時冗談みたいなもじゃもじゃの髭をたくわえ、キトンと呼ばれる、無地の布を体に巻き付けるようにした服装の成人男性。
歴史の教科書に出てくる(僕はまだ習ってないけど)アリストテレスの胸像の写真そっくりな人物だった。
だからひとまず対象の分かりやすい呼称としてそう呼んだ。
「はは、第一声がそれか。大した慧眼だ。まだほんの幼子のように見えるのだがな」
呼ばれた対象は悠然たる口調でそう言った。
ひとまず、問答無用で攻撃を仕掛けてくる野蛮な思考の持ち主ではなさそうだ。
分かりづらいけど、あいつは僕に『アリストテレス』と呼称されたことに驚嘆と肯定の意思を示しているみたいだ。どうやら本当にアリストテレス本人だと言いたいらしい。
「……ギリシア出身の哲学者に教えてあげるよ。この国は『言霊の幸わう国』と呼ばれててね。言霊信仰ってものが古くから根付いてるんだ。名前を付けて、それを呼称するっていうのには、それ自体に大きな意味があるんだよ」
相手は哲学者。知の探究者だ。
アリストテレスの知らなそうな知識を出してやれば食いつくと思い、あえてこういうペダンティックな話題を振った。その目論見はうまくいき、やつは実際に僕の言葉に反応を示した。
「日本のアニミズムか。ならば、確信があったわけではなく、その場しのぎで呼称したものだとでも言うつもりか?」
僕は断定する。
「いいや」
――右目に集う膨大な魔力が、蒼く、碧く光る。
《海神眼》を通して、実体がないため通常は見ることのできないアリストテレスの御魂を、直視する。
「とても、歪な御魂だ……少なくとも、この時代のものじゃない」
「ほう。見ただけで分かるか。いい眼をしている」
そう言うアリストテレスからは、余裕が見て取れる。
やつの目に映るのは純粋な好奇心。未知なる知を前にして、子供のように目を輝かせるその姿は……正に、『万学の祖』という名に相応しい。
「それで? そんな偉大な哲学者が、いったいボクとトキに何の用なの?」
隣のルリは半ギレで問う。多分僕と二人だけの時間を邪魔されたせいだ。とても怖い。
「よくぞ聞いてくれた。――そうだ。私はここへ来たのは、私のある目的のためだ。いや、私がここに来たことそれ自体も、もはや目的の一つであるやもしれん」
「目的……?」
「いや、そう言うにはいささか乗り気はしないのだがな。これは私の行為であることには間違いないが、それが直接幸福追求へと至るものかと言ったらそうではない。つまり――」
などと、よく分からないことを宣いながら……やつは、スっと手を上げて、指差しをした。
「君を暗殺するようにと命じられているのだ、空波るり君――いや、シルク殿下」
「なっ……⁉」
その指が指し示す先は、ルリ。やつがシルク殿下と呼んだ彼女を、殺すのだと。そう告げた。
だが、僕たちが驚いたのは『暗殺』という用件ではない。僕らの命を狙う刺客というなら、そこそこの頻度でやってくるので特段驚きはない。
「ど……どうしてお前が、ボクの名前を……?」
僕たちが驚いたのは、アリストテレスが口にした、その呼称。
――シルク殿下。
その名は、僕たち限られた少数の人間しか知らないはずのものだ。
それをどうして、こいつが知ってる?
「それは愚問だな、シルク殿下。私がその名を知る理由など、そう多くはあるまい」
そう。そうだ。やつの言う通りだ。この月科で暮らす『空波るり』が『シルク殿下』であることを知っている理由なんて、考えるまでもなくわかることだ。
「……なるほど。なら、なおさらお前は危険人物だってことだな」
「互いの衝突は避けては通れぬ道だろう、ならば、君が自らの主体に基づき私をそう判断することは何らおかしなことではないな」
そこは、アリストテレスも納得してくれたらしい。自分で自分を危険人物だと認める敵は初めてで、少し調子が狂う。
でも、やつの目的がルリの暗殺だと言うのなら、やることはいつもと同じだ。
「――ルリ」
「うん」
僕とルリはやつに向き直り、最終的な意思表明をする。
「悪いけど、お前の思い通りにさせるわけにはいかないよ――アリストテレス」
すべては僕らの幸せのために。
これまでがそうであったように、これからもそうであるように。
「中史家次期当主・中史時が、お前を止める」
僕は僕の全力で以て、僕らの平穏無事を守り通す。




