二十四話 誰の
俺は御魂に魔力を集め、魔術式を編んでいく。
「なにが目的だ?」
正体不明のギリシャ人を見据えながら、俺は当然の疑問を投げかける。
「その眼で見ていたのだろう? ――ここへは、月鏡を回収しにきた」
悠々とした口調で、男は言う。
……月鏡、か。知らないな。
なにか魔法具の類か?
「もっとも、今の君にはそれでは通じないか」
「なんだか知らないが、今は授業中だ。大の大人が青少年の学びの邪魔をするのは、どうかと思うぞ」
「なかなか愉快なことを言う。つまり君は、私から教わることはなにもないと?」
「そう言ったつもりだ」
「互いのことを知らぬうちからそれを決めつけるのは、早計ではないか?」
「……《月降》」
もったいぶるような男の物言いにイラっときたので、挨拶代わりに閃光の刃を飛ばしてやる。
男はそれを……またもや大きく飛び上がって、難なく回避した。
「私は立場上、『先生』と呼ばれていてな。人にものを教えるのは、それほど不得手ではないと自負しているのだが」
「なら教えてくれよ。お前は何者だ?」
なにやら授業をしてくれると言うので、名前を聞くと……
男は、どこかニヒルな笑みを見せて、
「――私は哲人。アリストテレスだ」
などと、冗談とも本気ともつかない名乗りをしてきた。
アリストテレスといえば……俺でも知ってるくらいには有名な、古代ギリシャの哲学者だ。哲学者といったが、アリストテレスはその他にも様々な学問分野において活躍したことから、万学の祖などと呼ばれる規格外の天才で……
「…………」
「信じられないか? 気持ちは分かるがな」
こいつはその、歴史に名高い学者その人だと豪語する。
……確かに、言われてみれば顔は似ている。あの有名な胸像と瓜二つだ。
信じるかどうかという話なら、こんないかにも怪しいやつを信じることはできないが……
「そもそも、アリストテレスは紀元前の人物だろ。人間にしては、長生きしすぎじゃないか?」
「はは、それを君が言うか。時間の流れを捻じ曲げる力を持つ君が」
という、アリストテレスの言葉は……
俺、というよりは中史の御魂がそういう力を持っている、という意味だろう。
時空間移動……タイムスリップなら、幼女の姿をした俺の御先祖様の得意分野だしな。
こいつの言う通り、過去からタイムスリップして現代に来たというなら、アリストテレスが現代に生きているという事象も、理屈の上ではおかしなことではない。
「な、中史くん……」
ちらと後ろを振り返ると、ヒカリが不安そうな眼差しで俺とアリストテレスのやり取りを見ていた。
「……そんな顔をするな。お前の望まない結果にはしない」
ヒカリは魔術師にしては珍しく、争い事が嫌いなまともな感性の持ち主だ。
だからヒカリには、あまりこのような物騒なやり取りは見せたくない。
もう少しこの男について追及したい気持ちもあるが、ここは引き下がるべきだろう。
「……月鏡って言ったか。そんなものは知らないし、お前がこちらに危害を加えないようなら、俺たちとしては衝突は避けたい。だから……」
「……ふむ。ここはひとまず、出直せというわけか」
「そうだ」
俺はアリストテレスに向き直り、ダメ元でそう言ってみた。……言ってみたものの、十中八九争いは避けられないだろうと思いながら。
「よかろう」
だが……その予想に反し、アリストテレスはあっさりと戦闘の意思を取り消してくれた。
あまりに拍子抜けだったので、俺は思わず、
「こっちが言うのもなんだが……いいのか?」
などと聞いてしまう。
すると奴は、また、どこか含みのある笑みを浮かべて、
「他でもない君の頼みだ。聞く価値は十分にあると判断した」
「他でもないって……さっき自分でも言ってたが、初対面だろ、俺たち」
まるで俺を知っているような物言いが気になり、そう返す。
それに対し奴は、片手で魔術式を構築しながら……こう言い放った。
「こちらが一方的に知っているという場合もあるだろう。――伝説の勇者、ナカシ・トキ君」
「な――お、おい……!」
全く予想していなかった単語を出され、俺はひどく驚愕した。
それについて、深く聞き出そうとするも……
「また近いうちに会うことになるだろう。――《形相》」
奴は先程、攻撃魔術として使っていた魔術を自身に掛けた。
漆黒の魔力に包まれた奴の体は、みるみる透明になっていき……
その場から、姿を消してしまった。
「「…………」」
――キーンコーンカーンコーン――……
三時間目の終わりを知らせるチャイムが校内に響く。
先程までアリストテレスが立っていた場所を見つめながら、ヒカリが言う。
「……なんだったのかな……」
「こっちが訊きたいな」
言いながら、俺は心の中でアリストテレスの捨て台詞を反芻していた。
『――伝説の勇者、ナカシ・トキ君』
あいつは……俺のことを、勇者と。そう呼んでいた。
それは俺が流離世界……異世界で魔王を討伐したことにより手にした称号だ。
アリストテレスが俺をそう呼んだのは、単なる偶然か?
(いや……)
そう考えるのはあまりに楽天的だろう。あいつは、異世界の存在を知っていると思っておいた方がいい。
まとめるとあいつは、古代ギリシャに生まれた偉大な哲学者で、異世界にも行ったことがあり、今は現代にタイムスリップして、月鏡とやらを探している魔術師……ということになる。
……またなにやら、面倒そうな奴が現れたというわけだ。
「……あ、あの……」
「ん?」
俺が奴についての情報をまとめていると、ヒカリがおずおずと話しかけてきた。
ヒカリに向き直り、耳を傾ける。
「さっきは……ありがとう。助けてくれて」
か細い声で、たどたどしく、感謝の意を表した。
「大丈夫だったか? 怪我とか」
「う、うん……中史くんが、守ってくれたから……」
「そうか」
俺が頷くと、ヒカリはもう限界とばかりに俯いて、押し黙ってしまった。
どうしたのかと思われるかもしれないが、ヒカリは普段からこんなんだ。引っ込み事案な性格で、中学の時なんかはそれが原因でいじめられてたりもしてた。
さっきはアリストテレス相手に堂々としていたから、少しは改善したのかと期待していたのだが……そうではなかったらしい。
「そ……それで」
怯えるような上目遣いで、絞り出すように言葉を続けるヒカリ。
どうやらまだ話は終わっていなかったようだ。
「助けてもらったから……」
「から?」
「お礼がしたいな、って……」
お礼か。
ヒカリを助けるのは中学の頃からの約束みたいなもんだし、普通なら断るところだが……
ここで断ったりすると、ヒカリのやつは十中八九変な受け取り方をする。拒絶されたとか、なんとか。
そこら辺のすれ違いは長い付き合いの中で、何度か経験してきたことだ。
「じゃあ……そうだな。貸し一つってことで、なにか困ったことがあったら、お前に相談するよ」
なので、あとからいくらでも曖昧にできる約束を取り付ける。
「うん……!」
その返答はヒカリ的に納得できるものだったのか、胸の前で拳を手のひらで包むようにして微笑んだ。
まあ、俺が困るようなことでヒカリに頼ることなんて……そうそうないだろうけどな。
☽
などと言っていた日から、三週間が経ち……
暦は五月となった。
ゴールデンウィークを間近に控えた日のことだ。
リビングのソファでくつろいでいた俺に、母さんは言った。
「ねえトキ」
「ん?」
毎日見ても相変わらずロリにしか思えない母さんに呼ばれ、そっちを見ると……
「…………」
母さんの横には、部屋着の輝夜がいる。
その、輝夜が……なんだ? 気恥ずかし気に俺から視線を逸らし、もじもじしている。トイレでも我慢してるのかな。
「トキ。興奮しないで聞くのよ」
……興奮? なんだか嫌な予感がするな。まあうちの家族の発言が突飛なのはいつものことか。
などと気軽に構えていたら、一言、
「今、輝夜ちゃんは下着を着用していません」
……どこからツッコめばいいのか分からなかった。
「は?」
「今というか、今までずっとです。下着をつけてません。ノーパン少女です。ノーブラ痴女です」
「いやいやいや……待ってくれ母さん」
「だからトキ、あなたは輝夜ちゃんの下着を一緒に買いに行きなさい」
「いや……うん? ちょっと待ってくれ。俺の脳では処理しきれない言葉だったみたいだ」
えーっとだから……まずはどこから気にすればいいんだ? 母さんの言動がおかしいのは俺が生まれた時から変わらないのでスルー。しかしその言葉が冗談であったことはあっても、嘘であったことはない。だからそこの事実確認は必要ない。ゆえに、今この時に真っ先に考えるべきは――
――輝夜、ノーパンで学校行ってたのか?
「…………」
いや違う。真っ先に考えなければいけないこととしてこれは間違っている。ノーパンノーブラ状態で登校していた制服姿の輝夜のプリーツスカートの内側がふとした弾みに露わになってしまったらとかそういうことは――
「《月降》ィッ!!」
自分自身に技を放ち、痛みによって思考を強制停止させる。
……よし。落ち着いた。
冷静な頭でこの場をどうすべきか、結論を導く。
「……輝夜」
「あ、う、うん。……なに」
名前を呼んだだけでなぜかキョドリまくる輝夜に、俺は問う。
「下着をしてないってのは本当か」
「え……い、いや……それは……」
「はっきりと答えろ!!」
「…………ほんとう」
なるほど。輝夜が下着を履いていないのは事実。
それはおそらく、流離世界からこっちへ来てからの間ずっとだ。
では、なぜ輝夜は下着をつけていないのか。それはこっちの世界に来てから下着を買いにいっていないから、以外の可能性は低いとみていいだろう。
主に輝夜の身の回りの世話をしているのは母さんだから、母さんがこの事実を元から知っていたことは予想がつく。
ならば、浮上する疑問が一つ。
「母さんのを輝夜と共有することはなかったのか?」
「トキッ! 人の胸を見て物を言いなさい!! わたしのが輝夜ちゃんに合うわけないでしょ!?」
涙目になった母さんが、半ば自棄になって大声でまくしたてる。
「あぁ……」
俺は母さんの胸部に視線をやって、心から納得する。
そこには、1989年を過ぎても崩壊することのなかったベルリンの壁が屹立していた。母さんの胸の内では、いまも冷たい戦火が燃え続けているのだ。
「……ブラの方は分かった。下は?」
「それは――わたしが履いてるのは、輝夜ちゃんみたいな清楚な子には似合わないような過げ――」
「あーもういい分かったからそれ以上喋るな。親のそういうのとかマジで聞きたくない」
ともかく、母さんがどうにもできない理由は分かった。
つまり輝夜の下着が家にないから、一緒に買いに行けということだ。まだこの世界に慣れていない輝夜の買い物に俺が同行するのも、当然の成り行きだ。
……しかし、それでも一つ疑問が残る。
「……なんでこれまで買いに行かなかったんだ?」
「うーん……忙しかったから?」
そこ曖昧だとダメだろ。
「いや、うん。忙しかったのよ。中史の方がちょっとバタバタしてて、わたしもお父さんも休日は毎週京都に顔を出してたから……。だからトキも、ここ数週間は休む暇なかったでしょ?」
「ああ……あんたらが家を空けたせいで、中史に来る厄介事が全部俺の方に集中してたからな……」
もうあんな激務は御免だ。思い出すだけで過労死しそう。
「だけど、明日からゴールデンウィークでしょ? やっとわたしたちの方も一段落して、トキも暇だから……」
「明日にでも、俺に買いに行けって?」
「そう!」
元気な声で肯定する母さん。事情は分かった。
最後に確認しておくべきは、何といっても本人の意志だが……
「輝夜はいいのか? 男と一緒に下着の買い物なんて」
「ト、トキと一緒なら……平気よ」
ここで、俺依存の弊害が出てしまう。
付き合ってもいない男と下着を買いに行くなんて、端から見たら完全にビッチだ。教育方針を間違えたか――!
と、俺が一人悔やんでいるのを、知ってか知らずか。
「それじゃ、お願いねトキ!」
母さんは普段と変わらぬ能天気な様子で、俺に無理難題を押し付けてくるのだった。もうあんたがかぐや姫やれよ、母さん。
☽
俺はずーんと深く沈んだ気持ちでヒカリを呼び出した。家が近いので、近くの公園で待ち合わせして。
待ち合わせ時間5分前に来るいい子ちゃんのヒカリは私服姿だった。だったのだが、正直気持ちの問題でそんな細かいところまで見る気が起きなかった。
「……どうしたの?」
俺の表情は相当暗いものになっていたのか、ヒカリが心配そうな顔をしてくれる。
「いや、なんでもない。……この間の貸しの件、まだ有効か?」
これからのことを思うと気が重いが、それをヒカリに愚痴っても仕方がない。
「もちろんだよ、中史くん……! ……ていうことは、なにかお願い?」
どこか上機嫌にみえるヒカリ。多分、人に頼られるってのが嬉しいんだろうな。普段、そんなことなさそうだし。
「ああ……実はな……」
と言って、俺は先日の一件を思う。
俺があの件を承諾してしまったのには、きっと輝夜をこの世界に連れてきたことへの責任感のようなものが悪い具合に働いたというのもあるだろう。
悔やんでも悔やみきれないが、起きたことを後悔しても仕方がない。一度承諾したものは完遂する必要があるだろう。
だが、さすがに俺が輝夜の下着を見繕うなどという地獄みたいな展開は避けたい。ということで、そこで白羽の矢が立ったのが同性であるヒカリ。
俺と輝夜と一緒に店にいって(俺は店の外で待ってる)、輝夜の下着選びに付き合ってもらおうという目的で呼び出した。
さて、それをヒカリにどう伝えるべきか。
そもそもヒカリが輝夜のことを認識しているかどうかもよく知らない。
唐突に輝夜のことを話しても、こいつはきっと混乱するだけだ。
ここはまず結論を示し、その後に理由を述べるという……欧米的な説明の順序を取り入れてみよう。ヒカリには、その方がいいだろう。
「……中史くん?」
しばらく黙っていた俺を不審に思ってか、ヒカリが眉根を寄せる。
俺はヒカリに言った。
「下着が欲しいんだ」
「…………」
「下着が欲しいんだ――」
「…………???」
――輝夜用の。
と続けようとしたところで、ヒカリに異変が起こった。
「え、あの……そ、それって……」
ヒカリは顔を赤くして狼狽した様子。
「し、下着……って……え……」
まあ、異性から突然下着の話を出されたら無理もない。
「そっか……でも……そういうもの、なのかなぁ……」
……そう思っていると、なにやら自分の中での考えがまとまったらしいヒカリ。
「……べ、別にいい……けど」
彼女はそれを了承してくれた。
「ほ、ホントか!」
正直、変態と罵られ暴力を振るわれても甘んじて受け入れようと思っていたので、何事もなく終わってくれてよかった。
……などと、考えていると。
「でも……中史くんは、私のでも、いいの……?」
「…………は?」
……ヒカリが、なんだかよく分からない問いかけをしてきた。
(……どういうこと?)
俺がその言葉の意味を考えている間にも、
「あ、ご、ごめん……いいんだよね……ごめんね、聞き返して……!」
とか言って――いきなり、スカートの中に手を伸ばして――
「ちょ、ちょっと待て!」
「……え」
なにかひどいことになりそうな雰囲気だったので、大声を上げてヒカリの動きを制止した。
「えーっとだな……多分、ちゃんと話が通じてない。というかお前が早合点しすぎだ、多分」
「……?」
ヒカリは、不思議そうな顔でこちらを見る。
「まず……先月に月見里輝夜って生徒が転校してきたことは知ってるだろ? あいつ、実は訳あって中史で預かってるんだ。で、輝夜は下着を持ってない。俺はそれを買いに行くことになった。だが、男一人で女性モノの下着を買う訳にはいかない。だから、同性であるお前にそれを手伝ってほしいと思った。今はそれを頼みにきた」
俺は、要点を的確に伝える。
「……」
「……って、ことなんだが」
ヒカリはその話を聞いてしばらくの間放心していたが、やがて思考の整理がついたのか、
「じゃあ……下着って……その月見里さんの……?」
「ああ」
「…………」
ピキ、と音がしそうなほどヒカリが動きを完全に停止させる。
「……ヒカリ?」
「~~ぁ、~~~~っ!!!」
ぶわぁっ……と頭から湯気が出そうなほど顔を真っ赤にして、ヒカリは目を回し始めた。
「あぁ、わぁーー……、………………ああぁっ……!!」
そして、どういう感情なのかよくわからない唸り声をあげて……顔を隠すように、その場にへたりとしゃがみこんでしまった。
金髪の中からちらと覗く耳は、先まで赤く染まっている。
「…………」
まあ……ともかく「別にいいけど」という言質はとれたので、こちらとしては、よしとしておこう。
呼び出された時のヒカリ(こ、こんな時間に来てほしいって……なんだろ……な、ないとは思うけど、も、もしものことを考えて……ちゃんとした服で行かなきゃ……!)
話を聞かされた後のヒカリ(下着が欲しいって……私の……? じゃ、じゃあ……この場で渡した方がいいのかな……すごく恥ずかしいけど……中史くんのお願いだし……ぬ、脱がなきゃ……!)
かわいそう。




